石山合戦と廃城
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しかし、その前に立ちはだかったのが織田信長である。信長は上洛直後の永禄11年(1568年)に石山本願寺に対して矢銭5千貫を要求した。また元亀元年(1570年)正月に石山本願寺の明け渡しを要求したと言われている。これに対して顕如は全国の門徒衆に対して、石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように指示を出した。同盟軍で三好三人衆軍が織田軍と戦っている最中に、打倒信長に決起したのが同年9月12日であった。 「石山合戦」および「野田城・福島城の戦い」も参照 ここから石山合戦が蜂起し、これ以降石山本願寺と織田信長の戦いは、連続した戦闘だけではなく、和睦戦術を交え途中断続し、両勢力とも同盟勢力の拡大をはかりながら11年間続いた。 まず、織田信長は、天正元年(1573年)8月20日に「一乗谷城の戦い」において朝倉義景率いる朝倉軍を追撃して滅亡させる。同年9月1日には、「小谷城の戦い」において、居城の小谷城に籠城した浅井長政を滅亡させる。本願寺勢力は同盟関係にある朝倉義景と浅井長政を失うことによりより苦しい状況に追い込まれる。 続いて信長は、一向一揆に対して殲滅戦を開始する。天正2年(1574年)9月に長島一向一揆を平定、天正3年(1575年)8月に越前一向一揆を平定する。信長によるこれらの殲滅戦によって、石山本願寺は次第に追いつめられていった。同年10月に顕如は戦局好転の一時的な手段として信長に有利な和睦を申し入れ、信長は受け入れた。この時信長は、武田勝頼や毛利輝元などに挟撃されかねない状態であったため、戦略的にも有利な和睦の申し入れだった。 しかし天正4年(1576年)、顕如は各地の門徒衆に檄文を送り応援を求める。そして、食糧を蓄えたり、弓や鉄砲などの武器を集めたりするなど信長に対して臨戦態勢でいた。 顕如は天正4年(1576年)5月7日に天王寺砦の戦いにおいて一旦は信長軍を追い込むものの大敗する。信長は大坂の周辺に10ヵ所の付城を造るように命じ、尼崎城、大和田城、吹田城、高槻城、茨木城、多田城、能勢城、三田城、花隈城、有岡城が築城され、兵糧攻めに出る。また住吉方面の沿岸にも砦を設け海上を警固した。本願寺勢力はこれに対抗し守口、野江、難波、木津などに出城を構え籠城戦に入る。しかし信長による一揆の平定により、諸国の門徒からの救援は乏しく、寺内町として発展していた石山本願寺は食糧不足に陥る。 食糧不足を打破するために、顕如の長子である教如は、備後鞆の浦に向かい、信長によって京都から追放されていた室町幕府第15代将軍足利義昭の仲介を得て、毛利輝元に本願寺に対する援助を要請した。天正4年(1576年)7月、毛利水軍は雑賀衆とも合流し、石山本願寺へ兵糧搬入しようとする。木津川河口で織田水軍が阻止しようとするものの壊滅的打撃を受け撤退し、兵糧搬入は成功した。(第一次木津川口の戦い)しかし天正5年に雑賀衆が信長に降伏。天正6年には、毛利水軍も鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の九鬼水軍に敗れる。(第二次木津川口の戦い)これらの敗戦により制海権が奪われ、石山本願寺への大規模な補給路を断たれ、厳しい籠城戦を強いられることになる。 天正8年(1580年)閏3月5日、正親町天皇の勅令により立入宗継が調停に出向き、双方の和議が成立する。同年4月9日顕如は鷺森別院に向けて退去する。退去を拒んだ雑賀衆の一部とも講和、同年8月2日に石山本願寺を明け渡し雑賀へ向った。顕如の長男である教如が退去した直後に堂舎・寺内町が炎上して灰燼に帰した。二日一夜炎上し続けたと伝わっている。石山本願寺は、織田軍の長期の攻撃にも関わらず、武力で開城される事は無かった。「いくつかの要因があるにせよ、最大の理由として、城郭そのものが難攻不落の名城であったことを挙げねばならない」と解説されている。 興福寺の塔頭多聞院の院主で学侶の英俊は、天正8年8月5日付の日記に 「 渡りて後に焼くるように用意しけるが 無残二日一夜 明三日までに皆々焼け了りぬ 」 —『多聞院日記』 とあり、教如による意図的な放火との見方を記している。 その後豊臣秀吉が跡地に大坂城を築き、城下町を建設したため、大坂本願寺の規模や構造などはほとんどわからなくなってしまった。
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