石山合戦とは? わかりやすく解説

石山合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 20:17 UTC 版)

石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日1570年10月11日)から天正8年8月2日1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主顕如石山本願寺に篭って戦った。


注釈

  1. ^ 真宗高田派真宗三門徒派のように浄土真宗の中でも反本願寺勢力諸派は本願寺勢力に呼応しなかった。また、本願寺勢力傘下でも富田林寺内町のように信長側による安全の保証を条件に中立もしくは信長方についた者もあった。
  2. ^ 雑賀には浄土真宗の鷺森御坊の他に浄土宗西山派の本山である総持寺があるため浄土宗信者も多く、石山合戦の対応についても真宗門徒や信長に反発する非門徒の国人が多く本願寺支援に積極的な「雑賀荘」「十ヶ郷」と消極的な「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」に分かれていた。
  3. ^ 庭田重保は顕如の母方の叔父であると同時に門跡寺院としての本願寺との取次を長く務め、勧修寺晴豊本人は本願寺とのつながりはないが実弟の万里小路充房が継いだ万里小路家が能登畠山家を介して本願寺と婚姻関係を持っており、晴豊も充房の後見人として万里小路家が持つパイプを活用できる立場にあったとみられている[7]

出典

  1. ^ 吉井克信「戦国・中近世移行期における大坂本願寺の呼称-『石山』表現をめぐって-」『ヒストリア』第153号、大阪歴史学会、1996年。 /所収:吉井克信『寺内町の研究 三』法蔵館、1998年。 
  2. ^ 大阪真宗史研究会 2005, 川端泰幸「大坂本願寺戦争をめぐる一揆と地域社会」.
  3. ^ 大阪真宗史研究会 2005, pp. 317–322, 武内善信「雑賀一揆と雑賀一向一揆」.
  4. ^ 奥野 1996, p. 261.
  5. ^ a b 谷口克広 2006, p. 194.
  6. ^ 谷口克広 2006, p. 197.
  7. ^ 永村 2017, 太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」.
  8. ^ 森嵩正『森蘭丸の母とその流れ~妙願寺史に沿って』近代文芸社、1996年。ISBN 978-4773357240


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石山合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 09:16 UTC 版)

大多和就重」の記事における「石山合戦」の解説

天正年間織田氏との戦いにおいても毛利水軍の将として戦い、石山合戦では毛利氏からの援軍として摂津国大坂何度も出陣する。天正5年1577年5月英賀合戦では小早川隆景指示受けて横田壱岐入道と共に播磨国英賀出陣している。さらに飯田元著と共に数年渡って石山本願寺籠城した。 その恩賞として天正4年1576年11月16日20貫の地を、天正5年1577年6月19日安芸国佐東郡五ヶの内、手嶋六郎二郎の拘所8貫300目、手嶋源次兵衛の先給の6貫500目、周防国都濃郡富田の内、手嶋六郎二郎先給の10石足・富海の内5石足を与えられた。 天正8年1580年3月17日毛利輝元数年渡って石山本願寺籠城した就重の辛労神妙なものであり子々孫々まで忘れない労い美作国内で100貫の地を与えたまた、同年3月26日教如本願寺光寿)は輝元に書状出し、「就重は数年在城し、諸事才覚比類なきものであった今般、就重は帰国したいと願い出ていたが、就重が帰国したならば本願寺は力を失ってしまうため、是非を顧みず抑留してしまった」と謝している。 天正11年1583年)閏1月28日2月24日3月30日と度々輝元から沼田郡呼び出されその都度伊予国来島や務司へ派遣された。また、同年2月26日に「河内守」の受領名を輝元から与えられた。 天正12年1584年)、小早川秀包羽柴秀吉に従って小牧・長久手の戦い従軍するにあたって小早川隆景と秀包は、辛労ながら就重も同行させて欲しいと輝元に求めた。輝元は3月19日に就重へ書状送って上洛依頼し、就重は4月12日出立した天正15年1587年7月8日死去嫡男元直が後を継いだ

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石山合戦

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教如」の記事における「石山合戦」の解説

元亀元年9月12日1570年10月11日)、織田信長との間で石山合戦が始まる。父・顕如助けて信長徹底抗戦する元亀2年1571年6月朝倉義景の娘である三位殿と婚約天正8年1580年3月顕如正親町天皇勅使近衛前久仲介による講和受け入れ石山本願寺から紀伊国和歌山県和歌山市)へ退去する。しかし教如徹底抗戦主張同じく和議に不満を持つ信徒とともに石山本願寺籠城する大坂様)が、8月2日近衛前久説得応じ信長石山本願寺明け渡す。その直後に、石山本願寺失火により炎上し灰燼に帰した。 なお、この籠城中に教如顕如から宗主継いだ称したことから父子間に不和生じ顕如教如義絶する教如は一旦は入った顕如対面できず、東海・北陸転々とした。 天正10年1582年6月2日本能寺の変信長自害した際、残され文献・記録によれば教如美濃国郡上郡越前国との国境付近にいて越後高田本誓寺向かおうとしていたとの説がある。同年6月23日後陽成天皇顕如教如赦免提案6月27日顕如より義絶赦免される赦免後は、顕如とともに住し寺務補佐する

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