著作者
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著作者(ちょさくしゃ)は、著作物を創作した者。著者(ちょしゃ)とも呼ばれる。具体的には小説家・漫画家など出版物の著者、作詞家・作曲家、テレビドラマ・映画・アニメーションなどの監督・脚本家、テレビ番組・ラジオ番組の制作者、戯曲の劇作家、画家・彫刻家など芸術作品の作者などである。
- ^ 「コンピュータ・プログラムに係る著作権問題に関する調査研究協力者会議報告書―コンピュータ・ソフトウェアと法人著作権について―」の送付について 文化庁次長通知 1992年6月8日
- 1 著作者とは
- 2 著作者の概要
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「軍事戦略 (ワイリー)」の記事における「著者」の解説
ワイリーは1911年3月にアメリカのニュージャージー州ニューアークに生まれ、高校を退学して17歳で海軍士官学校に入学した。海軍士官学校を卒業した後には海上勤務や造船所での勤務を経て太平洋戦争に参加している。日本海軍との戦闘任務に従事しただけでなく、艦艇の作戦行動において情報機能を一元化するための戦闘情報センターの設置や教範類の作成に携わっている。ワイリーは1950年から海軍大学で海軍戦略についての教育を実施する任務を与えられ、海軍戦略についての研究に参与した。この頃から『太平洋での戦争を振り返って』、『なぜ水兵は水兵のように考えるのか』という諸論文を発表しており、本書の基盤となっている。
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一般的にいわれてきたこととして、著者の熊沢猪太郎は肥前国平戸藩の藩士で、諱は正興、号を淡庵、または砕玉軒ともいい、備前国岡山藩の藩士であった陽明学者の熊沢蕃山の弟子とされている。そのため本著に採録された逸話は、肥前平戸藩と備前岡山藩関係のものが、他藩のものと比較して多数を占めることも道理とされていた。 しかし東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということだった。これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない。
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「リヴォニア年代記 (13世紀前半)」の記事における「著者」の解説
著者はラトビアのヘンリー(en)(ドイツ語音写:ハインリヒ・フォン・レットラント)とよばれるカトリックの宣教師である。出生は1180年から1188年と考えられる。また、そのファーストネームと、著述の中でドイツ人を指して「我々」の意の一人称複数形を用いていることから、ドイツ出身の人物と考えられている。ラトビアのヘンリーは、後に初代リガ司教となるアルベルト(en)(Albert von Buxthoeven)から教育を受けた。1208年には司祭に任命され、宣教師としてリヴォニアへ向かった。『リヴォニア年代記』はその中の記述によれば、1125年から1227年の間にGuglielmo(en)からの要求に従ってラトビアのヘンリーにより記されたものである。
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「一本の樹が遺したもの」の記事における「著者」の解説
著者のジュリア・バタフライ・ヒルは、作家、詩人、活動家。サークルオブライフ財団の創始者。他の著作に「One Makes The Difference」がある。ミドルネームの「バタフライ」は森林名、活動名などといい、本人の考えたもの。
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著者についても不詳であるが、自分は「鴻池流」の人間であると書いていること、商才に敏感な記述が多いこと、などから鴻池流の蔵元の誰かであると思われる。
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寒川入道という人物は伝えられておらず不明である。「寒川」を「さむかわ」と読む確証もなく、そもそもこの題が著者によって付けられたものかどうかも明らかでないが、松永貞徳の著であるとして伝えられてきたようである。 『続群書類従』では、『貞徳翁之記』と同じ巻に寒川入道筆記が収録されており、宮内庁書陵部の蔵書では『貞徳翁之記』と合綴されている。 鈴木棠三はさらに、同書の内容から著者は細川幽斎・里村紹巴等の連歌作者と近い関係にあり、幽斎に師事していたことも伺われるとして、松永貞徳説を支持している。
