守邦親王
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守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9か月と在職期間が最長であった。また、親王の身位を持ちながら、生涯京都の地に足を踏み入れることがなかったと考えられている。8代将軍久明親王の子。
注釈
- ^ 将軍に就いた日も定かではなく、『皇代暦』は8月10日、『武家年代記』は8月26日、『保暦間記』は8月29日とする[3]。
- ^ 守邦は天皇の孫であるため本来は王の品位を得るはずだが、特に条件も付けられずに親王宣下を受けている。これは守邦の異母弟の久良が一旦源氏に臣籍降下した後に花園院の猶子として皇籍復帰・親王宣下を受けているのと対照的である[3]。
- ^ 北条高時が当主の頃には得宗の地位すら形骸化し、真の実権は長崎円喜ら御内人に握られていた[4]。
- ^ 祖父の義宗が宗尊親王、父の久時が久明親王と、赤橋流北条氏の当主は代々、皇族将軍と烏帽子親子関係を結んでいた[8]。ただし久時は惟康親王在任時、守時は久明親王在任時からそれぞれ官位を受けるなど既に元服していた可能性もある。
- ^ 北条氏得宗家の当主は代々将軍と烏帽子親子関係を結んでおり[8]、祖父の貞時と父の高時を除く歴代当主は烏帽子親である将軍から一字を拝領していた。邦時の場合、既に「守」の字を与えられた守時がいたので「邦」の字を与えられたものとみられる。
出典
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