将軍家茂の上洛とは? わかりやすく解説

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将軍家茂の上洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 14:29 UTC 版)

上洛」の記事における「将軍家茂の上洛」の解説

第14代将軍家茂の上洛は朝廷からの攘夷要請受けてのことであり、幕府朝廷関係修復目的があったとされる家茂三度上洛し、三度目の上洛のまま大坂城にて死去している。著名な新撰組前身である浪士組は、上洛する徳川家茂警護のために作られ組織であった二度目の上洛の際、幕府保有洋式蒸気船翔鶴丸」を使用した海路採用している。 最初の上洛においても不安定な政情考慮し、また将軍格式での先例習った道中では大掛かりになり、尊皇派刺激すること、また費用150万両とも試算されたことを避けるために海路検討され、ただし道中避難港施設整備の命が出されたが、諸般の事情前例がない。また、イギリス海軍による生麦事件報復懸念された)により陸路選ばれている。 華美さをなるべく排しとはいえ老中若年寄以下、騎馬100銃手大小700を含む3000からなる行列であった。この行列歌川国貞16名の絵師により、大判錦絵(「将軍家茂公御上洛図」)に描かれている。また、「昭徳院殿御上洛日次記」として記録が残る。道中久能山東照宮参拝し名古屋では尾張藩浜屋敷に宿泊している。寺や本陣といった既存施設利用し家光以前とは比較ならない行列規模ではあるがそれでも3千人であり、道中諸藩宿泊先などは対応に苦労した記録残っている。 この往路陸行では22日要したのに対し帰路で「順動丸」を使った際には僅か3日余で江戸帰れたことが、二度目の上洛の際の海路選択理由とされるその他に尊皇派による沿道治安問題もあった。この上船行の際に海が荒れ家臣らに船酔い続出し側近らは陸行への途中変更進言したが家茂は「海上のことは軍艦奉行勝海舟)に任せよ」として却下した家茂復路にも「翔鶴丸」を使用した三度目の上洛は第二次長州征伐軍勢率いていたため、陸路となった家康所縁の金の扇の馬印掲げた軍勢は、天候都合、また大軍勢を率いていたため京まで一月以上を要し前回陸路違い沿道諸藩城郭宿泊所として多く利用している。家康所縁の寺などの参詣意識的に行っている。 家茂大坂城にて客死したのち、遺骸蒸気船長鯨丸にて江戸へ運ばれた。

※この「将軍家茂の上洛」の解説は、「上洛」の解説の一部です。
「将軍家茂の上洛」を含む「上洛」の記事については、「上洛」の概要を参照ください。

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