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著者であるシャンバ・エルケ・ダイチン(Šamba erke dayičing,善巴)は、ダヤン・ハーンの子、ゲレセンジェ・タイジの6世孫である。その活動については『蒙古回部王公表伝』巻六十九 伝五十三 扎薩克和碩親王善巴列伝に記されている。生年については不明であるが、1664年、父の死を継いで所領を継承、1667年に扎薩克(ジャサク)の地位を継ぎ、イテゲンジトゥ・エイェチ・エルケ・ダイチン(Itedemjitü eyeči erke dayičing 信順額爾克岱青)の号を与えられた。1688年、ジュンガルのガルダンの侵攻を受け、内モンゴルに退避。1691年、ドロンノールで康熙帝に謁見し、多羅郡王(ドロイ・ギュンワン)に封じられた。1696年、康熙帝のガルダン遠征に従い、功績があったことから、和碩親王(ホショイ・チンワン)に封じられる。1698年に故地へ戻ったが、その9年後である1707年に亡くなった。同年、長子のタシドンドブ(達什敦多布)が和碩親王の爵を継承したが、清朝は1725年にその祖先であるトゥメンケンの子孫が増えているということで、その一族をトシェート・ハン部から独立させ、タシドンドブにサイン・ノヤンの称号を与えて盟長とし、サイン・ノヤン部を新設させた。このようにシャンバはハルハの政治において重要な位置にあり、またチベット語に精通した知識人でもあった。そのため『アサラクチ史』には多くのチベット文献が利用されている。
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騎士サー・ジョン・マンデヴィル。イギリスのセント・オールバンズにて生まれ育つ。1322年9月29日聖ミカエルの日に、エルサレムの教会や聖堂を訪れるためにイングランドを出発し、1356年に帰国する。その後、訪れたのはエルサレムの聖地だけでなく、世界各地へと足を伸ばしたと主張し旅行記を書いた。しかしながら、マンデヴィルという人物が実在した確たる証拠は存在しない。マンデヴィルの正体に関しては、山師、経歴を詐称したフランス人、殺人者、実在の人物ではない、など文献が残されている。また、東方旅行記を書いたのはマンデヴィル以外だという説もあり、ベルギーのリエージュの内科医ジャン・ド・ブルゴーニュ、リエージュの公証人ジャン・ドゥートルムーズ、作者を特定しないまでもイギリス人の作であるとするものがある。
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伝統的に、著者は、バビロン捕囚後の最初の預言者ハガイであるとされる。 この文書の著者は詩的表現を使わず単純明快な言葉で預言を伝えている。エルサレム神殿の再建(紀元前515年)がその預言の主題となっている。 なお、ハガイとはヘブライ語で「祝祭」という意味である。
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いくつかの手がかりをもとに、稲賀敬二は藤原時朝、堤康夫は金沢実時と推測している。ただし、決定的な証拠が存しないため、現時点では不明とするほかない。
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マヌエル・バレト(Manuel Barreto、またはManoel Barreto、1564年 - 1620年)は、1590年(天正18年)イエズス会宣教師として、日本に帰国する天正遣欧少年使節と共に来日した。
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「ソード・ワールド短編集」の記事における「著者」の解説
短編集に小説を執筆した著者は、25冊の時点で28名を数える。山本弘・清松みゆき・藤澤さなえ・水野良・高井信などが多くの短編を執筆している。著者はほぼ全てがグループSNEの関係者だが、『戦乙女の槍』に収録された短編は一般公募した「ソード・ワールド短編コンテスト」の優秀作であり、本職の小説家の作ではない。
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著者のマイケル・ヒルツィックは、ロサンゼルス・タイムズ紙の通信員。アメリカ合衆国カリフォルニア州の南部に在住。
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「ガンガイン・ウルスハル」の記事における「著者」の解説
