和泉上守護家(細川刑部家)
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「細川氏」の記事における「和泉上守護家(細川刑部家)」の解説
細川頼之の弟・頼有の子孫が14世紀中頃から和泉守護を代々務めた。頼有のあとは、頼長、持有、教春、常有(教春の弟)、政有、元有と世襲した。 明応4年(1495年)、細川元有は下守護家や紀伊守護畠山尚順と同盟して管領細川政元と敵対した。和泉両守護家は政元に大敗し恭順したが、そのために畠山尚順に攻め込まれ、明応9年(1500年)に元有は戦死、その子・細川元常が跡を継いだ。元有以降の当主は京兆家と同じ「元」を通字とし、代々「五郎」を仮名とした。 細川元常は、永正8年(1511年)の船岡山合戦で阿波細川家の細川澄元に味方したが、細川高国に敗れ阿波に逃れた(両細川の乱)。その後、細川晴元が享禄4年(1531年)に上洛すると元常は和泉守護に返り咲いたが、実際には将軍足利義晴の近臣となっており、守護は天文年間の早い段階で元常の子・晴貞が継いだ。天文18年(1549年)、細川晴元の重臣三好長慶が晴元の政権を倒した(江口の戦い)時、守護代の和泉松浦氏も長慶に味方したために晴貞は和泉を追われた。 晴貞の没後は元常の養嗣子・細川藤孝(元常の弟三淵晴員の次男という)が家督を継いだとされていたが、近年の研究により、藤孝の養家は和泉上守護家ではなく将軍近臣の細川氏(奉公衆の近江源氏佐々木大原氏出身で8代将軍義政期に入名字で細川を称する)であったという見方が有力となっている(後述)。藤孝の後、和泉上守護家の流れは藤孝三男の幸隆を経て長岡興孝(藤孝嫡男・忠興の五男)が継いだとされ、肥後細川藩の重臣として続く(後述の長岡(細川)刑部家を参照のこと)。 なお、これとは別に元常の長男・細川元春が分家して地下家(朝廷の下級廷臣家)となり、子孫が続いた(地下家の一覧と こちら を参照)。 和泉上守護家歴代当主 細川頼有(細川頼春の子) 細川頼長 細川持有 細川教春 細川常有 細川政有 細川元有 細川元常 細川晴貞 細川藤孝(幽斎)?
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