家忠日記
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家忠は自身の日記である『家忠日記』(いえただにっき)の著者としても知られる。これは天正3年(1575年)から文禄3年(1594年)10月までの17年間、その日に何が起こったかを簡潔に書き綴った日記である。原本は家忠の嫡孫で江戸時代初期の深溝松平家の当主・松平忠房が修補したものが保管され、現存する。 内容は天候や季節の淡々とした日常的なことから、戦などの政治情勢・外交に関する記述も多くある。出来事や天候に対する自らの感想・寸評などほとんど書いていないが、能を鑑賞したり連歌や茶の湯を楽しんだとの記述があり、家忠の文化人としての性格も示している。 織田政権から豊臣政権へと変遷する当時の情勢において、家康は東国に五カ国を領有し独自の勢力を築いていた立場にあり、『家忠日記』の記述は家康を中心に戦国・安土桃山期の政治情勢を知るほか、甲斐武田氏や相模後北条氏など徳川氏と外交・敵対関係にあった大名家の動向を知る史料として注目されている。また、日常的記述の部分も当該期の武家や大名たちの状態、日常生活や習慣を知る史料として注目されている。例えば織田信長の家臣で黒人の弥助について、甲州征伐の帰国途上に目撃し「名は弥助、身の丈六尺二分、黒人男性、身はすみのごとく」などと記しているため、黒人であることの裏付けが取れ、また、弥助の身長がわかる。 なお、将棋の現存最古の局面図が日記に登場している。ただ局面が描かれているだけで家忠が指したかどうかは定かでないが、増川宏一によれば対局者は相当弱い棋力であり、実力は級位者程度であろうという。 なお原本の内容と明治30年に出た史誌業書本及びそれをもとにした本の内容は相違があると東大の岩沢愿彦は指摘している。
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