『ガンガイン・ウルスハル』の著者はゴムボジャブ(Gömböjab 袞布扎布)といい、内蒙古ウジュムチン右翼旗の出身である。『蒙古回部王公表伝』(巻34、伝18)によると、彼はチンギス・ハーンの20世孫で、順治十四年(1657年)から康熙二十九年(1690年)までウジュムチン王家の長であった扎薩克和碩車臣親王(ジャサク・ホショイ・チェチェン・チンワン)素達尼(ソダニ)の弟、協里台吉(シェリ・タイジ)烏達喇什(ウダラシ)の子、と記されている。ゴムボジャブは康熙三十一年に輔国公の爵位を得たものの、間もなくその爵位は取り消された。その後、康熙年間に北京の宮廷に赴いた際、チベット語が堪能であることを認められ、雍正帝によって西番学総理(Töbed surγaγuli-yin jakin surγaγči sayid)に任命された。彼はモンゴル語,チベット語の他に、満州語,中国語にも堪能であった。その後ゴムボジャブはチベット文の『中国仏教史』を編纂し、さらにチベット文『タンジュル(テンギュル、丹珠爾)』を翻訳するための辞書『メルゲト・ガルヒン・オロン(Merged γarqu-yin oron)』の編纂(1741年 - 1742年)、『テンギュル』のモンゴル語訳事業にも携わり(1742年 - 1749年)、『大唐西域記』や医薬の書のチベット語訳を編纂した。
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1章1節によれば著者はアモスで、テコア出身の牧夫であったという。テコアについては、エルサレムの南方約18キロの地点であると同定されているため、出身地はユダ王国であると一般に解される。 預言期間は不明であるが、時期については同じく1章1節から、ウジヤ(ユダ王国)、ヤラベアム2世(イスラエル王国)の時代、地震の2年前より開始されたとの記述がある。この同じ地震への言及は、聖書中ではゼカリヤ書14章5節があるのみで、正確な時期を特定する情報は存在しない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/29 14:46 UTC 版)
本書の著者とされる預言者ミカは、ミカ書1章1節によれば、モレシェト出身で、預言者イザヤと同時代人である。その活動は、主として、出身地モレシェトの圧政に苦しんでいる人々のためになされた。ミカの活動は旧約聖書・エレミヤ書26章17~18節にも記載されている。
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「皮錫瑞」も参照 著者は、皮錫瑞(ひ しゃくずい、ひ せきずい)。字は鹿門、麓雲、号は師伏。1850.12.17[道光30.11.14]~1908.3.6[光緒34.2.4]、中国清の学者。 湖南善化(現、湖南長沙)の人。光緒8年に挙人。今文経学の大家で、龍潭書院、経訓書院、尊経書院などの主講を務めた。日清戦争後、康有為、梁啓超らのとなえる変法に与し、湖南省で行われた新政を支持したが、王先謙や葉徳輝(ようとくき)ら保守派の圧迫で、江西省の経訓書院に去った。さらに弾劾をうけ、挙人の資格を剥奪されて3年間蟄居の身となった。挙人を回復したのち、湖南師範館に招かれ、経学と倫理を講義した。 〖主著〗 経学歴史、 1906。〖参考〗 呉仰湘:通経致用一代師─皮錫瑞生平和思想研究、 2002。小野川秀美:清末政治思想研究、 2009。。
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著者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 04:05 UTC 版)
トーアおよびフォージから出版している著者としてはケヴィン・J・アンダースン、ジーン・ウルフ、スティーヴン・エリクソン(英語版)、オーソン・スコット・カード、アイリーン・ガン、ジェイムズ・ガン、ジョナサン・キャロル、スティーヴン・グールド(英語版)、テリー・グッドカインド、サラ・ゲイリー(英語版)、マイク・コール(英語版)、メアリ・ロビネット・コワル、チャールズ・デ・リント、フィリップ・K・ディック、コリイ・ドクトロウ、ブランドン・サンダースン、ヴィクトリア・シュバーブ(英語版)、ロバート・ジョーダン、ジョン・スコルジー、アンドレ・ノートン、グレン・ハーシュバーグ(英語版)、ブライアン・ハーバート(英語版)、スティーヴン・ブルースト(英語版)、スカイラー・ホワイト(英語版)、リチャード・マシスン、L・E・モデシット・ジュニア(英語版)およびハロルド・ロビンズなどがいる。 トーアUKはダグラス・アダムズ、エイドリアン・チャイコフスキー(英語版)、リューリック・デイビッドソン、アダム・ネヴィル(英語版)、アマンダ・ホッキング(英語版)、チャイナ・ミエヴィルなどの作品を出版している。
