桶狭間の戦い以後
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1575年12月30日(天正3年11月28日)、尾張国および美濃国は、織田信長より正式に家督を譲られた嫡男織田信忠に扼されることになる。なお、それからまもなくの1576年1月27日(天正3年12月27日)、知多郡を支配下に置き、織田信長・松平元康の間を取り持って清洲同盟を成立させた立役者でもあった水野信元が讒言を受け、織田信長の命により松平元康に誅殺されるという不可解な事件が起きている。やがて1582年6月21日(天正10年6月2日)に起きた本能寺の変により、信忠は二条城において奮戦するも最後に自刃して果て、水野氏を離れ織田信忠の家臣となっていた中山勝時も、このとき信忠に殉じている。明智光秀の反乱を短期間に抑えた羽柴秀吉は7月16日(旧暦6月27日)に柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興と共に清洲会議を催し、この席で信長の次男織田信雄の尾張国相続が決定される(美濃国は信長の三男織田信孝が相続)。織田信雄は初め秀吉に与し、柴田勝家に呼応した異母弟の信孝を討つなどして領国を広げたが(尾張国・伊勢国・伊賀国)、次第に秀吉と対立、小牧・長久手の戦い(1584年(天正12年))の結果としてこれに服属するも、小田原征伐(1590年(天正18年))の論功行賞でなされた国替えの命令を拒否したことにより改易され、ここに織田信雄の尾張国支配も終止符が打たれることになる。 信雄追放によって新たに尾張国に封ぜられたのは、秀吉の甥にあたる豊臣秀次である。ただし秀次は1592年2月11日(天正19年12月28日)に秀吉から関白職を譲り受けて常に在京することになり、尾張国の実質的な支配は秀次の父である三好吉房があたっていたとされる。豊臣秀頼の誕生を機に秀次との関係に微妙な緊張が走り出した1593年(文禄2年)頃から、秀吉は鷹狩りを名目として尾張国の監察に赴いたり、奉行を派遣して実地調査を行わせるようになるが。その目的は秀次の失政を追及することにあり、後の秀次事件(1595年(文禄4年))が引き起こされるための布石のひとつともなっている。この秀次事件によって豊臣秀次は自刃、三好吉房も流罪となり、尾張国はいったん秀吉が掌握した後、清洲城を与えられた福島正則の支配下に入ることになる<。この福島正則執政期の尾張国は、旧秀次領を没収して引き継いだ秀吉直轄領(豊臣氏蔵入地)、福島正則領、黒田城主一柳直盛領・犬山城主石川光吉領などが入り組んでおり、洞迫間村一帯を含む知多郡・愛知郡南部は福島正則預かりの秀吉直轄領であったとみられる。秀吉の死後勃発した関ヶ原の戦いはさらに諸大名の変動を引き起こし、東軍に与した福島正則は安芸広島49万8,000石の領主に栄転、一柳直盛も伊勢神戸城主として加増転封(3万5,000石→5万石)、西軍に与した石川光吉はその領地を没収されるなどした結果、福島正則が去った清洲城には徳川家康の四男であった松平忠吉が入城、忠吉の家老であった冨永忠兼と小笠原吉次がそれぞれ黒田城主と犬山城主に封じられている。ただしかつての秀吉直轄領であった知多郡などでは、土着の水野氏や千賀氏に対して徳川家康から領地を分与されていることから、松平忠吉の支配に属さず徳川家康直轄地(徳川氏蔵入地)であったとみられる。
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