だいかくじ‐とう【大覚寺統】
大覚寺統
大覚寺統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/23 18:59 UTC 版)
前述のように、守良親王は鎌倉幕府の介入により屋敷を実子ではない人物に譲らされた。これは当時の将軍・守邦親王と深草宮(煕明親王)が兄弟であったことによるものと考えられ、守良親王の本意ではなかったと思われる。正慶2年/元弘3年(1333年)、足利高氏の軍に追われ、光厳天皇らを連れて東国へと落ち延びようとした六波羅探題の軍勢を討ち取った近江国の野伏たちが「先帝第五宮」を擁したと伝えられている(『太平記』第9巻「番場自害事」)が、この第五宮は守良親王であるとされている。また、この頃に南部氏や多賀大社に対して討幕への助力を求めたとされている。その後、経緯不詳ながら五辻の館のみは守良親王に返却されたらしく、守良親王皇子・宗覚は後にこの屋敷を大徳寺に寄進した。宗覚も「五辻宮」と呼ばれていた(二代目五辻宮)。その後また「五辻宮」なる人物が後醍醐天皇により九州に派遣されたという。この「五辻宮」は守良親王の子孫と思われるが詳細は不明である。永享4年(1432年)、後崇光院の元に「五辻入道宮」なる人物が訪れ、九州の所領について斡旋を要請した。そこで後崇光院は大内氏に宛てて添状を書き、更に、宮の子息に偏諱を与えて「成煕」を名乗らせたという(『看聞日記』永享4年8月22日)。「五辻入道宮」と成煕は添状を持って九州に下向したが、その後の二人の消息は不明である。
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