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『ホセア書』に同時代人として挙げられている王の名はイスラエル王国・ユダ王国末期のものであり、これを信ずるなら紀元前8世紀末の人物である。 第1章第1節には、著者がホセアであることと、その預言期間がウジヤの治世からヒゼキヤの治世にまで及ぶことが主張される。出身部族に関する情報を含め、この預言者に関する情報をそれ以上聖書は提供していない。聖書の記述によれば、各王の治世はそれぞれ以下の通りとなるため、預言者としての活動期間は、ヨタム、アハズの統治の合計である31年以上と算定される。 王統治期間即位年南ユダ王国ウジヤ(アザルヤ) 52年 ヤロブアムの第27年 - 列王記下 15:1 ヨタム 16年 ペカの第2年 - 列王記下 15:32 アハズ 16年 ペカの第17年 - 列王記下 16:1 ヒゼキヤ 29年 ホシェアの第3年 - 列王記下 18:1 北イスラエル王国ヤロブアム2世 41年 アマツヤ(ウジヤの父)の第15年 - 列王記下 14:23 ゼカルヤ 6ヶ月 アザルヤの第38年 - 列王記下 15:8 シャルム 1ヶ月 ウジヤの第39年 - 列王記下 15:13 メナヘム 10年 アザルヤの第39年 - 列王記下 15:17 ペカフヤ 2年 アザルヤの第50年 - 列王記下 15:23 ペカ 20年 アザルヤの第52年 - 列王記下 15:27 ホシェア 9年 アハズの第12年 - 列王記下 17:1 北イスラエル王国の滅亡 - 列王記下 17:18 北イスラエル王国を統治した王については、ホセア書はヤロブアムへ言及するのみである。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 15:50 UTC 版)
著者について、近代までは一条経嗣・一条兼良・一条冬良ら一条家の人間の誰かが推定されていた。その後、「応永本」などの奥書から永和2年(1376年)には既に存在していたことが明らかになり、その根拠は失われた。 基本的には、北朝の公家貴族で、和歌から『源氏物語』などの小説まで日本文学に幅広く精通し、かつ学問への素養が深い人間が想定される。石田吉貞は、内容からして元弘の乱の混沌を直に見た人物ではないかとする。井上宗雄は、敬語表現からして、名家(公家の家格の一つ)の人間を軽んじる傾向から、羽林家もしくは大臣家以上の家格の人間であろうとしている。また、小川剛生によれば、南朝を開いた後醍醐天皇を畏敬し、和歌では二条派に親しく京極派にはそれほどでもなく冷泉派には全く無関心である人物である。 以上の人物像に最も合致する人物として、昭和時代、特に有力視されたのは北朝准三宮にして連歌の大成者である二条良基である。また良基は北朝の実力者でありながら、南朝を開いた後醍醐天皇とは朝儀復興という理想を共有することから、後醍醐への敬愛が著しく、この点も『増鏡』の内容と一致する。とはいえ、これらはあくまで状況証拠であり、慎重さを求める声も多く、有力説ではあるものの「通説」とまでは至っていない。 その他には、和田英松の二条為明説、宮内三二郎の兼好法師説(これはほとんど支持されない)、田中隆裕の洞院公賢説などがある。また、関東四郎の二条為定説や荒木良雄の丹波忠守説などもある。また、二条良基著者説に否定的な小口倫司は中院家関係者を著者として想定した。 作者を南朝の人間とする説も一部にあり、中村直勝は、南朝公卿四条隆資の還俗で『増鏡』が終わることから、作者は隆資ではないかとした。しかし、石田らは公家大将として戦場でも活躍した隆資に執筆の時間があったかどうかを疑問視し、四条説を否定した。一方、小沢良衛は、『増鏡』が資料として多く用いた『とはずがたり』の作者後深草院二条は母方が四条家であることを指摘し、隆資説を積極的には否定しない。 井上は現存する資料のみから特定の人物に比定する試みそのものに無理があるとし、判断を控える。小川は当初は井上と同様の態度を示していたが、後に二条良基説を否定して(良基の協力を得た)丹波忠守説を唱えた。ところが、後の著作では良基もしくはその支援を受けた人物(具体名は触れず)と自説の修正を行っている。
※この「著者」の解説は、「増鏡」の解説の一部です。
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『なんくるないさぁ。』主婦と生活社。 『涙の向こうに花は咲く』世界文化社、2018年7月18日。 典拠管理 WorldCat Identities VIAF: 253048077 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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「テサロニケの信徒への手紙二」の記事における「著者」の解説
