京兆家とは? わかりやすく解説

京兆家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:50 UTC 版)

細川氏」の記事における「京兆家」の解説

細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)は細川氏宗家嫡流であり、摂津丹波讃岐土佐などの守護職世襲したと同時に代々室町幕府管領職に任命受けたため、管領細川家(または細川管領家)ともいう。「京兆」とは右京大夫唐名京兆尹」のことであり、当主代々右京大夫官位に任ぜられたことに由来する。またこの官位から細川右京兆とも呼称される。前述通り、本来細川氏嫡流権勢誇っていた細川清氏失脚滅亡後清氏討伐管領として幕府細川氏隆盛の礎を築いた細川頼之清氏従弟)に始まり清氏系統に代わって頼之の系統細川氏本家嫡流となった歴代当主通字として、頼之の跡を継いだ弟の細川頼元因む「元」(もと)、一部人物は頼之に因む「之」(ゆき)の字を使用している。 頼之は中国管領四国管領歴任し讃岐阿波土佐など四国分国化を進めた中央では管領となって執政し、幼少将軍足利義満補佐して幕政統轄した。頼之は義満からの信任厚かったものの、天授5年 / 康暦元年1379年)の康暦の政変で一旦失脚する。しかし、領国四国渡り阿波中心とする分国支配堅持することにより敵対勢力退け、やがて中央政界復帰した。 頼之自身僧籍理由に、実弟養子(頼之に実子はいなかった)の頼元京都周囲固め丹波摂津守護推し、さらに管領にも推した。京兆家は同じく足利一門斯波畠山両氏とともに将軍補佐する三管領三管四職)、また室町幕府宿老として重き成していく。 室町時代中後期畠山持国との権力闘争勝利した細川勝元は、3度にわたり計23年間も管領職を歴任し実力者山名宗全(持豊)と手を結び畠山氏弱体化させた。しかし将軍家畠山家家督相続問題など畠山義就後押しする宗全と畠山政長後援する勝元対立東軍総帥として足利義視推戴して、宗全率い西軍との間で11年に及ぶ応仁の乱引き起こし、その途中病没する。 戦国時代前期畿内は、将軍と京兆家を中心とした争乱が続く。勝元の子・政元は、明応の政変10代将軍足利義材(後に義尹義稙改名)を廃し11代将軍・足利義澄を擁立して幕府実権掌握した政敵畠山政長討ち畠山斯波両氏没落し、京兆家が以後管領職を独占するようになり、細川政権京兆専制)を打ち立て畿内周辺にも侵攻し勢力拡大して細川京兆家の全盛期を築く。しかし政元は修験道心頭して女性寄せ付けなかったため実子がなく(弟もいなかった)、澄之・澄元・高国の3人を養子迎えたため(高国後付けで政元存命時の養子は澄之澄元2人だったともされるまた、高国実家野州家相続したために養子縁組解消されたとする説 もある)、家督争い生じ、政元は澄元を後継据えよう考えたものの、永正4年1507年)、不満を持った澄之派の配下暗殺される。政元の死をもって頼元以来続いた京兆家の嫡流血筋途絶えることとなった。 澄之が京兆家の家督を継ぐも、その後すぐに澄元と高国結託して澄之を討ち、澄元が家督継いで管領となる。しかし、政元暗殺好機とみた前将軍足利義尹義稙)を擁する西国大大名大内義興(周防守護)が上洛軍を起こし、澄元と不仲になった高国がこれと結びつき、翌永正5年1508年)に高国将軍義澄と澄元を京都から近江国(後には阿波国)へと追い落として義尹将軍復帰)と義興(管領代就任)を迎え入れ家督継ぎ管領となったその後高国派と澄元派に分裂し長期渡って対立続けることとなる(両細川の乱)。 