将軍地蔵山の戦い
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この時の状況は久米田の戦いも参照。 和泉守護代の松浦氏が幼少であった為、後見として岸和田城に入っていた「鬼十河」と恐れられていた十河一存が永禄4年(1561年)3月18日に死去した。 これに乗じて畠山高政軍は岸和田城を取り囲み、またこれに呼応して、六角義賢も家臣永原重澄に命じ同年7月28日に将軍山城に立て篭もり、義賢自身は神楽岡付近に陣をはり上洛を伺った。この時六角軍は総軍で2万兵であった。 これに対して三好長慶軍は、息子の芥川山城主三好義興ら7千兵で梅津城・郡城へ、信貴山城城主松永久秀7千兵を京西院小泉城へ入城させ、勝軍山城と対陣した。 同年7月から11月までは小規模な交戦であったが、11月24日、三好軍は白川口に、松永軍は将軍山城にそれぞれ来襲し挟撃した。三好軍は白川口を突破し、細川軍が陣取っている馬淵に押し寄せての戦闘となった。この時三好軍の将であった三郷修理亮が馬ごと刺され転倒し、そこに堀伊豆守なる人物が襲いかかり首を討ち取った。細川軍の損害も大きく薬師寺氏や柳本氏などが戦死した。 一方、松永軍は永原重澄を討ち取り将軍山城を突破し、いよいよ六角義賢が陣取る神楽岡へ1万兵をもって突撃した。六角軍は三雲三郎に命じて、弓隊300兵をもって、高所より一斉射撃を加えた。松永軍は射撃を受け、多数の死傷者を出し敗走した。 義賢は直ちに追撃戦を展開しようとしたが、蒲生賢秀が大軍を持って追撃することの不可を説き、追撃戦を中止させた。翌永禄5年(1562年)正月に六角軍は三好軍に攻撃し何名かの兵を討ちとった。同年3月5日、久米田の戦いで三好実休が討ち取られるという報が伝わると、三好・松永軍は勝竜寺城まで引き揚げ、13代将軍足利義輝には岩成友通を警護につけ石清水八幡宮へ移した。六角軍は上洛し、「敵方江内通之輩」(『鳩拙抄』)とし、三好長慶軍をかくまう者、宿を提供した者は罪科とし京の人々を威圧した。 その後の状況については教興寺の戦いを参照。 永禄12年(1569年)1月6日、前将軍足利義栄を擁していた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らは、織田信長が擁する現将軍の足利義昭を京の六条本圀寺に襲撃したが(本圀寺の変)、この二日前の同月4日に三人衆は東福寺近辺に陣を置くと、翌5日に洛東や洛中周辺諸所に放火して将軍の退路を断ち、準備を整えた上で6日に将軍らの籠る本圀寺を攻めた。この5日に将軍山城も放火されているため、この時点では有事の際の将軍の詰の城、織田方の詰の城などの役割を果たしていたと推測される。 最後は、元亀元年(1570年)9月から12月まで行われた志賀の陣に際し、明智光秀がこの城に入って数カ月延暦寺を牽制したが、織田信長の京都支配が確立するとその軍事的意義を失い、廃城になったと見られている。
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