六角家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/07 05:51 UTC 版)
六角家(ろっかくけ)は、日本の家。著名な家に次のものがある。
公家・華族の六角家
六角家 | |
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本姓 | 藤原北家中御門流持明院庶流園家庶流 |
家祖 | 波多基維 |
種別 | 公家(羽林家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国平安京 |
主な根拠地 | 山城国平安京 東京市中野区氷川町 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
公家
中御門流園家の園基福の養子である右近衛少将波多基維(葉川従三位基起の三男)を初代として江戸時代に成立[1][2][3]。
2代益通は、権中納言園基量の四男で、基維の養子として波多家を継いだが、元禄13年に霊元院の仰せで家名を波多から六角に改めている[1]。これについて実父の日記『基量卿記』には、波多(はた)の称は「なみた」と混同されるし、園基顕の一男基兼が波多中将と称されていたが、一代で絶家していたり、先代の波多基維も早世したりと、縁起のいい苗字ではないので、改めたい旨を院司をもって言上し、霊元院の許しを得たという経緯が記されている[4]。
益通は従二位参議まで登り、以降これが六角家の家例となる[4]。
公家としての家格は羽林家[2][1]、新家[2][1]、外様[1]。江戸期の石高は蔵米30石3人扶持[1]。菩提寺は松林院[2]。
華族
明治維新期の当主は能通(正三位右近衛中将)だが、明治元年9月1日に死去。息子の博通が家督を相続した[5]。博通は有職、本草などに通じた[2]。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が成立すると博通も公家として華族に列した。明治維新後に定められた六角家の家禄は、現米で254石1斗[6][注釈 1]。
明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は9212円41銭5厘(華族受給者中411位)[8]。
明治前期の博通の住居は京都府上京区毘沙門町にあった[9]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として博通は子爵に叙せられた[12]。
明治33年6月19日に博通が死去すると玄通が爵位と家督を相続[5]。玄通が明治40年9月22日に死去すると英通が爵位と家督を相続[5]。英通は工学博士号を持ち[5]、逓信省官僚[3]、東北大学教授、相模工業大学校長などを務めた[5]。
昭和前期の六角子爵家の住居は東京市中野区氷川町にあった[3]。
高家・士族の六角家
六角家 | |
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本姓 | 藤原北家日野流烏丸庶流 |
家祖 | 六角広賢 |
種別 | 武家 士族 |
出身地 | 山城国平安京 |
主な根拠地 | 下野国 東京府 |
著名な人物 | 六角広胖 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が日光山輪王寺門跡となった際、東国下向に随従した烏丸光広の次男・広賢はそのまま京都に戻らず、後に江戸幕府に仕えて高家に列した際に六角院(ろっかくいん)と名乗った。そして、その子孫がこれを略して六角の家名を名乗るようになった。幕末に所領のあった下野国内で圧制を強いて、田中正造ら地元住民に激しく抵抗されたことでも知られている。
旗本としての家禄は2000石だった[13]。
明治維新後、他の高家や交代寄合と同様に朝廷に早期帰順して本領を安堵され朝臣に転じ、高家として中大夫席に列した[13]。明治2年(1869年)12日に中大夫以下の称号が廃されると東京府貫属士族に編入された[13]。
1884年(明治17年)に施行された華族令で華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や同所収『叙爵規則』案(明治11年か明治12年頃の作成と推定される。『爵位発行順序』所収)では元・高家が男爵に含まれており、六角家も男爵家の候補として挙げられていたが、最終的な『叙爵内規』では高家は一律対象外となったため結局、日野流六角家は士族のままだった[13]。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
脚注
注釈
- ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものだが、六角家のように公家の最低の旧禄30石3人扶持の家の場合は、最低保障として、本禄160石、それに分賜米と救助米を加えた現米400石として計算すると定めていたので、草高は1000石、その2割5分の254石1斗が家禄となった[7]。
- ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[10]。六角家の場合は直任か否か以前にそもそも大納言に就任した当主がいなかった[11]。
出典
- ^ a b c d e f 橋本政宣 2010, p. 387.
- ^ a b c d e 太田 1934, p. 6571.
- ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 323.
- ^ a b 橋本政宣 2010, p. 388.
- ^ a b c d e 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 843.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 11.
- ^ 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
- ^ 石川健次郎 1972, p. 63.
- ^ 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年) 。
- ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
- ^ 野島寿三郎 1994, p. 1016.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 339.
- ^ a b c d 松田敬之 2015, p. 786.
出典
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- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。
太田, 亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 六角 ロツカク」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、6570-6571頁。 NCID BN05000207。 OCLC 673726070。全国書誌番号: 47004572 。
- 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。 ISBN 978-4642057851。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。 ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。 ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。 ISBN 978-4820540342。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。 ISBN 978-4121018366。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。 ISBN 978-4642014724。
- 野島寿三郎『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年(平成6年)。 ISBN 978-4816912443。
- 橋本政宣『公家事典』吉川弘文館、2010年(平成22年)。 ISBN 978-4642014427。
六角家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 15:33 UTC 版)
六角 朝純(ろっかく ともずみ) 高家肝煎旗本。四位少将。総兵衛が土屋家の“影”と決別した後に現れ、影旗本としての任が続く事を告げる。 娘は能勢家に嫁入りした結佳。
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