約十年在京しその軍事力政権支えていた義興は、高国争っていた明貿易権益得て永正15年1518年)に周防帰国したその後高国は、一時澄元(とその重臣三好之長)側についたこともある将軍義稙不仲になって見限り新たに足利義晴病死した義澄の子)を将軍擁立するなど、管領として幕政握り周辺支配下置いていた。大永5年1525年)、高国隠居後に子の稙国が家督継ぎ管領継承したが、半年ほどで病死したため、翌年畠山義堯管領となった。京兆家による管領独占継承はここに一旦途切れたが、幕府実権は京兆家家督を再承した高国引き続き持った大永6年1526年)、高国家臣謀殺したことをきっかけ高国への反乱起こり、その動き乗じて今度病死した澄元の子細川六郎(後の晴元、この時13歳)が、軍を実質的に仕切る家宰三好元長(之長の孫あるいは子)とともに将軍義晴擁する高国対し足利義維義晴兄弟)を立てて阿波国から畿内侵攻した六郎高国追い落として堺幕府堺公方)を樹立し、さらに享禄4年1531年)には高国滅ぼし大物崩れ)、その大きな功労者であった三好元長台頭するとこれも討ち和睦した将軍義晴擁して家督継ぎ管領就任幕政京都握ったその後も、晴元高国の弟の細川晴国高国養子細川氏綱宗教一揆法華宗などとたびたび争っていたが、天文18年1549年)、元長の子で実力者となっていた配下三好長慶下克上受けて近江へと追われ細川政権崩壊した主君晴元対立する氏綱側に寝返った長慶名目上氏綱を推戴し、氏綱が京兆家の家督を継ぐが、氏綱は実権握れ長慶傀儡態となり、三好政権へと取って代わられることとなった晴元その後将軍足利義輝擁して長慶との争い続けるがかなわず永禄4年1561年)に長慶和睦しその2年後に没した翌年氏綱も没する)。晴元失脚後の京兆家はかつての権勢をすっかり失って衰退し、代わって京・畿内は織田信長上洛するまで三好氏勢力下となる。また、これにより政暗殺以降長年続いた京兆家を二分する内訌終結に向かうこととなった。 なお、戦国期室町幕府研究の進展の中で明応の政変以降の京兆家の当主代々管領務めたとする話は軍記物由来する創作過ぎず実際に重要な儀式の際にのみに在任していた(京兆家は軍事力京都周辺掌握していたため、却って幕府官職を必要とはしなかった)とする見方が有力説として浮上し大永元年1521年)に足利義晴元服終えた高国管領辞職してから室町幕府滅亡まで、管領職はずっと空席のままであったとされている(従って、この見方に立つと稙国・晴元・氏綱および畠山義堯管領就任した事実否定される)。 家督継いだ晴元嫡子細川昭元は、足利義昭仕えた。後に織田信長仕え、昭元から信良と名を改め信長姉妹正室として娶り義兄弟として織田家親族となった。昭元(信良より名を戻す)の嫡子元勝(頼範)は、豊臣秀頼近臣として大坂城在り大坂の陣では豊臣方となった大坂の陣での豊臣家滅亡後讃岐国隠棲し、後に妹の嫁ぎ先秋田実季頼って常陸国宍戸藩に赴き、そこで客分として迎え入れられた。 元勝の嫡子義元時に秋田氏家臣列し子孫陸奥国三春藩宍戸から転封)の家老として仕えた義元以降は、宣元(義元の子)、忠元(宣元の子)、孚元(三春藩家老小野寺泰忠の子で忠元の養子)、昌元(三春藩主・秋田延季の七男で孚元の養子)と家督継承されている。明治期当主和元は小学校教員巡査務めた。 京兆家(細川宗家歴代当主 太字執事管領となった人物(※便宜上晴元・氏綱も含む) 細川義季 細川俊氏 細川公頼 細川和氏 細川清氏 細川頼之細川頼春和氏の弟)の子細川頼元(頼之の弟) 細川満元 細川持元 細川持之(持元の弟) 細川勝元 細川政元 細川澄之摂関家九条政基の子細川澄元阿波守護家細川義春の子細川高国野州家細川政春の子細川稙国短期間病死後に父高国が再継承細川晴元(澄元の子細川氏綱細川尹賢高国従弟の子細川昭元晴元の子細川元勝

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