両細川の乱
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詳細は「両細川の乱」を参照 永正5年(1508年)4月、高国が京都に侵攻を開始する。この時、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正、河内国の畠山尚順らも呼応したために澄元は敗北し、之長や将軍・足利義澄と共に4月9日に山中為俊を頼って近江に逃れた。5月には摂津で抵抗を続けていた池田貞正と芥川信方(薬師寺元一・長忠の弟)が高国軍に討たれてしまう。そして6月、足利義尹が大内義興に擁されて上洛すると、やがて将軍職に復帰した義尹によって澄元の家督は剥奪され、代わって高国の家督継承が承認されることとなった。8月に大和に残った赤沢長経も畠山尚順に討たれた。 ところが大内義興と義尹が対立し始めたため、澄元と之長は永正6年(1509年)に京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて敗北(如意ヶ嶽の戦い)し澄元と之長は阿波に逃走する。なお、この時の侵攻の失敗について、澄元は阿波からの援軍との挟撃を計画していたものの、澄之→高国を支持していた讃岐の諸氏が阿波への侵攻を図り、阿波勢が動けなかったことが背景にあったという。 永正8年(1511年)には義澄、義兄弟の細川政賢(典厩家当主)や同族の細川元常(和泉守護)・細川尚春(淡路守護)、更に赤松義村(播磨守護)と連携して深井城を攻め(深井城の合戦)、一方では鷹尾城を攻め(芦屋河原の合戦)、その後京都に侵攻し船岡山合戦となる。しかし船岡山合戦以前に義澄が病死したこともあって、大内義興の反撃を受けて大敗を喫し、政賢は戦死し、澄元は摂津に逃走した。この出兵は祖父・成之や三好之長の反対を押し切って出兵したものらしく、之長が阿波守護家存続を意図して高国陣営に内通しようとした気配があるとする指摘も出されている。もっとも、この出兵の直後に成之と之持が相次いで死去したため、阿波国内で混乱が発生し、澄元と之長は和解して阿波の治安回復や讃岐における主導権回復に乗り出すことになる(なお、馬部隆弘は通説では之持の子とされる細川持隆を澄元の次男と比定し、澄元が之持の没後暫くの間、それまでは成之によって峻別されて澄元が直接関与出来なかった阿波の領国経営に関与せざるを得ず、高国との戦いの低調も澄元が阿波から離れられなかったからとしている)。 永正15年(1518年)8月、大内義興が周防に帰国すると、永正16年(1519年)に澄元と之長は摂津に侵攻(田中城の戦い)する。永正17年(1520年)1月に入ると、澄元に呼応して山城国で土一揆が発生する。そして、将軍・足利義稙(永正8年(1513年)、義尹より改名)も澄元に通じて裏切ったため、細川高国は単独で近江坂本に逃れた。これにより、澄元政権が成立する。既に高国側に離反していた細川尚春を滅ぼして淡路を手に入れ、阿波・讃岐でも巻き返した澄元は前の2度の出兵では得られなかった四国からの援軍を上陸させる構想を実現させたことが成功の背景にあったとみられる。 ところが5月、高国は大軍を集めて京都に侵攻する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて自害させられ、澄元も摂津伊丹城に敗走し、政権は短期間で崩壊した。そして失意のうちに病に倒れた澄元は、まもなく高国の攻撃を受けて播磨国に逃走し、最終的には永正17年(1520年)6月10日に阿波勝瑞城にて死去した(『応仁後記』『細川系図』『細川両家記』『諸家系図纂』)。享年32。三度にわたる出兵はいずれも失敗に終わったものの、3度目の出兵をきっかけに生じた義尹と高国の不仲や丹波国人の離反が高国の立場を動揺させ、残された嫡男六郎(後の細川晴元)と三好元長(之長の孫)による細川高国政権の打倒に繋がることになった。
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両細川の乱
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永正4年(1507年)の細川政元暗殺以来、室町幕府の実権を握る細川氏は管領細川高国と細川澄元・晴元父子の両派に分かれ、畿内近国の諸勢力を巻き込んで長期にわたる抗争を続けていた(両細川の乱)。享禄4年(1531年)に至り、細川高国は摂津国天王寺(現在の大阪市天王寺区)の戦いに敗れ、尼崎方面へ退却したところを捕らえられて自害した(大物崩れ)。
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両細川の乱(永正年間)
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「戦国時代 (日本)」の記事における「両細川の乱(永正年間)」の解説
