土御門家
土御門家
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土御門家
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土御門家
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土御門通親……源雅通の子。正二位。内大臣。 土御門定通……通親の子。土御門家の祖。正二位。内大臣。 土御門通行……通親の子。正二位。権大納言。定通の弟。 土御門顕定……定通の子。正二位。権大納言。早く出家。 土御門通持……通行の子。従二位。参議。 土御門定実……顕定の子。従一位。太政大臣。 土御門雅房……定実の子。正二位。大納言。
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土御門家
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土御門 夜光(つちみかど やこう) 声 - 置鮎龍太郎(少年時代 - 石川界人) 半世紀ほど前の人物で、先の大戦中に現代の陰陽術の礎を築いた稀代の大天才にして「伝説の陰陽師」。生前は大日本帝国軍人であり、復活した陰陽寮においては陰陽頭を務めた。安倍晴明の再来とも称えられたほどの天才陰陽師であり、その比類無き天賦の才を以て廃れつつあった呪術界を復興させ、土御門家を再び繁栄に導き、現代においてもなお彼が遺した功績は計り知れない。しかしながら、何らかの大儀式によって東京に霊災を引き起こした張本人でもあり、彼の所行により現在の土御門の名は悪名として通っている。土御門家の栄光と衰退を象徴する存在。彼を信奉する者たち(=夜光信者)からはその名前を北極星になぞらえられ、「北辰王」と敬称されている。 既に故人だが、源司や至道などの高位陰陽師の研究により、失敗したと思われた儀式は実際には成功しており、現代に転生を遂げた可能性が極めて高いとされていた。そして、星詠みによって「土御門泰純の息子として転生する」と予知され、その転生は確実なものとなった。長らく、土御門家次期当主の夏目こそがその転生者であると目されていたが、それは現土御門家による偽装工作であり、実際には春虎として転生していた。 土御門 泰純(つちみかど やすずみ) 声 - 速水奨 土御門家現宗主で夏目の父。星詠みの力を持つ。 実は春虎の実父。夜光が実の息子に転生するという星を読み、彼にその業を背負せまいと春虎を鷹寛と千鶴に預け、自身は若杉家から夏目を引き取り育てた。感情を表には出さなかったものの、夏目には「身代わり」としてではなく、実の子同然の愛情を注いでいた。 第二部でも鷹寛たちと行動を共にしており、星詠みで春虎が星宿寺を訪れることを察知した。その後、秋乃を同行者に加えて東京に潜伏していたが、二月末日に夜叉丸と蜘蛛丸に先手を打たれ、鷹寛や千鶴と共に拘束された。そして、鷹寛たちとは別の場所に幽閉された。雪風(ゆきかぜ) 土御門家に仕える白馬の式神。鈴鹿との戦闘では夏目が、「上巳の再祓」ではあらかじめ倉橋塾長のもとに形式を郵送し、冬児が借りて使用している。一部終盤では春虎の暴走を止めるために夏目と、陰陽庁から春虎を奪い返すために冬児と共に行動した。 土御門 鷹寛(つちみかど たかひろ) 声 - 志村知幸 春虎の養父。土御門の分家筋であり、泰純の式神。名うての陰陽医だが元呪捜官で、その実力は健在。冬児の治療と封印を施した人物で、第一部の終盤まで彼の診察を続けていた。 第二部でも泰純たちと行動を共にしており、星宿寺近辺で山城に捕えられそうになっていた夏目を、千鶴と共に救った。 土御門 千鶴(つちみかど ちづる) 声 - 渡辺明乃 春虎の養母。実年齢に反して若々しい外見を持つ。 元祓魔官の凄腕陰陽師。雷の術を得意とし、「人間発電機」の異名(本人は「アキバのラムちゃん」「祓魔局の天神小町」「閃光のレディ・サンダー」と自称しているが、そちらはあまり広まっていない模様)を持つ、かつての霊災修祓部隊の女隊長。十二神将ではなかったが、当時は破壊力だけなら当代五指に入ると言われるとまで謳われた。 陰陽庁による土御門家襲撃の際、泰純や鷹寛と共に屋敷を燃やして逃亡し、地方都市に潜伏していたが、夏目の死の報せを聞き、動揺する。 