桶狭間の戦いとは? わかりやすく解説

おけはざま‐の‐たたかい〔をけはざま‐たたかひ〕【桶狭間の戦い】

読み方:おけはざまのたたかい

永禄3年(1560)、織田信長領内桶狭間陣取った今川義元を、信長奇襲し破った戦い信長天下統一第一歩となった


桶狭間の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/07 15:23 UTC 版)

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し[2]、今川義元を討ち取った。




注釈

  1. ^ 代表的なものとして、安祥松平家と緒川水野家の婚姻同盟の破綻を緒川水野家と織田氏の同盟によるものではなく安祥松平家の内紛に伴う外交方針の転換に求める説[4]、織田信秀が天文16年(1547年)に岡崎城を攻めて松平広忠を降伏させていたとする説[5]、この説を受けて松平竹千代(徳川家康)が戸田康光によって織田氏に売られたという逸話は事実ではなく、実際には広忠が降伏の証として竹千代を織田氏への人質として差し出したとする説[6]などがある。
  2. ^ 甲斐国の武田氏は晴信(信玄)期に三国同盟を背景に信濃侵攻を行い、北信地域を巡り越後国の長尾景虎(上杉謙信)と川中島の戦いを繰り広げているが、信濃に拡大した武田領国は尾張の隣国である美濃に接し、武田氏と織田氏は永禄初年頃から外交関係を持ち始めていたと考えられている。
  3. ^ 大石泰史によれば、義元が輿に乗っていたのは尾張では輿に乗れる資格があるのは守護の斯波氏のみであり、織田氏との家格の違いを視覚的に示すことで尾張の人々に威圧を与えて抵抗意欲を削ぐための威勢を示したという[19]
  4. ^ 近年、丸島和洋は元康の岡崎城帰還は織田軍の西三河侵攻に備えた今川氏真の方針に沿ったものとする説を出している[36]
  5. ^ 前述の丸島説では、元康は当初は岡崎城で今川軍の一員として織田軍と対峙していたが、氏真が三河救援よりも上杉謙信に攻められた小田原城の救援を優先したことで、無援状態になった元康が織田氏と結んで領国の保持を図ったとしている[36]
  6. ^ 近年の黒田基樹の研究では、今川氏親の子は四男四女しか裏付けが取れず、氏豊は義元の兄弟ではないとしている[40]
  7. ^ 『風林火山』における武田氏が桶狭間の戦いに関与したとする描写は、武田氏からの援軍が存在する可能性を指摘した丸島和洋の説(2015年)よりも前のもので関連性は無い。

出典

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桶狭間の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 13:36 UTC 版)

乱妨取り」の記事における「桶狭間の戦い」の解説

織田信長の桶狭間の戦いでの勝因を、「民家への略奪行為油断する今川方を急襲したから」とする説を、黒田日出男東京大学名誉教授唱えている。勝因について、明治時代には陸軍中心に迂回奇襲説が、近年では信長公記に基づいて正面攻撃説が主流である。だが、黒田は『甲陽軍鑑』に着目し、「記憶違いはあるが、悪意捏造はなく、体験基づ良質な史料」と断定した。そして、当時武田氏今川氏同盟していたため「敗因間違えるとは考え難く第三者敗者から得た信頼できる情報基づく」とした。『甲陽軍鑑』には「その日の(事前にあった別の戦い勝った思った今川軍略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあり、また別の史料徳川家康が「今川軍略奪し油断していた」と証言したのも確認した黒田略奪を"乱取り"と呼び新説を「乱取り状態急襲説」と名付けた

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桶狭間の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「桶狭間の戦い」の解説

詳細は「桶狭間の戦い」および「清洲同盟を参照 翌・永禄3年1560年5月今川義元尾張国侵攻した駿河遠江に加えて三河国をも支配する今川氏軍勢は、1万人とも45千人とも号する大軍であった織田軍はこれに対して防戦したがその兵力数千程度であった今川軍は、松平元康後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃行った信長静寂を保っていたが、永禄3年1560年5月19日午後一時、幸若舞敦盛』を舞った後、出陣した信長今川軍陣中強襲をかけ、義元討ち取った(桶狭間の戦い)。 桶狭間の戦いの後、今川氏三河国松平氏離反等により、その勢力急激に衰退させる。これを機に信長今川氏支配から独立した徳川家康この頃松平元康より改名)と手を結ぶことになる。両者同盟結んで互いに背後固めたいわゆる清洲同盟)。永禄6年1563年)、美濃攻略のため本拠小牧山城に移す 永禄8年1565年)、信長犬山城織田信清下し、ついに尾張統一達成した。さらに、甲斐国戦国大名武田信玄領国境界接することになったため、同盟を結ぶこととし同年11月信玄の四男・勝に対して信長養女龍勝寺殿)を娶らせた。 織田信長 銅像愛知県清須市清洲公園善照寺砦跡(名古屋市緑区桶狭間古戦場伝説地愛知県豊明市小牧山城小牧城下町愛知県小牧市

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桶狭間の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:42 UTC 版)