第二テサロニケ書の第1章1節には、著者としてパウロ、および同行者のシルワノ、テモテの名があるが、著者問題については、パウロが生前に執筆した真正書簡とする説、パウロの死後に別人が執筆した擬似書簡とする説のほか、パウロの生前にその意を受けて近しい人物が第一テサロニケ書の真意を敷衍したと見る「代筆説」などもある。 正典中のパウロ書簡をすべて真正書簡と見なすカトリックのバルバロ訳聖書や福音派の『新聖書辞典』(いのちのことば社)は、当然これも真正書簡と見ている。エフェソ書や牧会書簡について真正書簡・擬似書簡の両論が併記されているフランシスコ会訳聖書の解説でも、この第二テサロニケ書については、「現代のほとんどすべての聖書学者」が真正パウロ書簡と認めていると述べられている。同じく、エフェソ書や牧会書簡がほぼ真正書簡とは見なせないことを明記している『新約聖書略解』(日本基督教団出版局)でも、第二テサロニケ書について「今日大多数の人々」が真正書簡の立場を採用していると述べられていた。 また、擬似書簡の立場をとる辻学も、真正書簡とする説が根強いことは認め、ことに20世紀末から21世紀初頭の「北米で出版されている注解書はほとんどがそうである」と指摘している。保坂高殿も擬似書簡の立場をとるが、牧会書簡などと比べた時には、擬似書簡と見なすことの確実性が落ちることは認めている。 他方で、擬似パウロ書簡とする立場をとるギュンター・ボルンカムは「今日多くの研究者によって」擬似パウロ書簡と位置づけられていることを指摘し、認識の正当性を主張していた。ドイツ語圏の動向については松永晋一も、ヴェルナー・キュンメル(ドイツ語版)、アルブレヒト・エプケ(ドイツ語版)などを除けば「多くの研究者」が擬似書簡の立場としている。『旧約新約聖書大事典』(教文館)のテサロニケ書の記述はヴィリー・マルクスセン(ドイツ語版)の記述が土台になっているが、そこでも真正書簡説を擁護するのは「今日ほんのわずか」とされている。真正書簡説に立っていた山谷省吾も1972年の註解書でマルクスセンの見解などを踏まえつつ、有力になりつつあるのは擬似パウロ書簡説であるとしていた。 また、新アメリカ聖書のカトリック・スタディ・バイブル(オックスフォード大学出版局)では、擬似書簡と見る説が「近年ますます推進されている」と述べられている。上智大学の編纂した辞典(事典)では、1950年代の『カトリック大辞典』で真正書簡説が採られていたのに対し、21世紀の『新カトリック大事典』では擬似書簡説に差し替わっている。カトリック教会の聖職者では、ベネディクト会のミュンスターシュヴァルツァッハ修道院長のアンゼルム・グリューン(ドイツ語版)も、第二テサロニケ書がパウロ以外の著作であると明言している。 擬似パウロ書簡を支持する論者の中には、田川建三のように論拠の幾つかを挙げた際に「まっとうな学者はほぼ皆さん」がこれと同じ立場であるとする者もいる。他方で、自身が擬似書簡の立場に立つバート・D・アーマン(英語版)は、「大勢の優秀な学者が、真っ二つに分かれて議論している」この書簡は、擬似書簡の中でも「その作者を巡って最も熾烈な論争が繰り広げられている」とした。文庫クセジュのレジス・ビュルネ(フランス語版)の概説書のように、どちらが優勢かを記さずに純粋に両論を併記するにとどまる文献もある。 なお、擬似パウロ書簡の立場に立つ論者の中でも、実際の著者については、パウロの思想をよく理解し、尊重していた人物と見る説が多い一方、そうした思想の継承に懐疑の目を向ける論者もいる。パウロの弟子であり執筆者の一人となっているテモテを著者とする説もある。
※この「著者」の解説は、「テサロニケの信徒への手紙二」の解説の一部です。
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著者
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アブドゥル・アルハザード - 狂えるアラブ人。クトゥルフ、ヨグ=ソトース、<彼のもの>などを崇拝する。 わたし - アルハザードは正気であったが最終章を書いたことで発狂したと主張する。アルハザードの狂気や主観を排除したと前置きして、最終章の修正版=本作を発表する。
※この「著者」の解説は、「アルハザードの発狂」の解説の一部です。
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著者
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著者名は明記されていないが、寛永版の作中に「出口五郎左衛門尉茂正」「三浦屋浄心」の名前に言及があり、また跋にあたる巻10「老て小童を友とする事」に「浄き心にあらざれば」という名前の分かち書きがあって、三浦浄心の著書である。後北条氏の旧臣で小田原籠城を体験したなど、経歴の紹介もあり。 編集の経緯について、序に、「翁」が著した『見聞集』から、後北条氏に関わる記事を旧友が抄録したと記されているが、これは擬態で全編が浄心の自著と考えられている(『見聞集』からの抜粋は、浄心の著書の刊本に共通する擬態)。 なお、万治版では、著者名が記されていた条項が削除されており、巻4「北条氏政東西南北と戦の事」にある「それがし親。三浦五郎左衛門尉茂信。相州三浦の住人。北条家譜代の侍なり」という記述のみが残されていたため、著者名を「三浦茂信」と記している文献が多いが、寛永版には、もとの名は「出口五郎左衛門尉茂正」で、江戸へ上ってから「三浦五郎左衛門」と呼ばれるようになった、とある 。
