桶狭間の戦い以前とは? わかりやすく解説

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桶狭間の戦い以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:42 UTC 版)

桶狭間の歴史」の記事における「桶狭間の戦い以前」の解説

愛智郡鳴海庄は、15世紀後半以降になると醍醐寺三宝院支配が及ばなくなったようである。このことに大きな影響与えたとみられるのが応仁の乱1467年応仁元年)-1477年文明9年)である。室町時代尾張国守護斯波氏であったが、戦後処理を始めた将軍足利義政が乱を通じて最大政敵となっていた斯波義廉への懲罰的討伐もくろみ守護代織田氏巻き込んで大攻勢しかけたことを機に徐々に没落をみるようになる。なお、尾張国のうち知多郡海東郡1391年明徳2年元中8年)の時点三河国守護であった一色詮範支配下置かれていたことが確認されているが、1440年永享12年)に一色氏から守護職引き継いだ細川氏支配十分に確立できずにやがて応仁の乱迎え、やはり勢力縮小をみることになる。守護の力がそがれたことで、国境に近い辺境地域ではとりわけ支配空白にさらされるようになり、境川流域にあった愛知郡知多郡碧海郡加茂郡もまた両国勢力伸ばし始めた土豪の手次第伸びるようになってくる。鳴海庄における醍醐寺三宝院支配衰退も、応仁の乱前後して知多郡北部愛知郡南部浸透始めたとみられる緒川水野氏、そして水野氏配下にあったという中山氏動きとまった無関係ともいえないであろう三河からは、水野氏動き呼応するように1535年天文4年)、その同盟関係にあった松平氏惣領松平清康尾張への侵攻はかっている。 尾張国守護斯波氏没落守護代であった織田氏台頭を許すことになるのだが、その織田氏清洲城織田大和守家)と岩倉城織田伊勢守家)に分かれて尾張国分割支配するようになって以降徐々に力を失い清洲三奉行一家分家であった織田弾正忠家がやがて浮上してくる。勝幡城城主であった織田信秀松平清康今川義元明確に対峙した天文年間1532年 - 1555年)になると、境川流域国境付近に点在していた中小土豪織田氏松平氏今川氏どちらか帰属することを余儀なくされることになる。 織田弾正忠家当主である織田信秀尾張国内の諸勢力諸家中)をあまねく掌握するまでになる。水野松平氏勢力浸食されつつあった尾張国東部愛知郡春日井郡)も、松平清康死により三河からの圧力急速に弱まったことがまず幸いして那古野城攻略着手今川那古野氏の旧領奪い取る形でその支配下に置くことに成功している。一方松平清康遺児松平広忠清康後継者として擁立その後ろ盾となることで三河国への浸透をはかり始めた今川義元は、安城合戦1540年天文9年))で居城安祥城織田信秀奪われ松平広忠加勢、また1549年天文18年)には織田氏奪われ広忠嫡子竹千代取り戻して自らの元に人質として置くなどし(『三河物語』1626年寛永3年)))、松平氏従属化を進めかたわら小豆坂の戦いなどにおいて直接織田方と交戦織田信秀による三河国への勢力拡大阻止すべく動いている。 その織田信秀領内での内紛美濃国斎藤氏との対立などの問題抱えながら次第にその力を衰えさせ、1551年天文20年)に病没した頃には、今川義元はすでに境川越えた尾張国内まで支配領域拡大し天白川越えうかがおうとしている。織田弾正忠家家督継いだばかりの織田信長にとっては、清洲城にあった守護斯波義統守護代織田信友織田大和守家)との対立家中では同母織田信行との対立などが当初からあり、父の死去によってその支配下にあった土豪次々と織田弾正忠家から乖離する動き見せ始め今川義元圧迫間近にさらされていた尾張国東部では、中村城山口教継鳴海城位置)の山口教吉笠寺城の戸部政直新左衛門)、沓掛城近藤景春などが今川方の傘下下って反旗を翻すなど、まさに火だるま状態であったといえる織田弾正忠家守護守護代との抗争1552年天文21年)頃から始まったが、翌1553年8月20日天文22年7月12日)、守護信長との内通疑った織田信友らが斯波義統殺害する事件起こりその子斯波義銀信長元に遁走する及んで旧主復仇という大義名分得た信長勢いをも得、安食の戦い1554年8月10日天文23年7月12日))などを経て守護代織田大和守家滅亡させた上、清洲城入城果たしている。尾張国東部では、山口教継尾張国奥深く位置する笠寺の地にまで今川方を迎え入れたことで、今川義元による浸食がいよいよ深刻なものとなっていたが、他方で、義元によってほぼ平定された三河国の中で唯一織田弾正忠家通じていた勢力刈谷城水野信元で、斎藤道三協力仰いだ信長はこの水野信元連携して緒川城近く築かれ今川方の村木砦猛攻の上陥落させたほか(『信長公記』(1610年慶長15年)頃))、1555年天文24年弘治元年)から1556年弘治2年)にかけて頻発した三河国内の今川蜂起への工作にもいそしんでいたものとみられる。その一方で信長稲生の戦い浮野の戦い勝利し尾張国内において自身対抗しうるだけの敵性勢力ある程度掃討することに成功した1557年弘治3年)に家督を氏真に譲った義元三河国平定および経営本格的に乗り出したほか、1558年永禄元年)頃、かつて織田信秀見限り近隣沓掛城大高城調略して尾張国東部明け渡した中村城山口教継鳴海城山口教吉親子駿府誘い出し誅殺する(『信長公記』)という暴挙に及ぶが、これは信長策略として流した不穏の噂を義元真に受けたともいわれる一方義元が旧織田方の勢力意図的に排除したものとも考えられ空席となった鳴海城主として家臣岡部元信当て実際に直接支配下置いたことで、尾張国侵攻へのひとつの布石とも捉えられるのである。そして翌1559年永禄2年)になると遠征のための準備着々と進めた。かたや信長義元尾張侵攻備え鳴海城周辺善照寺砦位置)、丹下砦位置)、中島砦位置)、大高城東辺に丸根砦位置)・鷲津砦位置)を築くなどして義元動き対応している。そして翌1560年6月1日永禄3年5月8日)に三河守補任された義元は、それからまもなくの6月5日旧暦5月12日)、1万あまり(『足利季世記』)とも45,000(『信長公記』)とも伝えられる大軍率いて駿府城を発つことになる。

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