「永正の錯乱」を参照 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 細川高国 細川澄元 永正元年(1505年)12月、畠山尚順と畠山基家の後継者である畠山義英の両畠山氏が和睦し、両者とも足利義稙方に与同し足利義澄・細川政元に反抗した。これを受けて義稙は永正3年(1506年)2月に周防からの上洛作戦を計画したが、それより早く永正2年(1505年)11月に細川政元が両畠山氏を攻撃、撃破したため作戦は回避された。 永正4年(1507年)6月、政元は後継者争いのもつれから細川澄之派の内衆に暗殺された。「天下無双之権威、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護也」と京兆家の守護任国の丹波・摂津・讃岐・土佐以外の国々にも支配を及ぼしていた政元の死は、新たな政治対立を招来した。即ち足利将軍家だけでなく、細川京兆家もまた澄元系(細川澄元‐細川晴元)と高国系(細川高国-細川晴国、細川氏綱)に分裂し、この抗争は各地方の紛争と連動しながら展開していくのである。 政元を暗殺した澄之は同年8月澄元派の高国に討ち取られ、京兆家の家督は澄元に定まった。しかし、この京都での政変を好機と捉えた周防の義稙と大内義興が上洛作戦を決行。これに澄元との関係が悪化していた高国が合流し、永正5年(1508年)4月、義澄と澄元は近江に没落し、代わって義稙が将軍に復帰した。翌永正6年(1509年)6月、澄元方は上洛作戦を実施し、澄元方の三好之長は近江から出陣し京都を見下ろす如意ヶ嶽に着陣した。しかし阿波・讃岐では京都の政争と連動し忩劇が発生しており阿波衆は渡海出来ず、敗れた澄元は義澄を近江に残して阿波に逃れた。 澄元は永正8年(1511年)再び上洛戦を開始した。澄元陣営は畠山総州家の義英が遊佐就盛を派遣した他、四国からは細川政賢、和泉上半国守護・細川元常、淡路守護・細川尚春、播磨守護の赤松義村、その他義澄方の近江勢も加勢した。これに対し義稙・高国・義興は一旦丹波に退いた後、京都に進軍し船岡山合戦で澄元軍を撃破した。またこの合戦の直前、義澄は近江で亡くなっていたため澄元は阿波に撤退した。 澄元は船岡山合戦後も京都復帰を窺い続けたが、細川成之と細川之持没後の細川讃州家立て直しのため、しばらく阿波を離れられない状態が続いた。しかし永正15年(1518年)の義興の帰国後、義稙と高国の関係が不和になった状況を捉えて、澄元は永正16年(1519年)に3度目の上洛戦を開始した。澄元は将軍の義稙を自陣営に引き入れることに成功した他、四国勢・赤松氏も澄元に加勢した。澄元勢の侵攻を止められなかった高国は近江に没落したが、澄元に通じていた義稙は京都に留まり永正17年(1520年)5月1日、義稙は澄元の京兆家家督の相続を承認した。しかし高国は六角氏と近江国人の他、越前の朝倉氏や美濃の土岐氏から派遣された部隊を含む総勢2万の軍勢で反抗作戦を敢行し、同5月5日、等持院の戦いで澄元方の主力である三好之長を破り自害させ、6月には澄元も阿波で病死した。一度は高国を見限った義稙は再び高国と共に政務に復帰したが、永正18年(1521年)に出奔し大永3年(1523年)に阿波で亡くなった。
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両細川の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 06:11 UTC 版)
一方、危機は西から迫っていた。かつて義澄の従兄弟の10代将軍足利義稙(義材、義尹)は明応の政変で政元に将軍の座から追われたが、政元の横死やその後の内乱を知ると帰洛の好機ととらえ、亡命先の周防の大内義興に上洛を求めて中国・四国の兵を集めていたのである。澄元は出家して道空と号していた祖父や高国に義興との和平工作を行なわせ、義澄にも和平を求めた。だがこの頃、澄元は高国の謀反を疑い不仲になっており、之長からも忌避されていたため、永正5年(1508年)3月17日に高国は伊勢神宮参宮と称して従兄弟に当たる伊賀守護の仁木高長を頼って行ってしまった事により和平工作は決裂した。 摂津・丹波の国衆である伊丹元扶や内藤貞正、香川元綱、香西国忠らも高国が4月9日に上洛してくると呼応して挙兵したため、之長は澄元を連れて甲賀の山中為俊を頼って落ち延びた。義澄も近江へ逃亡、高国は義稙を奉じた義興と畠山尚順と合流して政権奪取を果たし、管領と京兆家当主に任じられ権勢を振るった。 京都から逃げた之長は奪回を計画、義稙と義興の仲がうまくいかず義興が周防に帰国しようという噂があったため、11月下旬には之長ら義澄方の軍勢が京都に攻め込んでくるという噂がしきりであったが、義興が帰国しなかったためこの時の京都攻撃は見合わされた。永正6年(1509年)6月17日には3000の兵力で之長は山城と近江の境目の東山の如意ヶ嶽に布陣したが、高国や義興の反撃を受けて敗北し、嫡男の長秀と次男の頼澄は伊勢山田において高国の婿である北畠材親に攻められて自殺した(如意ヶ嶽の戦い)。