和泉の戦いとは? わかりやすく解説

和泉の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:49 UTC 版)

紀州征伐」の記事における「和泉の戦い」の解説

天正13年1585年2月秀吉小早川隆景対し毛利水軍岸和田派遣するよう命じた。これを受けて、隆景は3月1日に自ら出発準備行い、まもなく隆景率い毛利水軍出陣してきた。 3月9日秀吉貝塚寺内対し禁制発行して安全を保障した同日秀吉正室侍女孝蔵主貝塚本願寺派遣し親睦深めた同月上旬秀吉木食応其使者として根来寺派遣し応其拡大した寺領一部返還条件和睦斡旋した斡旋案に対し根来衆の間では賛否分かれたが、反対派夜中応其宿舎鉄砲撃ちかけ、このため応其急いで京都帰還した。 ついに秀吉による紀伊侵攻開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する100,000人、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手分かれて23段に布陣した。さらに多数軍船揃えて小西行長水軍の将とし、海陸両面から根来雑賀攻めた。これに対し根来雑賀衆は沢・積善寺畠中千石堀などの泉南諸城合計9,000余人の兵を配置して迎撃した。 3月20日先陣の秀次勢は大坂発し貝塚到着21日秀吉大坂出陣し岸和田城に入る。同日先陣諸勢は泉南城砦群に接近したが、既に昼を過ぎていた ことから即日攻撃翌日延期するかで議論になった中村一氏が「これだけ兵力差があるのに攻撃延期するのは他国への印象が悪い」と即時開戦主張したため、直ち戦端開かれた

※この「和泉の戦い」の解説は、「紀州征伐」の解説の一部です。
「和泉の戦い」を含む「紀州征伐」の記事については、「紀州征伐」の概要を参照ください。

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