将軍家茂の上洛
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第14代将軍家茂の上洛は朝廷からの攘夷の要請を受けてのことであり、幕府と朝廷の関係修復の目的があったとされる。家茂は三度上洛し、三度目の上洛のまま大坂城にて死去している。著名な新撰組の前身である浪士組は、上洛する徳川家茂の警護のために作られた組織であった。 二度目の上洛の際、幕府保有の洋式蒸気船「翔鶴丸」を使用した海路を採用している。 最初の上洛においても不安定な政情を考慮し、また将軍格式での先例に習った道中では大掛かりになり、尊皇派を刺激すること、また費用が150万両とも試算されたことを避けるために海路が検討され、ただし道中の避難港の施設整備の命が出されたが、諸般の事情(前例がない。また、イギリス海軍による生麦事件の報復が懸念された)により陸路が選ばれている。 華美さをなるべく排したとはいえ老中・若年寄以下、騎馬100、銃手大小隊700を含む3000人からなる行列であった。この行列は歌川国貞ら16名の絵師により、大判の錦絵(「将軍家茂公御上洛図」)に描かれている。また、「昭徳院殿御上洛日次記」として記録が残る。道中で久能山東照宮に参拝し、名古屋では尾張藩浜屋敷に宿泊している。寺や本陣といった既存施設を利用し、家光以前とは比較にならない行列規模ではあるがそれでも3千人であり、道中の諸藩・宿泊先などは対応に苦労した記録が残っている。 この往路の陸行では22日を要したのに対し、帰路で「順動丸」を使った際には僅か3日余で江戸に帰れたことが、二度目の上洛の際の海路選択の理由とされる。その他に尊皇派による沿道の治安の問題もあった。この上洛船行の際に海が荒れ、家臣らに船酔いが続出し、側近らは陸行への途中変更を進言したが家茂は「海上のことは軍艦奉行(勝海舟)に任せよ」として却下した。家茂は復路にも「翔鶴丸」を使用した。 三度目の上洛は第二次長州征伐の軍勢を率いていたため、陸路となった。家康所縁の金の扇の馬印を掲げた軍勢は、天候の都合、また大軍勢を率いていたため京まで一月以上を要し、前回の陸路と違い沿道諸藩の城郭を宿泊所として多く利用している。家康所縁の寺などの参詣も意識的に行っている。 家茂は大坂城にて客死したのち、遺骸は蒸気船長鯨丸にて江戸へと運ばれた。
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