将軍就任
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建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われる。母の政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に千幡を従五位下征夷大将軍に補任した。10月8日、北条時政邸において12歳で元服し、後鳥羽院の命名により、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は門葉筆頭の平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄の頼家は北条氏の刺客により暗殺された。 元久元年(1204年)12月、京より後鳥羽の寵臣坊門信清の娘であり、後鳥羽のいとこに当たる信子を正室に迎える。「吾妻鏡」によれば、正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。しかし実朝はまだ幼く、この決定は実際は時政と政子の妥協の産物とする説もある。元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。 系譜源義朝 北条時政 牧の方 源頼朝 北条政子 北条義時 坊門信清 源頼家 源実朝 坊門信子 公暁
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将軍就任
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寛永18年(1641年)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれる。乳母は矢島局、三沢局。 父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたという。その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。 正保元年(1644年)12月、名を家綱と改め、正保2年(1645年)4月に元服する。慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移る。 慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられた。幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。 12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後(最後の慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなる。
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将軍就任
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同年3月7日、高国と対立した義稙が京都を出奔し、同月22日に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったため、高国が警固の職務を行った。これにより、義稙は天皇の信任を失い、その放逐を決意した高国は新将軍の擁立を決めた。当時、義維は高国と敵対する細川澄元のもとで育てられていたため、政情不安により播磨各地を義村とともに転々とする亀王丸が、新将軍として京へ招かれることとなった。 4月19日、高国は若狭守護の武田元光に上洛を促すとともに、義村と対立する浦上村宗にも呼び掛けた。村宗は義村に忠節を誓って和睦し、亀王丸を義村のもとから引き離した。亀王丸を失った義村が村宗に謀殺されたのは、その5ヶ月後のことであった。 7月6日、亀王丸は播磨から3万人の供勢を引き連れて上洛し、高国の歓待を受けた。その後、仮の御所として上京の岩栖院に入った。公家の鷲尾隆康は自身の日記に「不慮の御運で、誠に奇特だ」と、新将軍の座に転がり込んだ亀王丸を珍しがっている(『二水記』)。 7月26日、亀王丸は学習開始の儀式「読始」を行い、28日には朝廷から高国と東坊城和長によって考えられた義晴の名を与えられ、従五位下に叙された。 8月9日、元服前の儀式である涅歯(鉄漿で歯を黒く染める儀式)を行い、8月29日には内裏へ代始の参賀を行った。また、高国の判断を受け入れた朝廷からは、11月25日に正五位下・左馬頭に任ぜられた。 12月24日、義晴は新たに御所と定められた三条御所に移り、元服を行った。元服は足利義政の故実に則って行われ、高国が加冠役を務めた。 翌25日、朝廷から征夷大将軍に補任され、第12代将軍となった。また、同日に政務をとり始めるための儀式「沙汰始」、「評定始」、「判始」が執り行われた。 とはいえ、11歳の義晴には実際の政務を行うには未熟で、細川高国や政所執事(頭人)の伊勢貞忠、飯川国信や大舘尚氏(常興)に代表される義澄を支持していた幕臣(中には義晴と共に播磨に下っていた者もいた)、播磨国に所領を持つ奉公衆・三淵晴員の姉で大舘氏の養女ともされる佐子局(後の清光院)(義晴の養育係)らが政務の運営にあたった。
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