両細川の乱とは? わかりやすく解説

両細川の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 05:39 UTC 版)

細川澄元」の記事における「両細川の乱」の解説

詳細は「両細川の乱」を参照 永正5年1508年4月高国京都侵攻開始する。この時、摂津伊丹元扶丹波内藤貞正河内国畠山尚順らも呼応したために澄元は敗北し、之長や将軍足利義澄と共に4月9日山中為俊を頼って近江逃れた5月には摂津抵抗続けていた池田貞正と芥川信方薬師寺元一・長忠の弟)が高国軍に討たれてしまう。そして6月足利義尹大内義興に擁されて上洛すると、やがて将軍職復帰した義尹によって澄元の家督剥奪され、代わって高国家督継承承認されることとなった8月大和残った赤沢長経畠山尚順討たれた。 ところが大内義興義尹対立し始めたため、澄元と之長は永正6年1509年)に京都侵攻したが、逆に高国と義興の反撃受けて敗北如意ヶ嶽の戦い)し澄元と之長は阿波逃走する。なお、この時の侵攻失敗について、澄元は阿波からの援軍との挟撃計画していたものの、澄之→高国支持していた讃岐諸氏阿波への侵攻図り阿波勢が動けなかったことが背景にあったという。 永正8年1511年)には義澄、義兄弟細川政賢典厩家当主)や同族細川元常和泉守護)・細川尚春淡路守護)、更に赤松義村播磨守護)と連携して深井城攻め深井城合戦)、一方で鷹尾城攻め芦屋河原の合戦)、その後京都侵攻し船岡山合戦となる。しかし船岡山合戦以前に義澄が病死したこともあって、大内義興反撃受けて大敗喫し、政賢は戦死し、澄元は摂津逃走した。この出兵祖父・成之や三好之長反対押し切って出兵したものらしく、之長が阿波守護家存続意図して高国陣営内通しようとした気配があるとする指摘出されている。もっとも、この出兵直後に成之と之持が相次いで死去したため、阿波国内で混乱発生し、澄元と之長は和解して阿波治安回復讃岐における主導権回復乗り出すことになる(なお、馬部隆弘通説では之持の子とされる細川持隆を澄元の次男比定し、澄元が之持の没後暫くの間それまでは成之によって峻別されて澄元が直接関与出来なかった阿波領国経営関与せざるを得ず高国との戦い低調も澄元が阿波から離れられなかったからとしている)。 永正15年1518年8月大内義興周防帰国すると、永正16年1519年)に澄元と之長は摂津侵攻田中城の戦い)する。永正17年1520年1月に入ると、澄元に呼応して山城国土一揆発生する。そして、将軍足利義稙永正8年1513年)、義尹より改名)も澄元に通じて裏切ったため、細川高国単独近江坂本逃れた。これにより、澄元政成立する。既に高国側に離反していた細川尚春滅ぼして淡路手に入れ阿波讃岐でも巻き返した澄元は前の2度出兵では得られなかった四国からの援軍上陸させる構想実現させたことが成功背景にあったとみられる。 ところが5月高国大軍集めて京都侵攻する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦い敗北し捕らえられ自害させられ、澄元も摂津伊丹城敗走し政権短期間崩壊した。そして失意のうちに病に倒れた澄元は、まもなく高国攻撃受けて播磨国逃走し最終的に永正17年1520年6月10日阿波勝瑞城にて死去した(『応仁後記』『細川系図』『細川両家記』『諸家系図纂』)。享年32三度にわたる出兵はいずれ失敗終わったものの、3度目出兵きっかけ生じた義尹高国不仲丹波国人の離反高国立場動揺させ、残され嫡男六郎(後の細川晴元)と三好元長(之長の孫)による細川高国政権打倒に繋がることになった

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両細川の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 04:57 UTC 版)

舎利寺の戦い」の記事における「両細川の乱」の解説

永正4年1507年)の細川政元暗殺以来室町幕府実権を握る細川氏管領細川高国細川澄元晴元父子の両派に分かれ畿内近国諸勢力巻き込んで長期にわたる抗争続けていた(両細川の乱)。享禄4年1531年)に至り細川高国摂津国天王寺現在の大阪市天王寺区)の戦い敗れ尼崎方面退却したところを捕らえられ自害した大物崩れ)。

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両細川の乱(永正年間)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:25 UTC 版)

