将軍家より拝領品説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:24 UTC 版)
「長曽祢虎徹 (近藤勇佩刀)」の記事における「将軍家より拝領品説」の解説
新選組関係から証言や資料が残っていないが虎徹は将軍家より拝領した刀であるという説があり、この虎徹は明治以降も伝来していたとされている。これは枢密顧問官など歴任し後に伯爵となった金子堅太郎が所持していたとされており、金子はその虎徹の拝観を求める客には、これは近藤が将軍家より拝領したものであると語っていたらしい。金子は古美術にも精通しており、特に近藤勇の虎徹と生野の変の首謀者で知られる平野国臣が所持していたとされる青江下坂作の刀が自身の収蔵物の目玉と考えていたようである。この虎徹を手に入れた経緯として、金子は晩年に以下のように述べている。 私のところに面白い閃縁の絡んだ二口の刀がある。一つは維新の先駆、生野の義挙の盟首として京都六角の牢に斬られた平野国臣の愛刀青江下阪、もう一つは近藤勇のさした長曾祢虎徹。二尺八寸の大業物だ。「今宵虎徹は血に飢えている…」と大衆小説に出てくる刀だ。(中略)虎徹の方は近藤が二京(原文ママ)守護の幕命で新撰組の大将で暴れていた頃、将軍家から賜ったもの。何かに無銘だと書いてあったが、あれは違う。打った年まで彫ってある。伏見、鳥羽の戦いから逃げて帰った近藤が、中村源兵衛という - この人の娘さんがいま川崎市長をしている村井八郎氏夫人です - 品川の本陣に泊まって、何かの抵当にそれをこの家に置いたままになってしまったのを手に入れたのだ。 二つながら大震災で焼け、灰の中から拾い出したが、とてももうだめだというので、永いこと焼身のままで置いたが、友人がしきりに再生を勧めるので先頃、打ち直させてみて驚いた。両方とも焼ける前とちっとも変わらない立派な銘刀に生まれかわった。一つは勤王の志、一つは徳川に殉じた近藤の魂、一対にしてもっているところに、別な面白さがあろうじゃないか。 — 金子堅太郎、『日本に還る』1941年 幕末・明治維新時の歴史を研究する伊東成郎によれば、品川本陣の中村源兵衛という人物がどのような人物であったかは詳細不明であるものの、明治時代には官界との関係を築いていたようであり、中村の周辺と金子が接点を持つようになったらしいと述べている。鳥羽・伏見の戦いにおいて、負傷した近藤は芝に上陸し下谷にあった幕府の医療施設に入院していた。その後、1月28日より2月7日にかけてフランス人医師のいた横浜まで出向いていることが判明している。もし品川本陣に顔を出していたとすれば通院のために横浜への往還していた時と考えることができる。 しかし、近藤勇自身が将軍家より虎徹を拝領したという記述したものは遺されておらず、もし将軍家より拝領したとすれば大変な栄誉であることから新選組の文章記録にも記録されるものかと考えられるがいずれもその記録はない。その上で仮に将軍家より拝領したとすれば、新選組隊士らが幕臣に取り立てられた1867年(慶応3年)6月以降であると推測されるが、近藤が「大小虎徹」を所持していると手紙に記していたのは1863年(文久3年)10月であることから時系列が符合しないと考えられる。 また、2020年(令和2年)6月8日配信の産経ニュースには、過去に金子が所持していたとされる近藤勇の虎徹がインターネットオークションで出品され、その刀は虎徹の贋作であるものの白鞘の字体から「近藤勇の刀」であった可能性が高いと専門家が鑑定したことが報じられた。この刀は長曽祢興正(二代目虎徹)の銘が入った刀と木製の鞘が附いており、2019年(令和元年)7月に出品されて約95万円で落札された。鞘には近藤の刀を持っていたとされる金子堅太郎の筆とみられる文字で、近藤が神奈川宿の中村家に渡したものを当主の源兵衛から手に入れたと書かれている。
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