徳川家康
(松平元康 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/10 05:15 UTC 版)
徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、室町時代後期(戦国時代)から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名。江戸幕府初代征夷大将軍。安祥松平家5代当主で徳川家や徳川将軍家、徳川御三家の始祖。織田信長との織徳同盟を基軸に勢力を拡大。豊臣秀吉の死後に引き起こした石田三成との関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣氏に対抗しうる地位を確立。1603年に後陽成天皇により征夷大将軍に任じられ、264年間続く江戸幕府を開いた[3]。関ヶ原の戦いの後も、領地を削減されたとはいえ豊臣氏(豊臣秀頼)は一定の力を有していたが、方広寺(京の大仏)に納める梵鐘の鐘銘を巡る一連の紛争である方広寺鐘銘事件を契機として豊臣方と開戦し(大坂の陣)、1615年に大坂夏の陣により豊臣氏を滅ぼし、全国支配を磐石なものにした。三英傑の1人である。ちなみに徳川家康とは短縮名であり、『徳川次郎三郎源朝臣家康』が正式名である。これを区分すると、「徳川」が名字、「次郎三郎」が通称、「源」が姓(かばね)、「朝臣」が家格を表す姓、「家康」が名前となる[6]。
松平元康(まつだいら もとやす)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 00:27 UTC 版)
「センゴク外伝 桶狭間戦記」の記事における「松平元康(まつだいら もとやす)」の解説
松平広忠の嫡男。幼名は竹千代。今川家への従属を決断した父のために今川家の人質となるはずだったが、織田信秀の謀略によって織田家の人質となる。そこで少年時代の信長とも知り合っているが、太原雪斎によって捕らえられた織田信広と交換される形で今川家に取り戻された。後に元服して義元の「元」の偏諱を与えられ元康と改名、その姪である築山殿を娶った事で今川一門の武将「松平次郎三郎元康」と名乗る。祖父・父から続く猛将の資質とその裏返しとしての癇癪を引き継いでいるが、他方で信長に誘拐されたときに幼児にも関わらず「声を出すな」と言われて最後まで沈黙を続けるような忍耐強さも持つ。
※この「松平元康(まつだいら もとやす)」の解説は、「センゴク外伝 桶狭間戦記」の解説の一部です。
「松平元康(まつだいら もとやす)」を含む「センゴク外伝 桶狭間戦記」の記事については、「センゴク外伝 桶狭間戦記」の概要を参照ください。
松平元康(声:石川英郎)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 23:13 UTC 版)
「決戦III」の記事における「松平元康(声:石川英郎)」の解説
後の徳川家康。「村木の戦い」では今川軍の武将として敵対するも今川義元の戦死後、信長と同盟を組み仲間になる。武将系統は「万能」で兵種は槍足軽を使う(長篠決戦のみ鉄砲足軽を使う)ゲームの表紙に少しだけ顔を出している。
※この「松平元康(声:石川英郎)」の解説は、「決戦III」の解説の一部です。
「松平元康(声:石川英郎)」を含む「決戦III」の記事については、「決戦III」の概要を参照ください。
- 松平元康のページへのリンク