桶狭間の戦い以前
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愛智郡鳴海庄は、15世紀後半以降になると醍醐寺三宝院の支配が及ばなくなったようである。このことに大きな影響を与えたとみられるのが応仁の乱(1467年(応仁元年)-1477年(文明9年)である。室町時代の尾張国守護は斯波氏であったが、戦後処理を始めた将軍足利義政が乱を通じて最大の政敵となっていた斯波義廉への懲罰的討伐をもくろみ守護代織田氏を巻き込んで大攻勢をしかけたことを機に、徐々に没落をみるようになる。なお、尾張国のうち知多郡と海東郡は1391年(明徳2年・元中8年)の時点で三河国守護であった一色詮範の支配下に置かれていたことが確認されているが、1440年(永享12年)に一色氏から守護職を引き継いだ細川氏は支配を十分に確立できずにやがて応仁の乱を迎え、やはり勢力の縮小をみることになる。守護の力がそがれたことで、国境に近い辺境地域ではとりわけ支配の空白にさらされるようになり、境川流域にあった愛知郡・知多郡・碧海郡・加茂郡もまた両国で勢力を伸ばし始めた土豪の手が次第に伸びるようになってくる。鳴海庄における醍醐寺三宝院の支配衰退も、応仁の乱と前後して知多郡北部・愛知郡南部に浸透を始めたとみられる緒川の水野氏、そして水野氏の配下にあったという中山氏の動きとまったく無関係ともいえないであろう。三河からは、水野氏の動きに呼応するように1535年(天文4年)、その同盟関係にあった松平氏惣領松平清康が尾張への侵攻をはかっている。 尾張国守護斯波氏の没落は守護代であった織田氏の台頭を許すことになるのだが、その織田氏も清洲城(織田大和守家)と岩倉城(織田伊勢守家)に分かれて尾張国を分割支配するようになって以降徐々に力を失い、清洲三奉行の一家で分家筋であった織田弾正忠家がやがて浮上してくる。勝幡城城主であった織田信秀と松平清康・今川義元が明確に対峙した天文年間(1532年 - 1555年)になると、境川流域の国境付近に点在していた中小の土豪は織田氏か松平氏・今川氏のどちらかへ帰属することを余儀なくされることになる。 織田弾正忠家当主である織田信秀は尾張国内の諸勢力(諸家中)をあまねく掌握するまでになる。水野・松平氏の勢力に浸食されつつあった尾張国東部(愛知郡・春日井郡)も、松平清康の死により三河からの圧力が急速に弱まったことがまず幸いして那古野城の攻略に着手、今川那古野氏の旧領を奪い取る形でその支配下に置くことに成功している。一方、松平清康の遺児松平広忠を清康の後継者として擁立、その後ろ盾となることで三河国への浸透をはかり始めた今川義元は、安城合戦(1540年(天文9年))で居城安祥城を織田信秀に奪われた松平広忠に加勢、また1549年(天文18年)には織田氏に奪われた広忠の嫡子竹千代を取り戻して自らの元に人質として置くなどし(『三河物語』(1626年(寛永3年)))、松平氏の従属化を進めるかたわら、小豆坂の戦いなどにおいて直接織田方と交戦、織田信秀による三河国への勢力拡大を阻止すべく動いている。 その織田信秀が領内での内紛、美濃国の斎藤氏との対立などの問題を抱えながら次第にその力を衰えさせ、1551年(天文20年)に病没した頃には、今川義元はすでに境川を越えた尾張国内まで支配領域を拡大し、天白川越えもうかがおうとしている。織田弾正忠家の家督を継いだばかりの織田信長にとっては、清洲城にあった守護斯波義統・守護代織田信友(織田大和守家)との対立、家中では同母弟織田信行との対立などが当初からあり、父の死去によってその支配下にあった土豪も次々と織田弾正忠家から乖離する動きを見せ始め、今川義元の圧迫に間近にさらされていた尾張国東部では、中村城の山口教継、鳴海城(位置)の山口教吉、笠寺城の戸部政直(新左衛門)、沓掛城の近藤景春などが今川方の傘下に下って反旗を翻すなど、まさに火だるま状態であったといえる。織田弾正忠家と守護・守護代との抗争は1552年(天文21年)頃から始まったが、翌1553年8月20日(天文22年7月12日)、守護と信長との内通を疑った織田信友らが斯波義統を殺害する事件が起こり、その子斯波義銀が信長の元に遁走するに及んで旧主の復仇という大義名分を得た信長は勢いをも得、安食の戦い(1554年8月10日(天文23年7月12日))などを経て守護代織田大和守家を滅亡させた上、清洲城入城を果たしている。尾張国東部では、山口教継が尾張国の奥深くに位置する笠寺の地にまで今川方を迎え入れたことで、今川義元による浸食がいよいよ深刻なものとなっていたが、他方で、義元によってほぼ平定された三河国の中で唯一織田弾正忠家と通じていた勢力が刈谷城の水野信元で、斎藤道三の協力も仰いだ信長はこの水野信元と連携して緒川城の近くに築かれた今川方の村木砦を猛攻の上陥落させたほか(『信長公記』(1610年(慶長15年)頃))、1555年(天文24年、弘治元年)から1556年(弘治2年)にかけて頻発した三河国内の反今川蜂起への工作にもいそしんでいたものとみられる。その一方で、信長は稲生の戦いや浮野の戦いで勝利し、尾張国内において自身に対抗しうるだけの敵性勢力をある程度掃討することに成功した。 1557年(弘治3年)に家督を氏真に譲った義元は三河国の平定および経営に本格的に乗り出したほか、1558年(永禄元年)頃、かつて織田信秀を見限り、近隣の沓掛城や大高城を調略して尾張国東部を明け渡した中村城主山口教継・鳴海城主山口教吉親子を駿府に誘い出して誅殺する(『信長公記』)という暴挙に及ぶが、これは信長が策略として流した不穏の噂を義元が真に受けたともいわれる一方、義元が旧織田方の勢力を意図的に排除したものとも考えられ、空席となった鳴海城の主として家臣の岡部元信を当て実際に直接支配下に置いたことで、尾張国侵攻へのひとつの布石とも捉えられるのである。そして翌1559年(永禄2年)になると遠征のための準備を着々と進めた。かたや信長も義元が尾張侵攻に備え、鳴海城の周辺に善照寺砦(位置)、丹下砦(位置)、中島砦(位置)、大高城東辺に丸根砦(位置)・鷲津砦(位置)を築くなどして義元の動きに対応している。そして翌1560年6月1日(永禄3年5月8日)に三河守に補任された義元は、それからまもなくの6月5日(旧暦5月12日)、1万あまり(『足利季世記』)とも4万5,000(『信長公記』)とも伝えられる大軍を率いて駿府城を発つことになる。
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