宮将軍と両統迭立問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 01:12 UTC 版)
一方で、後嵯峨天皇の段階になって宮将軍が成立した背景には朝廷側の事情の存在した事実が近年指摘されている。 これまで宮騒動及び摂家将軍制の終焉について、九条頼経と北条氏の対立という幕府側の問題だけで語られる傾向があったが、近年になって同時並行的に承久の乱で佐渡国に流された順徳上皇の関係者(生母の修明門院や皇子の忠成王ら)が後嵯峨天皇を排除して皇位を自己の系統に奪還するために頼経の父である元関白の九条道家に接近しており、土御門上皇系の皇統(後嵯峨天皇)・西園寺家と順徳上皇系の皇統(忠成王)・九条家の対立に発展していた朝廷内部の事情が明らかにされている。こうした状況下で後嵯峨上皇は幕府との連携を強化することで、順徳上皇系に対する牽制を図ろうとしたと考えられ、幕府側から申し入れられた宮将軍の構想は渡りに船であったと言える。 最初の宮将軍には後深草天皇の異母兄である宗尊親王と同母弟である恒仁親王(亀山天皇)が候補に挙がったが、選ばれたのは生母の身分の問題により皇位継承の可能性が低かった宗尊であった。とは言え、宗尊も曾祖母である承明門院(土御門上皇の生母)に育てられ、断絶した後高倉院の皇統に残されていた所領(室町院領・式乾門院領)の未来領主に指定されるなど、後深草・亀山両天皇に次ぐ存在として扱われていた。それは将軍就任後も変わらず、正室は摂関家の近衛家から選ばれ、将軍在任中に一品親王・中務卿に任じられるなど、その立場に変化はなかった。鎌倉幕府も宗尊の皇族としての立場を重要視しており、京都への送還直後に武藤景頼を派遣して後嵯峨上皇と宗尊の関係を取り持ち、更に宗尊当人にも所領5か所を献上するなど、宗尊との関係維持に努めている。 宗尊親王の後を継いだ息子の惟康親王(正確には惟康王→源惟康→惟康親王)の就任にあたっては、幕府は二階堂行忠・安達時盛を使者として上洛させて惟康王の次期将軍就任の奏請を行い(『外記日記』文永3年7月21日条)、これを受ける形で治天の君である後嵯峨上皇がわずか3歳で従四位下征夷大将軍に任じており、依然として治天の孫王としての礼遇を受けている。しかし、その4年後には従三位左近衛中将に任ぜられて臣籍降下した。この問題も幕府内部の問題だけでは論じることが出来ず、惟康の将軍就任から2年後に兄である後深草上皇の皇子を斥けて弟である亀山天皇の皇子世仁親王(後宇多天皇)が立太子されたことが関わっている。亀山天皇の子孫による皇位継承の方針が打ち出されたことで宗尊親王系が皇位継承に関わる可能性が失われ、朝廷からも源氏への臣籍降下が求められたのである。ところが後嵯峨法皇が亡くなった後、後深草上皇が巻き返しに成功し、煕仁親王(伏見天皇)の立太子、そして即位が実現する。しかし、伏見天皇の践祚の1か月前、亀山院政(後宇多天皇)最後の決定の1つとして惟康の皇族復帰・親王宣下が決定されたのである。猶子関係もないままに孫王である惟康に親王宣下が認められた背景には、後深草上皇の系統の復権が確実になった中で亀山上皇系=大覚寺統が宗尊親王系を自己の皇統に取り込む方針に転換したためと考えられている(その後、惟康の2人の妹である掄子女王と瑞子女王が共に後宇多上皇の妃になっている)。しかし、2年後に伏見天皇は皇子・胤仁親王(後伏見天皇)の立太子を幕府から認められる。その結果、後深草上皇系=持明院統の皇位継承権が確立され、両統迭立が成立することになる。そして、後深草上皇は大覚寺統と密着した宗尊親王系に代わって自己の皇子を将軍に就けるように幕府に求めるようになり、胤仁の立太子から5か月後に惟康親王は京都に送還されることになった。将軍としての惟康の立場は両統迭立の成立過程と密接に関わっていたと言えよう。 後深草上皇の皇子である久明親王は持明院統と鎌倉幕府の関係強化のために将軍職に就けられたが、その一方で正室として惟康親王の娘を迎えた。これによって義理とは言え、惟康と久明は父子関係が結ばれることになり、宗尊親王以来の世襲が維持される形になった。そして、惟康親王の娘は後継者となる守邦親王を生んだことで、宗尊-惟康=久明-守邦という継承が成立することになる。久明親王が送還された直後に大覚寺統の後二条天皇が崩御して持明院統の花園天皇が即位しているものの、2つの出来事に相関関係を見出すことが出来ず、完全に幕府側の事情によるものなのか、それとも朝廷側に別の事情があったのかは不明である。 最後の将軍となった久明親王の息子の守邦親王は、後深草上皇の孫王にあたるため、本来であれば「守邦王」である筈であるが、将軍宣下の翌日に親王宣下を受けている。天皇や院との猶子関係の無い孫王が親王宣下を受けることは惟康親王の先例によるものと思われるが、守邦の場合は孫王身分のまま親王宣下を受けており、極めて特殊な事例であった。また、孫王でありながら鎌倉で生まれ、幕府滅亡後に恐らく鎌倉で没したと推定され、京都の地に一度も足を踏み入れることなく生涯を終えたという点でも極めて特殊な存在であった。 前述のように惟康と久明を婚姻を介した義理の父子と理解した場合、宗尊親王から守邦親王まで父子による将軍職と親王の品位の世襲が実現していたことになり、宗尊親王を祖とする「親王将軍家」という家系の存在が認識可能となる。親王と将軍職が不可分で、猶子関係のない孫王であっても親王宣下を受けられたという点では後世の宮家とは性質は異なるものの、その先駆的な性格は持っていたと言える。また、最後の将軍となった守邦を例外として、歴代の宮将軍は鎌倉幕府によって一方的に将軍職を解任されて京都に送還されているが、いずれも帰洛後も親王の身分を剥奪されることもなく、皇室の成員の1人として遇されている点でも特別な待遇を受けていたと言える。
※この「宮将軍と両統迭立問題」の解説は、「宮将軍」の解説の一部です。
「宮将軍と両統迭立問題」を含む「宮将軍」の記事については、「宮将軍」の概要を参照ください。
- 宮将軍と両統迭立問題のページへのリンク