家慶出仕
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天保12年(1841年)1月30日家斉が死去すると、3月23日本丸小納戸に復帰し、徳川家慶に近侍した。7月10日新座敷上段小襖の制作を命じられ、10月江戸城大奥小座敷の泥引を手伝い、絵具・猪口を賜った。 天保14年(1843年)4月兄と家慶の日光社参に随行した。天保15年(1844年)5月10日本丸が焼失し、再建に当たり、雁の間小襖に「朝鮮持渡鷹」「波に千鳥」を制作した。弘化3年(1846年)2月甥泰善と別の朝岡家との養子縁組を仲介した。 嘉永5年(1851年)8月14日退勤して寄合に入った。嘉永6年(1853年)3月27日退職して隠居料300俵を賜り、29日剃髪して三楽と号した。 安政3年(1856年)、4月27日『古画備考』を実家の狩野雅信に託して死去し、四谷全勝寺に葬られた。仏号は白峰院幽水三楽居士。墓は明治には荒廃し、下高井戸龍泉寺墓地に合併されたともいうが、現在いずれの寺にも確認できない。
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