戦国時代 (日本)」の記事における「両細川の乱(永正年間)」の解説

永正の錯乱」を参照 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 細川高国 細川澄元 永正元年1505年12月畠山尚順畠山基家後継者である畠山義英の両畠山氏和睦し両者とも足利義稙方に与同足利義澄細川政元反抗した。これを受けて義稙永正3年1506年2月周防からの上作戦計画したが、それより早く永正2年1505年11月細川政元が両畠山氏攻撃撃破したため作戦回避された。 永正4年1507年6月、政元は後継者争いのもつれから細川澄之派の内衆暗殺された。「天下無双権威丹波摂津大和河内・山城・讃岐土佐守護也」と京兆家守護任国丹波摂津讃岐土佐以外の国々にも支配及ぼしていた政元の死は、新たな政治対立招来した。即ち足利将軍家だけでなく、細川京兆家もまた澄元系(細川澄元細川晴元)と高国系(細川高国-細川晴国細川氏綱)に分裂し、この抗争各地方紛争連動しながら展開していくのである。 政元を暗殺した澄之は同年8月澄元派の高国討ち取られ京兆家家督は澄元に定まった。しかし、この京都での政変好機捉えた周防義稙大内義興上洛作戦決行。これに澄元との関係が悪化していた高国合流し永正5年1508年4月、義澄と澄元は近江没落し、代わって義稙将軍復帰した。翌永正6年1509年6月、澄元方上洛作戦実施し、澄元方三好之長近江から出陣し京都を見下ろす如意ヶ嶽着陣した。しかし阿波讃岐では京都政争連動し忩劇発生しており阿波衆は渡海出来ず敗れた澄元は義澄を近江残して阿波逃れた。 澄元は永正8年1511年)再び上洛戦を開始した。澄元陣営畠山総州家の義英が遊佐就盛を派遣した他、四国からは細川政賢和泉上半国守護・細川元常淡路守護・細川尚春播磨守護赤松義村、その他義澄方の近江勢も加勢した。これに対し義稙高国・義興は一旦丹波退いた後、京都進軍し船岡山合戦で澄元軍を撃破した。またこの合戦直前、義澄は近江亡くなっていたため澄元は阿波撤退した。 澄元は船岡山合戦後も京都復帰窺い続けたが、細川成之細川之持没後細川讃州立て直しのため、しばらく阿波離れられない状態が続いた。しかし永正15年1518年)の義興の帰国後、義稙高国の関係が不和になった状況捉えて、澄元は永正16年1519年)に3度目の上洛戦を開始した。澄元は将軍義稙自陣営に引き入れることに成功した他、四国勢赤松氏も澄元に加勢した。澄元勢の侵攻止められなかった高国近江没落したが、澄元に通じていた義稙京都留まり永正17年1520年5月1日義稙は澄元の京兆家家督相続承認した。しかし高国六角氏近江国人の他、越前朝倉氏美濃土岐氏から派遣され部隊を含む総勢2万軍勢反抗作戦敢行し、同5月5日等持院の戦いで澄元方主力である三好之長破り自害させ、6月には澄元も阿波病死した。一度高国を見限った義稙は再び高国と共に政務復帰したが、永正18年1521年)に出奔し大永3年1523年)に阿波亡くなった

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両細川の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 06:11 UTC 版)

