桶狭間の戦い以後とは? わかりやすく解説

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桶狭間の戦い以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:42 UTC 版)

桶狭間の歴史」の記事における「桶狭間の戦い以後」の解説

1575年12月30日天正3年11月28日)、尾張国および美濃国は、織田信長より正式に家督譲られ嫡男織田信忠に扼されることになる。なお、それからまもなくの1576年1月27日天正3年12月27日)、知多郡支配下に置き、織田信長松平元康の間を取り持って清洲同盟成立させた立役者でもあった水野信元讒言を受け、織田信長の命により松平元康誅殺されるという不可解な事件起きている。やがて1582年6月21日天正10年6月2日)に起きた本能寺の変により、信忠二条城において奮戦するも最後に自刃して果て水野氏離れ織田信忠家臣となっていた中山勝時も、このとき信忠殉じている。明智光秀反乱短期間抑えた羽柴秀吉7月16日旧暦6月27日)に柴田勝家丹羽長秀池田恒興と共に清洲会議催し、この席で信長次男織田信雄尾張国相続決定される美濃国信長三男織田信孝相続)。織田信雄初め秀吉与し柴田勝家呼応した異母弟の信孝を討つなどして領国広げたが(尾張国伊勢国伊賀国)、次第秀吉対立小牧・長久手の戦い1584年天正12年))の結果としてこれに服属するも、小田原征伐1590年天正18年))の論功行賞なされた国替え命令拒否したことにより改易され、ここに織田信雄尾張国支配終止符打たれることになる。 信雄追放によって新たに尾張国に封ぜられたのは、秀吉の甥にあたる豊臣秀次である。ただし秀次は1592年2月11日天正19年12月28日)に秀吉から関白職を譲り受けて常に在京することになり、尾張国実質的な支配は秀次の父である三好吉房あたっていたとされる豊臣秀頼誕生機に秀次との関係に微妙な緊張走り出した1593年文禄2年)頃から、秀吉鷹狩り名目として尾張国監察赴いたり、奉行派遣して実地調査行わせるうになるが。その目的は秀次の失政追及することにあり、後の秀次事件1595年文禄4年))が引き起こされるための布石のひとつともなっている。この秀次事件によって豊臣秀次自刃三好吉房流罪となり、尾張国はいったん秀吉掌握した後、清洲城与えられ福島正則支配下に入ることになる<。この福島正則執政期の尾張国は、旧秀次領を没収し引き継いだ秀吉直轄領豊臣氏蔵入地)、福島正則領、黒田城主一直盛領・犬山城石川光吉領などが入り組んでおり、洞迫間村一帯を含む知多郡愛知郡南部福島正則預かり秀吉直轄領であったとみられる秀吉死後勃発した関ヶ原の戦いはさらに諸大名変動引き起こし東軍与した福島正則安芸広島498,000石の領主栄転一柳直盛伊勢神戸城主として加増転封(35,000石→5万石)、西軍与した石川光吉はその領地没収されるなどした結果福島正則去った清洲城には徳川家康の四男であった松平忠吉入城忠吉家老であった冨永忠兼と小笠原吉次それぞれ黒田城主と犬山城主に封じられている。ただしかつての秀吉直轄領であった知多郡などでは、土着の水野氏千賀に対して徳川家康から領地分与されていることから、松平忠吉支配属さず徳川家康直轄地徳川氏蔵入地であったとみられる

※この「桶狭間の戦い以後」の解説は、「桶狭間の歴史」の解説の一部です。
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