桶狭間の歴史」の記事における「桶狭間の戦い」の解説

1560年6月12日永禄3年5月19日)に勃発した桶狭間の戦いは、伝承従えば迫間村開墾から200年ほど時を経た時の出来事見なされる駿府発った今川義元本隊は、藤枝懸河掛川)・引間(ひくま、浜松)・吉田豊橋)・岡崎・地鯉鮒(ちりふ、知立)を経て『三河物語』)、合戦2日前にあたる6月10日旧暦5月17日)に近藤景春居城であった沓掛城位置)に入城する。なお、この同じ日に今川方の先手侍大将であった瀬名氏俊一隊陣取り後日到着する義元のための本陣造営村人かり出している。 義元構想していた作戦は、織田信長築いた善照寺丹下中島丸根鷲津の各砦を攻撃しそれらの砦に圧迫されていた鳴海大高の2城を救援後詰)し解放したのち、熱田進軍その先清洲城落城させるという主旨であったものと考えられる。このとき、鳴海城には岡部元信が、大高城位置)には鵜殿長照が、それぞれ織田方に備えて布陣敷いている。一方信長は、この2城を略取し今川勢力尾張から一掃することに主眼があったとみられる沓掛城到着し城中備蓄兵糧欠乏訴え鵜殿長照からの知らせ受け取った義元は、評定において松平元康後の徳川家康)に大高城への兵糧入れ命じている。大高城兵糧入れを行うには丸根砦鷲津砦立地する「棒山」の山間通過する必要があることから挟撃される可能性大きく斥候放ってその様子を偵察させたところ、敵の間近にあって押し通すことは困難であるという報告のほかに、敵は我々の軍旗見て山から下りてこないどころ山頂向かって退く始末なので通過容易であるという報告受けた元康は、速やかに行動すべきこと判断、翌6月11日旧暦5月18日)の夜までにそれを成功させている(『三河物語』)。 他方丸根砦佐久間盛重鷲津砦織田秀敏清洲城にあった織田信長宛てて、翌12日旧暦19日)の早朝満潮見込みのために清洲からの救援間に合わず、大高城から両砦に対して攻撃始ま見込みだとする急報走らせている。信長はその報告を表にはいっさい出さず、晩の評定では登城し部将らの前での雑談興じるのみであったという(『信長公記』)。 翌6月12日旧暦5月19日)の夜明けになり、丸根鷲津の両砦がいよいよ取り囲まれているとの急報手にした信長は、幸若舞敦盛一節詠じながら舞い従者5騎のみを連れて清洲城出立する辰の刻午前7時8時頃)に熱田源太夫殿宮(現上知我麻神社かみちかじんじゃ)、熱田神宮摂社)の付近までたどり着いた時にはるかに二筋煙が立ち上っているのが見え信長丸根鷲津の両砦が陥落した様子であることを知る。このまま海岸出て進めば近くはあったが満潮かかっていたこともあり断念、「かみ道」を駆って丹下砦、ついで佐久間信盛の居陣である善照寺砦まで進み、ここで兵を参集してそれを巡閲している(『信長公記』)。 沓掛城出立した義元軍勢は、午の刻正午頃)、「おけはざま山」に着陣して休息得ている。ここで丸根鷲津両砦の陥落報告受けた義元は謡に興じるなどし、前日来よ兵糧入れや砦攻略に手を砕いた松平元康鵜殿長照代わって大高城入り休息兼ねながら守備入っている信長善照寺砦入ったことを受けた佐々政次千秋季忠2部将は、高根山布陣していたとされる今川方の松井宗信300人ほどで急襲するものの、2将を含む50騎ほどが討死する。この様子を目にした今川義元は、自らの向かう先には天魔鬼神近づけまいと心地よくなり、悠々と謡を続けている(『信長公記』)。 なお、当の迫間村では、今川義元到着に合わせて村人たちは酒や肴の準備朝から大わらわとなり、午前11時頃には村長むらおさ)や有力者たちが羽織袴姿で今川義元本陣向かっている。この間年寄り女性子供たち北尾退避させており、義元従者たち贈り物をして本陣後にした有力者たちもそのまま村長の家に集まり部隊早急に大高立ち去ってくれることをひたすら祈っていたという。 他方信長はさらに先の中島砦まで進もうとする。中島へは周辺深田広がる中に一騎通れるほどの狭い道つながっているだけであり、移動の様子は敵方にも筒抜けになるとの懸念から周辺押しとどめようとするも、信長はそれを振り切って進み中島砦入城している。この時兵数は2,000人にも満ちていない。そしてさらに先に進もうとするのを今度押しとどめられたが、ここで信長全軍に対して触れ発している。この時抜け駆けをした前田利家10人前後銘々に敵兵の首を持ち帰ってきたのを見て信長はさらに兵を進め義元布陣していた「おけはざま山」の際までたどり着く(『信長公記』)。 このとき突然、天地揺るがすような驟雨となり、これが止んだ頃合いに、織田方の急襲始まる。今川方は一挙に崩れたそののち義元切り伏せられ、ついにその首を討ち取られてしまったという(『信長公記』)。 戦い決着着いたのは夕刻とみられ、信長その日のうちに清洲へと帰参している。今川方の部将義元敗死知って退却を始める。一部の城で立てこもり籠城もあったが信長の手に渡る。こうして織田信長は、今川氏による東方からの圧迫より解放され同氏長年浸食され続けた尾張国東部回復することになる。 ちなみに、洞迫間領していたともいう中山勝時は、桶狭間の戦いでは主君水野信元を通じて織田方に与していたとみられ、寄親・寄子の制に従って迫間村からも数人人夫中山陣営かり出されていたと考えられる中山勝時一方で大高城への兵糧搬入のために尾張国侵入した松平元康に対して火縄銃100丁を献上している。

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