三好之長」の記事における「両細川の乱」の解説

一方危機西から迫っていた。かつて義澄の従兄弟10代将軍足利義稙(義材、義尹)は明応の政変で政元に将軍の座から追われたが、政元の横死その後内乱を知ると帰洛好機ととらえ、亡命先周防大内義興上洛求めて中国・四国の兵を集めていたのである。澄元は出家して道空と号していた祖父高国に義興との和平工作を行なわせ、義澄にも和平求めた。だがこの頃、澄元は高国謀反疑い不仲になっており、之長からも忌避されていたため、永正5年1508年3月17日高国伊勢神宮参宮称して従兄弟に当たる伊賀守護仁木高長頼って行ってしまった事により和平工作決裂した摂津丹波の国衆である伊丹元扶内藤貞正香川元綱香西国忠らも高国4月9日上洛してくると呼応して挙兵したため、之長は澄元を連れて甲賀山中為俊を頼って落ち延びた。義澄も近江逃亡高国義稙奉じた義興と畠山尚順合流して政権奪取果たし管領京兆家当主任じられ権勢振るった京都から逃げた之長は奪回計画義稙と義興の仲がうまくいかず義興が周防帰国しようという噂があったため、11月下旬には之長ら義澄方の軍勢京都攻め込んでくるという噂がしきりであったが、義興が帰国しなかったためこの時の京都攻撃見合わされた。永正6年1509年6月17日には3000兵力で之長は山城近江境目東山如意ヶ嶽布陣したが、高国や義興の反撃受けて敗北し嫡男の長秀と次男の頼澄は伊勢山田において高国の婿である北畠材親攻められ自殺した如意ヶ嶽の戦い)。この敗戦で之長は澄元と共に潜行して阿波帰国、之長は阿波兵力養い近隣助け求めて反撃準備進め近江亡命していた義澄も大友親治らに書状送って活発な動きをしていた。 2年後永正8年1511年)に澄元は義澄と連携して7月7日に堺に上陸した。この時は細川一族の政賢と尚春、播磨赤松義村などを義澄方として味方に付けたため、13日和泉深井城攻められ高国軍は政賢軍に敗北深井城合戦)、8月10日には赤松軍と合流した尚春軍が高国家臣である瓦林正頼が守る摂津鷹尾城攻め落とした芦屋河原の合戦)。そして16日に政賢らが上洛して義興・高国らは丹波逃れ京都は澄元方の手入った。 しかし義興・高国らは衝突避けて丹波で機を窺い24日上洛図り丹波から京都東進北部船岡山で義澄方と義稙方は決戦となった戦闘義稙方が2万大軍温存していて、決戦10日前である14日に義澄が32歳で死去したためもあり、義澄方の諸将はその死を隠して戦った戦況圧倒的に不利で、大内軍を主力とした義稙方の夜襲にあって政賢は戦死し澄元は摂津敗走した船岡山合戦)。 これまで通説では澄元の上陸から船岡山合戦まで之長は当然のように澄元に同行して参戦しているとみられていた。しかし、近年この上洛には澄元の祖父である成之が阿波の国内情勢(讃岐にいる高国派の阿波侵攻恐れ)を理由出兵反対し、成之に同調した之長も出陣拒否しただけではなく、敵である義稙高国内通していた可能性指摘されている(澄元陣営についていた香川元綱永正8年7月18日付で阿波国三好郡阿佐に対して送った書状(「喜多文書」)には同じ三好郡大西氏が三好筑前守(之長)と同調して京都高国)に味方して出兵しなかったことを非難している)。これは澄元の京兆家と成之・之持の讃州家の間には協力関係にあって明確な一線引かれていたことが前提として考えられ、両属していた之長も澄元(京兆家)と成之(讃州家)の利害対立した際には讃州家の意向重視して行動したものとみられている。なお、この戦い最中も之長も成之の意向受けたとみられる備前国児島への出兵には参加しており、讃州家家としての行動には変化はなかった。 この大敗直後から之長には不幸が続いた戦後9月12日後援者であった澄元の祖父成之が病死、翌永正9年1512年1月には成之の跡を継いでいた澄元の兄之持までもが死去したこのため以後7年間は平和が保たれる事となった。また、細川高国船岡山合戦後に降伏した細川尚春父子阿波与える(尚春の嫡男である彦四郎阿波守護任命する意向示したことにより、澄元だけでなく讃州そのものが澄元と一体視されて義稙高国攻撃目標とされたことによって之長も澄元との対立続けることは不可能となり、両者和解に向かうことになった永正14年1517年)、之長は阿波讃岐将兵率いて淡路侵攻し細川尚春を堺に追放し、澄元の協力を得ながら阿波国内の安定化努めることになる。

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両細川の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 10:06 UTC 版)

永正の錯乱」の記事における「両細川の乱」の解説

^ 馬部隆弘細川高国家督継承奉行人」(初出:『戦国史研究』第69号(2015年)/所収:馬部戦国期細川権力研究』(吉川弘文館2018年ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P71-74. ^ 浜口誠至「戦国期管領政治的位置戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院2017年ISBN 978-4-86602-013-6 P179-189 ^ 澄元、之長が阿波逃亡したのは岡山城戦い後であるとする史料もある。 ^ しかし、寝返り直後から晴元不和になり、晴元の命を受けた木沢長政によって暗殺された。 ^ 馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配松井宗信」『戦国期細川権力研究』(吉川弘文館2018年ISBN 978-4-642-02950-6 p271-272/初出:稲葉継陽花岡興史、三澤純編『中近世領主支配民間社会-吉村豊雄先生退職記念論文集』(熊本出版文化会館2014年) ^ 馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配松井宗信」『戦国期細川権力研究』(吉川弘文館2018年ISBN 978-4-642-02950-6 p272-274/初出:稲葉継陽花岡興史、三澤純編『中近世領主支配民間社会-吉村豊雄先生退職記念論文集』(熊本出版文化会館2014年) ^ 自害暗殺など諸説ある。

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