宮将軍が鎌倉幕府に果たした役割
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「宮将軍」の記事における「宮将軍が鎌倉幕府に果たした役割」の解説
そもそも、鎌倉幕府は朝廷の律令制度を巧妙に利用して成立した統治機構であった。幕府の政治機構である政所の開設は従三位以上の貴人に許される特権であり、政所の職員は朝廷から叙位を受け官吏としての処遇を受ける。幕府の統治を支えた守護地頭制や大犯三箇条も朝廷の勅許・勅命によるものであった。そのため、源氏将軍であれ摂家将軍であれ、代々の将軍は位階が三位に達しない段階では政所を開設できず、また幕府の命令書も将軍が三位に昇るまでは袖判下文、三位以上となった段階で政所下文とその格式を採用することができた。宮将軍擁立以降の統治機構は政所となり、また、その命令書も政所下文となることが常となった。鎌倉幕府の法的な正当性が常時保たれることとなったのである。まして、親王ともなれば、その命令書は令旨として法的な効果を有するものである。 また、名目上の存在であっても、将軍はあくまでも幕府の首長であり、すべての御家人の主君であることから、御家人たちに対して一定の求心力が要求された。そのため、もとは伊豆の一介の小豪族に過ぎない出自の低さから北条氏は、将軍職に就くことはできなかった。 後鳥羽上皇による承久の乱では鎌倉幕府の勝利に終わったものの、鎌倉幕府が朝廷より征夷大将軍としての任命を受けて成立している以上、朝敵とされれば政権としての正当性を失いかねず、摂家将軍は安定性を欠いていた。実際、頼経が傀儡であることを嫌い幕府の実権を北条氏から奪取しようとしたことは、幕府及び北条氏が摂家将軍に見切りをつける大きな要因となった。その点、宮将軍は鎌倉幕府と朝廷を結びつける役割を果たし、幕府の存在自体を正当化させる上で非常に大きな意義を持った。 康元2年(1257年)2月26日、北条時宗(のち第8代執権)は宗尊親王を烏帽子親として元服し(『吾妻鏡』同日条)、その偏諱(「宗」の字)を賜った。その後「得宗専制」が始まると、時宗の子・貞時とその子・高時は惟康親王・守邦親王の偏諱を受けなかったが、鎌倉時代末期の元徳3年/元弘元年(1331年)に元服した高時の嫡子は、将軍・守邦親王の偏諱を賜って「邦時」と名乗っている。その他、第6代執権・長時の系統にして得宗に次いで高い家格を誇る赤橋流北条氏の歴代当主(義宗―久時―守時)も宗尊親王、久明親王、守邦親王の偏諱を受けている。のちに執権となる人物が宮将軍の偏諱を受けたのは、第8代執権・時宗と第16代執権・守時の2名であった。
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