石山合戦期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 01:41 UTC 版)
石山合戦では多くの雑賀衆と共に本願寺派として参戦し、鉄砲部隊大将として約5000丁の鉄砲で織田信長を苦しめた。重秀は下間頼廉と並んで「大坂之左右之大将」とまで称えられている。また、天正2年(1574年)10月には、足利義昭復権の協力者として真木島昭光(義昭の近臣)からの書状を受け取っている。 特に塙直政が戦死した天正4年(1576年)5月の天王寺の戦いでは、後詰として出陣した信長と直接対峙しており、双方に少なからぬ死傷者を出した。なお、この戦の後に京に孫一の偽首が晒された辺りからも、彼の武名の高さを伺うことができる。 この後も孫一は毛利軍による本願寺への補給手配のために播磨国に赴いたり、信長の雑賀攻撃を迎え撃ったり、信長に反旗を翻した荒木村重の有岡城の加勢に入ったり、と各地で活躍した。 しかし反信長勢力が各個撃破され、頼みの雑賀衆も内紛を抱えているとあり、結局本願寺は降伏。この時に信長との調整役を務めたとあるが、詳しいことは不明である。雑賀衆としては和睦派顕如支持と継戦派教如支持に分かれていたが、最終的には顕如派にまとまっている。 ここまで本願寺方の主力として動いていた孫一だが、講和後は信長に接近した。
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