豊臣時代 江戸時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:29 UTC 版)
後に六角義治は豊臣秀次によって召し出されており、大坂の豊臣秀頼の家臣としても見えている。 義治は近江八幡城主も務めた豊臣秀次に近臣として仕え、秀次家が滅亡すると豊臣秀頼に仕えた。義治の婿養子・定治は義父の跡を継ぎ豊臣秀頼の家臣となり大坂の陣を迎えた。大坂城退散後、旧重臣であった蒲生氏の客将を経て加賀国の前田氏家臣として仕え、江戸時代には加賀藩士の佐々木六角(六角)家として1,000石となり、子孫が加増され2,100石の加賀藩前田家重臣として幕末に至った。明治時代には加賀藩の上級藩士だったこともあり士族に列せられ現在に至る。 義治の弟・六角義定(観音寺騒動の後に義治に当主の座を譲られたとされる。ただしこれには反論もある。また、定治の実父でもあるが、定治の子孫を嫡流とする説でも定治は舅の義治から直接家督を譲られているため、義定は当主ではない。)の子孫も江戸幕府の旗本となった。こちらも本苗の佐々木氏を名乗っている。しかし義定の曾孫・求馬定賢が若年で死去し絶家となった。義治の弟・高一は織田信雄の家臣となり、その子・正勝は生駒氏を称し、大和国宇陀松山藩織田家の重臣となった。子孫は丹波国柏原藩織田家に仕えた。 六角氏研究を行っている中世史家の村井祐樹は六角義賢の墓所と位牌がある酬恩庵が加賀藩士の佐々木六角(六角)家と連絡を取って法要を行ってきた事実を指摘して、加賀藩士の佐々木六角家が近江守護六角氏の嫡流子孫であったと結論づけ、旗本佐々木家もその一分家であったとしている。
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