生い立ち、足利義昭への臣従とは? わかりやすく解説

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生い立ち、足利義昭への臣従

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 05:41 UTC 版)

細川昭元」の記事における「生い立ち、足利義昭への臣従」の解説

室町幕府34管領細川晴元の子として誕生。母は六角定頼娘。 幼少期天文21年1552年)、父が三好長慶一時的に和睦した際に人質となる。父が再び長慶敵対する管領細川氏綱と共に山城国淀城軟禁され永禄元年1558年)に11歳長慶のもとで元服した永禄4年1561年)、実弟細川晴之六角畠山軍に擁立され、将軍足利義輝の命を受け近江国に於いて三好兵を挙げる戦死した将軍地蔵山の戦い)。永禄5年1562年)、父が長慶和睦する父子久々対面果たしている(久米田の戦い)。 永禄6年1563年3月摂津国富田普門寺病没した父の跡を継ぐものの、勢力取り戻せず、管領であった氏綱の没後管領職に任命されることはなかった。 永禄8年1565年)、永禄の変将軍足利義輝殺害された後、足利義栄室町幕府14代将軍に擁立する三好三人衆により名目上管領として処遇受けた永禄11年1568年)、織田信長足利義昭擁して上洛すると、三人衆筆頭である三好長逸と共に摂津芥川山城籠城した。だが、三人衆派の他の城が織田軍に次々と落とされると、9月30日に城を捨てて長逸と共に阿波国逃亡、義栄の急死もあり義昭15征夷大将軍任じられる敵対行動続けた元亀元年1570年)、野田城・福島城の戦いにおいて三人衆加勢して当初織田軍と対峙した。同年三人衆信長和睦すると、翌元亀2年1571年12月17日上洛、やがて義昭対し臣下の礼をとり、細川京兆家歴代慣例として義昭より偏諱受けて昭元(あきもと)と名乗った義昭より重用され三好勢力が後退した後の名目上摂津旗頭とされた。名門の出であった昭元はしばし外交官としての役割果たしている。四職家当主でもある丹後国一色義道義昭臣従し、誼を求めて信長との面会求めたとき昭元はこれに立ち会い、ともに堺を見物した

※この「生い立ち、足利義昭への臣従」の解説は、「細川昭元」の解説の一部です。
「生い立ち、足利義昭への臣従」を含む「細川昭元」の記事については、「細川昭元」の概要を参照ください。

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