第二部でも泰純たちと行動を共にする傍ら、夏目に呪術を教えているようで、夏目に自身の式神・霹靂を譲った。星宿寺近辺で山城に捕えられそうになっていた夏目を、鷹寛と共に救った。 土御門 優子(つちみかど ゆうこ) 泰純の妻で、春虎の実母。旧姓は若杉(わかすぎ)で、土御門家の支流に当たる。 春虎を産んだ後、20代の若さで早世している。実は飛車丸が土御門小蔭に残した置き手紙を読んでおり、飛車丸の正体を知っていた。その為、春虎を出産してすぐに訪問して来た飛車丸に「お飛車さん」と呼んで、春虎のことを頼んだ。 彼女の母親も夏目が小学校に上がる前に病気で亡くなっているが、泰純の手伝いで夏目の世話をしており、夏目から「若杉のお祖母ちゃん」と慕われていた。 土御門 小翳(つちみかど こかげ) 夜光の妹。#過去編の登場人物を参照。
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土御門家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 07:56 UTC 版)
大陰陽師・安倍晴明の末裔にして陰陽道の名門一族。その出自故に陰陽道における家格では最高位を誇り、かつては国の祭事の中心にいた。しかし、時代の流れと共に実権は分家筋の若杉家や倉橋家へと移り、その地位は担がれる神輿同然に形骸化していった。ところが、第二次世界大戦期に現れた若き当主・土御門夜光の功績によって、土御門の名は呪術界の頂点へと返り咲き、そしてその夜光によって再び地に落ちることとなる。現在の土御門家は東京から遠く離れた片田舎にてひっそりと暮らしており、その権力はもはや無きにも等しい。とはいえ、呪術界の中心から遠ざかってなお、優秀な陰陽師を何人も輩出している。
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土御門家
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平安時代の陰陽師である安倍晴明の系譜を引き、陰陽道を家業とした京都の公家で、江戸時代の1683年に将軍の徳川綱吉から「占いを行う者は全て土御門家の差配に従うように」という朱印状が出され、陰陽師らを統括する陰陽道宗家とされた。万歳は元来、新年を言祝ぐ芸能であり儀式でもあったため、万歳師は陰陽師と同じ括りであった。そのため三河万歳の万歳師は土御門家から免許状をもらい、毎年貢納料を納めて江戸をはじめ関東17カ国を巡回する権利を得ていた。いわゆるこのお墨付きがあるおかげで、通行手形なしで関所を通過でき、万歳をするために江戸城内や大名の屋敷にも入ることができた。
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土御門家(村上源氏)
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鎌倉時代初期に権勢を振るった村上源氏嫡流の内大臣源通親(土御門通親)の子孫。通親の四男である内大臣・土御門定通が祖。定通の孫で太政大臣に昇った定実をはじめ、室町時代初期まで清華家の家格を維持したが、室町時代中期に有通が早世し絶家した。 通親の長男・通宗や六男・通行も土御門を号し、特に通宗は死後後嵯峨天皇の外祖父として左大臣を贈られたが、いずれも鎌倉時代に絶家した。
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土御門家(安倍氏)
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「阿倍氏#陰陽道安倍氏」も参照 平安時代の陰陽師(天文博士)安倍晴明を祖(実質的な始祖)とする安倍氏嫡流一族の末裔で、朝廷に仕える公家。家格は半家。明治以降は華族(子爵)。 代々陰陽道(ことに天文道)を家学とし、安倍氏嫡流として、安倍氏の氏長者を代々勤めた。安倍氏は、室町時代に他の公家同様本姓ではなく「土御門」という家名(苗字)を称するようになる。一般的には室町時代の当主・安倍有世が土御門と称した最初とする説もあるが、実際には室町時代中期から戦国時代にかけての当主・有宣から正式に土御門の家名を名乗ったといわれている。 