五辻家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/23 14:17 UTC 版)
五辻家 | |
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本姓 | 源氏(宇多源氏)同祖 |
家祖 | 源時方 |
種別 |
公家(半家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国平安京 |
主な根拠地 |
山城国平安京 東京府東京市渋谷区 |
支流、分家 |
慈光寺家(半家) 西五辻家(奈良華族) 三木家(地下家) 春日家(地下家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
五辻家(いつつじけ)は、宇多源氏の一流である公家・華族である。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家[1]。
歴史
宇多源氏庭田家と同祖であり、源時方(ときまさ)を祖とし、鎌倉時代初期の五辻仲兼以降に五辻家を称する。極官は従二位、非参議。家業は神楽。旧家。江戸時代の家禄は200石[注釈 1]。居所は西殿町北側。菩提寺は洛東西方寺。
家祖の時方は左大臣・源雅信の子だが、五位少将まで昇進するも若くして卒去。その後、子孫は受領となり代々五位止まりであった。
鎌倉時代初期の仲兼は四ヶ国の国司を務め従四位上まで昇進し、この頃より五辻の家号を称するようになった。仲兼以降は蔵人や北面武士を務める地下家だったが、室町時代末期の天文7年(1538年)に五辻諸仲が従三位に叙せられて、堂上家に加わる。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると五辻家も公家として華族に列した[2][3]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として安仲が子爵に叙された[5]。
その息子治仲は貴族院議員に2回当選して務めた[6]。その孫規仲の代に五辻子爵家の邸宅は東京市渋谷区青葉町にあった[6]。
系図
支流
支流に、明治維新後興福寺明王院住職から還俗した文仲が興した奈良華族の西五辻家、仲兼の孫の仲清を祖とする慈光寺家及び、その庶流の中川家(二条家諸大夫)・三木家(伏見宮家諸大夫)、時方の玄孫にあたる仲親の子の仲康を祖とする春日家(久我家諸大夫)がある。
脚注
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の五辻家領は、山城国葛野郡西八条村のうち8石1斗8升4合、山城国葛野郡東寺廻りのうち46石3斗7升9合、山城国葛野郡七八条村のうち3石7斗6升1合、山城国葛野郡朱雀村のうち5斗2升3合、山城国葛野郡下山田村のうち4石6斗8升9合5勺、山城国乙訓郡鶏冠井村のうち50石、山城国乙訓郡下植野村のうち86石5升1合であり、合計7村・199石5斗8升7合5勺。
- ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[4]。
出典
参考文献
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 『五辻家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
- 植田真平・大澤泉「伏見宮貞成親王の周辺 : 『看聞日記』人名比定の再検討」『書陵部紀要』66号、宮内庁書陵部、2014年。
五辻家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/06 02:17 UTC 版)
家経の後は五辻家と称される藤原北家花山院家の分家として続いていく。家経の跡を継いだのは二男の雅継であり、安倍春元の娘との間に生まれた忠継が雅継の跡を継ぐ。忠継と平高輔の娘との間に生まれたと考えられる忠子は後醍醐天皇を生んで談天門院の女院号を得る。一方、忠継と卜部兼直の娘との間には経氏が生まれ、経氏の娘である経子は後伏見天皇を生んだ。 鎌倉時代後期に五辻家が持明院統と大覚寺統、典侍を出す家となり結果的に双方の外戚となった背景は今後の検討を要する。
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