積善寺城とは? わかりやすく解説

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積善寺城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/07 01:08 UTC 版)

積善寺城
大阪府
積善寺城の案内看板
別名 積善寺城
城郭構造 平城
天守構造 不明(本丸にの可能性あり)
築城主 根来衆
築城年 1558年(永禄元年)
主な改修者 不明
主な城主 出原右京
廃城年 1585年(天正13年)
遺構 発掘調査が出土
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度25分37.42秒 東経135度21分43.585秒 / 北緯34.4270611度 東経135.36210694度 / 34.4270611; 135.36210694
地図
積善寺城
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積善寺城(しゃくぜんじじょう)は、大阪府貝塚市橋本にあった日本の城平城)。

概要

積善寺城は、貝塚市の南側にあり、近木川に面した段丘上に位置し、北側には小栗街道(熊野街道)が走り、根来寺とは根来街道を介して、つながっている。推定地として貝塚市立中央病院から近木川を挟んだ対岸の一帯で、江戸時代には橋本村の集落があり、安楽寺付近に本丸があったのではないかという伝承がある。和泉の戦いでは根来衆の主力部隊がいた。

沿革

安楽寺の山門
近木川/城郭の東側を流れる

もとは和泉国の四長者の一人、郡吉長者の仏観音堂であったものを永禄元年(1558年)に根来衆と三好氏との戦いの時に、をこの地に築き先陣としたのが最初とされる。

天正5年(1577年雑賀侵攻の時には積善寺城はみえないが、天正9年(1581年高野攻めには「城郭取立也」とある。また天正11年(1583年秀吉の紀州攻めでは、中村一氏岸和田城に入城させ、雑賀衆、根来衆に備えた。

この時の戦いの様子は千石堀城の戦い千石堀城攻防戦も参照。

天正12年(1584年小牧・長久手の戦い豊臣秀吉が出撃した隙を狙って、雑賀衆、根来衆連合軍は、中村城、沢城、田中城、積善寺城、千石堀城を5城を付城として岸和田城の5ばかりを隔てて、翌天正13年(1585年)正月始めまで幾度か小規模な戦闘が続いたが、同年1月16日雑賀衆、根来衆連合軍は7つ付城から岸和田城を攻城、中村一氏隊も反撃している。同年3月18日に雑賀衆、根来衆連合軍は紀伊国より出撃、同年3月21日岸和田城から豊臣秀吉軍が出軍、戦いとなり鳥羽城、中村城、積善寺城は放火や落城した。この時豊臣秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳に陣を置き積善寺城と対峙していた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし畠中城、沢城は開城した。

この後の戦いの様子は根来・粉河・雑賀炎上及び第二次太田城の戦いも参照。

この戦い後積善寺城は破却され廃城となった。

城郭

積善寺城と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
根来出城図/岸和田市立郷土資料館蔵

城郭に関しては、「東面七拾八間二重堀・西面九拾三間三重堀・南面百弐拾間三重堀、外に横二十五間、長百五十間貯池有、北面百三拾二間三重堀、外に大川有、本丸三拾五間四面云々」(『春生随筆』)とあり、本丸は約53m四方で、周りには濠をめぐらしていた。また同書に秀吉の紀州攻めの配置として、

秀吉の紀州攻め積善寺城の配置
配置 本丸大将 本丸矢倉 東矢倉 西矢倉 北矢倉 南矢倉
武将名 出原右京 山田蓮池坊
野原大部
知明院 長橋正知坊
出田長寿院
山下南ノ坊
西蔵院
寿宝院
近木忠次郎
熊取寿命院
熊取大納言

とあり、5つのにそれぞれの武将が配置され、常詰衆として360兵、増援軍として9140兵が城内にいたと記されている。1843年(天保14年)の『日根郡寺社覚』には安楽寺境内やその一帯が城跡と記されている。

発掘調査

積善寺城の発掘調査として、2003年(平成15年)に2回、2004年(平成16年)に1回実施された。2003年(平成15年)に行われた発掘調査は個人住宅建設に伴うもので、積善寺城のと考えられる遺構が発見された。濠は東西に掘られており、幅は6メートル以上、深さは1.8メートルで、U字型に掘り込まれて、石垣は備えていなかった。濠は3層の埋土が確認でき、下層は断続的な水の流れが確認でき、防備目的以外にも排水路との指摘もある。中層は人為的に埋められた層で、埋め立て作業が短期間で行われた。上層は、埋め立てた後に新たに掘削されたとなっている。またこの溝からは大量のや大きななどの遺物が出土しており、これらを使用して溝が埋められたと考えられている。この濠は城の南側に設けたと考えられ、下層からは干瓦が出土しているが、籠城戦と関係ある遺物は出土しなかった。また、2004年(平成16年)に行われた発掘調査では、江戸時代の生活排水溝は検出したが、積善寺城と関連する遺構は確認できなかった。理由としては、後世の開発により削り取られている可能性がある。

城跡へのアクセス

寺池/積善寺城の南西側にある

参考文献

  • 創史社『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、215、218頁。
  • 城郭談話会事務局『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、216-217頁。
  • 貝塚市教育委員会『貝塚市の史跡と文化財』改訂版、貝塚市教育委員会、2009年3月、43頁。
  • 貝塚市教育委員会「秀吉の紀州攻めと積善寺城跡」『かいづか文化財たより』テンブス18号、貝塚市教育委員会、2004年7月、2-3頁。

関連項目

外部リンク




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