石山合戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:46 UTC 版)
石山本願寺は石山本願寺周辺にあった「寺内町」のみが支えていたわけではなく、摂津国、河内国、和泉国の寺内町も石山本願寺を支え、支えられていた。このような寺内町ネットワークの事を『寺内町と城下町』などでは「大坂並」体制と呼んでいる。その一つが富田林寺内町である。富田林寺内町では近年発掘調査が行われ、町の周辺部で18世紀の遺構しか発見できなかったことから、戦国時代の「寺内町」は一回り小さかった可能性が指摘されている。その小さかった富田林寺内町は、河内国の守護畠山氏の家臣安見宗房の禁制によって特権が与えられた。 「 定む 富田林道場 一、諸公事免許の事 一、徳政行うべからざる事 一、諸商人座公事の事 一、国質、所質ならびに付沙汰の事 一、寺中の儀、いずれも大坂並たるべき事 右の条々、堅く定め置きかれおわんぬ。もし、この旨に背き、違犯の輩においては、たちまち厳科に処せらるべきものなり。よって下知くだんのごとし。 永禄三年三月日 美作守 」 —安見宗房の禁制 (京都大学所蔵杉山家文章) とある。この禁制に記されている富田林道場とは後の興正寺別院の事で、永禄三年とは1562年(永禄5年)の誤記、美作守は安見宗房の事を指している。第一条にある「諸公事」とは守護が賊課する税、第三条にある「座公事」とは商人に対する営業税のようなもので、それぞれ徴収を免除している。第二条にある「徳政」とは債権債務を無効にするが、都心部では債権者が多い為、徳政が発令されると経済的打撃を受けることになり、徳政から除外するための保障を与えている。第四条にある「国質」、「所質」、「付沙汰」とは債権を回収するシステムの事で、これらを使い度々武士が暴力的に債権の取り立てがおこなわれた。そうなると市場が混乱し商人が寄り付かなくなるため、このような質取り行為を禁止している。このような特権はそれぞれの地域の武家権力から獲得していた。禁制を獲得するのに多額の礼金が必要であった為、数は少なく大規模な寺社門前町しか特権を得ることは出来なかった。しかし、富田林寺内町は規模が小さかったのに禁制を獲得している。これは第五条にある「大坂並」で、石山本願寺の寺内町と同じ待遇を富田林寺内町にも認めるというなり充実した特権を獲得できた。 富田林寺内町以外に史料で確認できる「大坂並」と呼ばれる「寺内町」として、大伴(富田林市)、大ケ塚寺内町(富田林市)、塚口(尼崎市)、名塩(西宮市)、小浜(宝塚市)、富田(高槻市)、枚方(枚方市)、招提(枚方市)、久宝寺(八尾市)、貝塚(貝塚市)などがある。これらは現在の大阪府下に石山本願寺を中心とする「衛星寺内町」郡が展開され、これらの大半が富田林寺内町と同程度の特権を獲得していた。戦国時代には大阪平野に寺内町ネットワークが張り巡らされ、政治、軍事、経済、宗教が一体となった社会体制であった。
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