応仁の乱以来の戦乱を避けて、有宣以降4代にわたり若狭国南部の遠敷郡名田庄(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将を務めた強大な守護大名武田氏の守護国であり、庇護に与るため都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。江戸時代初期に土御門久脩が徳川家康の命令で完全に京都に戻り、御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた。天皇即位や征夷大将軍宣下の儀式時には天曹地府祭という祈祷を行った。 江戸時代中期の当主・土御門泰福(1655年 - 1717年)は天和3年(1683年)、全国の陰陽師の支配・任免を土御門家の独占とすることに成功して、土御門家は唯一の陰陽道宗家として全盛期を迎える。以降陰陽頭は土御門家が独占することとなる。さらに泰福は、神道家山崎闇斎に師事して、陰陽道と垂加神道を融合した土御門神道を創設した。以後、陰陽師等各種の免状を得るためには土御門家門下になる必要があった。 土御門泰福は幕命によって渋川春海が着手していた改暦計画(いわゆる貞享改暦)にも参画し、完成の際には陰陽頭の地位をもって幕府主導で作成された新暦法を朝廷に奏請して認可を取り付けた。以後、当時の暦家だった幸徳井家(賀茂氏末流)の没落も重なった事で、土御門家は陰陽寮の所管する「陰陽(占い)」「天文」「暦」すべての分野を掌握するにいたった。あわせて前記の通り土御門家は陰陽師等の任免権も持っていたので、その権力(権利)は非常に大きいものとなった。 土御門家は、実質的には幕末の当主土御門晴雄(文政10年(1827年) - 1869年(明治2年))を最後として、明治以降は陰陽道や天文学を公的に継承する家ではない。 1869年に華族に列し、1884年に華族令が出されて五爵制が発足すると晴雄の養嗣子晴栄(安政5年/安政6年(1859年) - 1915年(大正4年))が子爵を授けられ、貴族院議員も務めた。 戦後はかつての土御門家の知行地である福井県遠敷郡名田庄村(現・大飯郡おおい町名田庄)に宗教法人「天社土御門神道本庁」を置き、時の当主・土御門範忠(1920年(大正9年) - 1994年(平成6年))が同管長を務めていたが、範忠が1994年(平成6年)に死去して後、土御門家は土御門神道に一切関与してしない。当代の土御門神道の代表(天社土御門神道本庁長)は旧家臣の末裔となり、土御門家の末裔ではない。 なお、安倍晴明の男系血脈は、宇多源氏綾小路家の子で安倍氏庶流倉橋家の養子となった倉橋有儀(1738年 - 1784年)と、その息子で土御門家の養子となった土御門泰栄(1758年 - 1806年)の代で断絶しており、現在の土御門家・倉橋家当主はいずれも更に養子相続を繰り返した結果、戦国時代の当主・土御門有脩から数えて共に4回も女系を経た遠縁となってしまっている。2020年(令和2年)現在に残る土御門家の末裔としては、現状の最後の男性当主である土御門範忠の娘、土御門善子(1959年(昭和34年) - )が一人のみで他の子孫との連絡も取れず、菩提寺である梅林寺の墓も劣化が進んでいる。 詳細は「土御門有脩#末裔」および「土御門久脩#末裔」を参照
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土御門家(藤原北家)
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南北朝時代の柳原資明(柳原家の祖)の子である保光を祖とする公家。保光と息子資家は権大納言に昇った。 だが、嘉吉元年(1441年)7月資家の子である頭弁長淳が出家して唐橋在豊の子を猶子に迎えて家督を譲ろうとしたところ、宗家の日野家をはじめとする一門の諸家が菅原氏系の唐橋家からの猶子に反対したのをきっかけに朝廷の議論は紛糾して室町幕府もこれに介入し、最終的には後花園天皇の勅裁によって6か所の所領全てを没収され、1か所は唐橋在豊の子に与えられ、残り5か所は中御門家・四辻家(ただし、洞院家と所領交換される)などに5分割に処せられて絶家させられた
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