この敗戦で之長は澄元と共に潜行して阿波に帰国、之長は阿波で兵力を養い、近隣に助けを求めて反撃の準備を進め、近江に亡命していた義澄も大友親治らに書状を送って活発な動きをしていた。 2年後の永正8年(1511年)に澄元は義澄と連携して7月7日に堺に上陸した。この時は細川一族の政賢と尚春、播磨の赤松義村などを義澄方として味方に付けたため、13日に和泉深井城を攻められた高国軍は政賢軍に敗北(深井城の合戦)、8月10日には赤松軍と合流した尚春軍が高国の家臣である瓦林正頼が守る摂津鷹尾城を攻め落とした(芦屋河原の合戦)。そして16日に政賢らが上洛して義興・高国らは丹波へ逃れ、京都は澄元方の手に入った。 しかし義興・高国らは衝突を避けて丹波で機を窺い、24日に上洛を図り丹波から京都へ東進、北部の船岡山で義澄方と義稙方は決戦となった。戦闘は義稙方が2万の大軍を温存していて、決戦の10日前である14日に義澄が32歳で死去したためもあり、義澄方の諸将はその死を隠して戦ったが戦況は圧倒的に不利で、大内軍を主力とした義稙方の夜襲にあって政賢は戦死し澄元は摂津に敗走した(船岡山合戦)。 これまで、通説では澄元の上陸から船岡山合戦まで之長は当然のように澄元に同行して参戦しているとみられていた。しかし、近年、この上洛には澄元の祖父である成之が阿波の国内情勢(讃岐にいる高国派の阿波侵攻の恐れ)を理由に出兵に反対し、成之に同調した之長も出陣を拒否しただけではなく、敵である義稙・高国と内通していた可能性も指摘されている(澄元陣営についていた香川元綱が永正8年7月18日付で阿波国三好郡の阿佐氏に対して送った書状(「喜多文書」)には同じ三好郡の大西氏が三好筑前守(之長)と同調して京都(高国)に味方して出兵しなかったことを非難している)。これは澄元の京兆家と成之・之持の讃州家の間には協力関係にあっても明確な一線が引かれていたことが前提として考えられ、両属していた之長も澄元(京兆家)と成之(讃州家)の利害が対立した際には讃州家の意向を重視して行動したものとみられている。なお、この戦いの最中も之長も成之の意向を受けたとみられる備前国児島への出兵には参加しており、讃州家家臣としての行動には変化はなかった。 この大敗の直後から之長には不幸が続いた。戦後の9月12日に後援者であった澄元の祖父成之が病死、翌永正9年(1512年)1月には成之の跡を継いでいた澄元の兄之持までもが死去した。このため以後の7年間は平和が保たれる事となった。また、細川高国が船岡山合戦後に降伏した細川尚春父子に阿波を与える(尚春の嫡男である彦四郎を阿波守護に任命する)意向を示したことにより、澄元だけでなく讃州家そのものが澄元と一体視されて義稙・高国の攻撃目標とされたことによって之長も澄元との対立を続けることは不可能となり、両者は和解に向かうことになった。永正14年(1517年)、之長は阿波・讃岐の将兵を率いて淡路に侵攻して細川尚春を堺に追放し、澄元の協力を得ながら阿波国内の安定化に努めることになる。
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両細川の乱
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^ 馬部隆弘「細川高国の家督継承と奉行人」(初出:『戦国史研究』第69号(2015年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P71-74. ^ 浜口誠至「戦国期管領の政治的位置」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P179-189 ^ 澄元、之長が阿波に逃亡したのは岡山城の戦い後であるとする史料もある。 ^ しかし、寝返り直後から晴元と不和になり、晴元の命を受けた木沢長政によって暗殺された。 ^ 馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配と松井宗信」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)ISBN 978-4-642-02950-6 p271-272/初出:稲葉継陽、花岡興史、三澤純編『中近世の領主支配と民間社会-吉村豊雄先生ご退職記念論文集』(熊本出版文化会館、2014年) ^ 馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配と松井宗信」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)ISBN 978-4-642-02950-6 p272-274/初出:稲葉継陽、花岡興史、三澤純編『中近世の領主支配と民間社会-吉村豊雄先生ご退職記念論文集』(熊本出版文化会館、2014年) ^ 自害、暗殺など諸説ある。
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