生い立ち、結婚・離婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 23:36 UTC 版)
「コンスタンティア・フォン・コーゼル」の記事における「生い立ち、結婚・離婚」の解説
アンナ・コンスタンティアはホルシュタイン地方デーペナウ荘園を所有するヨアヒム・フォン・ブロックドルフと、ハンブルクの裕福な商人レオンハルト・マルセリスの娘アンナ・マルガレーテの間の娘に生まれた。父方のブロックドルフ家(ドイツ語版)はホルシュタインの非常に古い名門貴族の家系だったのに対し、母は平民出身の商人の娘に過ぎず、両親の結婚は身分違いの婚姻だった。アンナ・コンスタンティアはバロック時代の貴族の女子としては異例なほど広範囲にわたる教育を授けられた。数多くの言語を学んだほか、数学、古典文学、乗馬の女乗りと男乗り、狩猟への情熱などである。また非常に気性が激しく頑固な性格の娘だった。煙管を好み、狩猟での銃の扱いも上手かったと言われる。 1694年両親は娘に宮廷教育を受けさせるため、主君のホルシュタイン=ゴットルプ公クリスティアン・アルブレヒトの住むシュレースヴィヒ近郊のゴットーフ城(英語版)へ奉公に上がらせた。アンナ・コンスタンティアは公爵の24歳の長女ゾフィー・アマーリエ公女(1670年 - 1710年)の侍女となった。翌1695年、公女が文化財蒐集家として有名なブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒの長男アウグスト・ヴィルヘルム公世子に嫁ぐと、アンナ・コンスタンティアはその随員としてヴォルフェンビュッテル(ドイツ語版)に移った。ここで彼女は最初の困難に遭遇する。ある男性(公世子の弟ルートヴィヒ・ルドルフ公子だった可能性がある)の子を身ごもり、その子を出産すると直ちにヴォルフェンビュッテル宮廷を追い出されて、両親の待つ故郷デーペナウに送り返されたのである。この時産んだ子のその後は不明である。 1699年、19歳のアンナ・コンスタンティアは、ヴォルフェンビュッテル時代の知り合いで、12歳年上のザクセン選帝侯領一般内国関税徴収局(sächsischen Generalakzise-Kollegiums)局長アドルフ・マグヌス・フォン・ホイム(ドイツ語版)男爵から求婚された。長い婚約期間を経て、2人は1703年6月2日ブルクシャイドゥンゲン城(ドイツ語版)で婚礼を挙げた。ところがホイムは結婚してわずか1年後には彼女との離婚を求めるようになった。ホイムはアンナ・コンスタンティアを嫌う理由を「権勢欲の強さと陰険さ(„herrschsüchtig und hinterhältig“)」とだけ言うにとどめている。離婚は1705年に申請され、翌1706年に手続きが完了した。離婚の理由は性格の不一致だけでなく、おそらくアンナ・コンスタンティアが過去に出産した子供の存在を夫に隠し、それが露見したのではないかと推測されている。
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