将軍地蔵山の戦いとは? わかりやすく解説

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将軍地蔵山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 17:12 UTC 版)

将軍山城」の記事における「将軍地蔵山の戦い」の解説

この時の状況久米田の戦い参照和泉守護代の松浦氏幼少であった為、後見として岸和田城入っていた「鬼十河」と恐れられていた十河一存永禄4年1561年3月18日死去した。 これに乗じて畠山高政軍は岸和田城取り囲み、またこれに呼応して六角義賢家臣永原重澄に命じ同年7月28日将軍山城立て篭もり義賢自身神楽岡付近に陣をはり上洛伺った。この時六角軍は総軍2万であった。 これに対して三好長慶軍は、息子芥川山城三好義興ら7千兵で梅津城・郡城へ、信貴山城城主松永久秀7千兵を京西院小泉城入城させ、勝軍山城と対陣した同年7月から11月までは小規模な交戦であったが、11月24日三好軍は白川口に、松永軍将軍山城それぞれ来襲挟撃した。三好軍は白川口突破し細川軍が陣取っている馬淵押し寄せて戦闘となった。この時三好軍の将であった三郷修理亮が馬ごと刺され転倒し、そこに堀伊豆守なる人物襲いかかり首を討ち取った細川軍の損害大きく薬師寺氏柳本氏などが戦死した一方松永軍永原重澄を討ち取り将軍山城突破し、いよいよ六角義賢陣取る神楽岡1万をもって突撃した六角軍は三雲三郎命じて、弓隊300をもって高所より一斉射撃加えた松永軍射撃を受け、多数死傷者出し敗走した義賢直ち追撃戦展開しようとしたが、蒲生賢秀大軍持って追撃することの不可説き追撃戦中止させた。翌永禄5年1562年正月六角軍は三好軍に攻撃し何名かの兵を討ちとった。同年3月5日久米田の戦い三好実休討ち取られるという報が伝わると、三好松永軍勝竜寺城まで引き揚げ13代将軍足義輝には岩成友通警護つけ石清水八幡宮移した六角軍は上洛し、「敵方内通之輩」(『拙抄』)とし、三好長慶軍をかくまう者、宿を提供した者は罪科とし京の人々威圧したその後の状況については教興寺の戦い参照永禄12年1569年1月6日前将軍足利義栄擁していた三好三人衆三好長逸三好宗渭石成友通)らは、織田信長擁する将軍足利義昭を京の六条本圀寺襲撃したが(本圀寺の変)、この二日前の同月4日三人衆東福寺近辺に陣を置くと、翌5日洛東洛中周辺諸所放火し将軍退路断ち準備整えた上で6日将軍らの籠る本圀寺攻めた。この5日将軍山城放火されているため、この時点では有事の際の将軍詰の城織田方の詰の城などの役割果たしていたと推測される最後は、元亀元年1570年9月から12月まで行われた志賀の陣際し明智光秀がこの城に入って数カ月延暦寺牽制したが、織田信長京都支配確立するとその軍事的意義失い廃城になった見られている。

※この「将軍地蔵山の戦い」の解説は、「将軍山城」の解説の一部です。
「将軍地蔵山の戦い」を含む「将軍山城」の記事については、「将軍山城」の概要を参照ください。

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