和泉上守護家とは? わかりやすく解説

和泉上守護家(細川刑部家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:50 UTC 版)

細川氏」の記事における「和泉上守護家(細川刑部家)」の解説

細川頼之の弟・頼有の子孫が14世紀中頃から和泉守護を代々務めた。頼有のあとは、頼長、持有、教春、常有(教春の弟)、政有、元有と世襲した。 明応4年1495年)、細川元有は下守護家や紀伊守護畠山尚順同盟して管領細川政元敵対した和泉守護家は政元に大敗し恭順したが、そのために畠山尚順攻め込まれ明応9年1500年)に元有は戦死その子細川元常が跡を継いだ。元有以降当主京兆家と同じ「元」通字とし、代々五郎」を仮名とした。 細川元常は、永正8年1511年)の船岡山合戦阿波細川家細川澄元味方したが、細川高国敗れ阿波逃れた両細川の乱)。その後細川晴元享禄4年1531年)に上洛すると元常和泉守護に返り咲いたが、実際に将軍足利義晴近臣となっており、守護天文年間早い段階元常の子・晴貞が継いだ天文18年1549年)、細川晴元重臣三好長慶晴元政権倒した江口の戦い)時、守護代和泉松浦氏長慶味方したために晴貞は和泉追われた。 晴貞の没後元常養嗣子細川藤孝元常の弟三淵晴員次男という)が家督継いだとされていたが、近年の研究により、孝の養家は和泉上守護家ではなく将軍近臣細川氏奉公衆近江源氏佐々木大原氏出身8代将軍義政期に名字細川称するであったという見方が有力となっている(後述)。孝の後、和泉上守護家の流れ孝三男の幸隆を経て長岡興孝(嫡男忠興の五男)が継いだとされ、肥後細川藩の重臣として続く(後述長岡細川刑部家を参照のこと)。 なお、これとは別に元常長男細川元春分家して地下家朝廷下級廷臣家)となり、子孫続いた地下家の一覧と こちら を参照)。 和泉上守護家歴代当主 細川頼有細川頼春の子細川頼長 細川持有 細川教春 細川常有 細川政有 細川元有 細川元常 細川晴貞 細川藤孝(幽斎)?

※この「和泉上守護家(細川刑部家)」の解説は、「細川氏」の解説の一部です。
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