※この「著者」の解説は、「北条五代記」の解説の一部です。
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この手紙の冒頭には著者として使徒ペトロの名前がある。しかし、その真正性を巡っては古来疑いを向けられており、第二ペトロ書を真正書簡とする立場を採っていた前田護郎も、「新約中で一番著者が疑われた書物」と位置づけていた。 疑わしいとされる理由のひとつが文体である。この手紙の文体は、『ペトロの手紙一』(以下、「第一ペトロ書」)とも異なり、ヘレニズム的な要素が用語や概念に強く反映されている。また、福音書で描かれているペトロの性格が率直であるのに対し、文体がそれに似つかわしくない勿体ぶったものであることも問題視される。この文体については、回りくどい、技巧的、あるいは装飾が多いなどと評されることもある。前出の前田でさえ、その文体の難点について「新約中翻訳によって美化しうる唯一の書といわれるのも一応無理からぬことである」と認めていた。 それに対して真正書簡と見る側からは、シルワノに口述させた第一ペトロ書と異なり、この第二ペトロ書は自身で直接書いたか、別の筆記者を間に挟んだことで文体の違いが生じたのだろうという反論がある。また、ガリラヤの漁師であったペトロにこのようなヘレニズム色の強い書簡を書けたはずがないという批判についても、旧約聖書のギリシア語訳(七十人訳聖書)から影響を受けた可能性や、交通の要衝でもあったガリラヤならばヘレニズム思想に触れる機会があった可能性、あるいはイエス昇天後の各地での伝道において、その地の人々の用語を利用した可能性などがあるという反論が示されている。 また、福音派からは、著者がペトロの名を騙った別人だとすれば、正しくあることについて述べている内容と矛盾するといった指摘も出されており、広義の真筆説(すなわち秘書が書いた可能性や、ペトロが遺した文書を元に彼を中心とするサークルの指導者がまとめた可能性などまで包含した説)も提示されている。 とはいえ、現代においてペトロの真正書簡と見る側が少数派であること自体は、福音派の『新実用聖書注解』でも認められている。同様の認識は、やはり真正書簡説を採る福音派の『エッセンシャル聖書辞典』でも示されている。また、カトリック教会のフェデリコ・バルバロも真正書簡とする立場だったが、自由主義神学のほとんどの神学者が偽名書簡としていることや、真正書簡としての積極的証明の困難さは認めていた。 なお、偽名書簡と見なす側にも立場の違いはあり、偽名性が露見しないように著者が様々な戦略を練っていたとする辻学のような立場もあれば、ゲルト・タイセン(ドイツ語版)のように、その偽名性は当時の人々にも分かりきったものだったはずとした上で「欺瞞の意図なき公の偽名文書」と位置づける者もいる
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「安居院」(あぐい)は比叡山竹林坊(竹林院)の里坊で、上京区大宮通一条北大路にあって、応仁の乱で途絶えたが後に再興し、現在も安居院西法寺としてある。この安居院に唱導に優れた澄憲・聖覚親子が住み、その唱導は子々孫々受け継がれていった。そしていつしか彼らの唱導を安居院流というようになったらしい。『神道集』は「安居院作」とある以上、この安居院流の人達の手になったと思われるが、それを裏付ける確かな史料は現在のところまでない。安居院は日光・鹿嶋にもあって、これらとの関連も考慮しなければならない。
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著者の宝蓮は、『瑜伽伝灯鈔』内の記述によれば、真言宗醍醐派報恩院流の血脈(けちみゃく)を引く僧侶で、1. 大日如来 - (略) - 23. 成賢 - 24. 憲深(報恩院流祖) - (略) - 28. 道順 - 29. 弘真(文観) - 30. 宝蓮という流れである。文観房弘真には報恩院流系(真言密教)の弟子と、西大寺系(真言律宗)の弟子がいるが、ガエタン・ラポーによれば、宝蓮は前者であり、文観の弟子となったのは正和5年(1316年)以降のことであろうという。 『大日本史料』六編之二十一によれば、興国2年/暦応4年(1341年)にかけて、多くの弘真の事相書(実修作法についての書)を筆写したとされることから、内田啓一によれば、宝蓮は文観房弘真の付法を受けた者の中でも、特に信任された僧ではないかという。 宝蓮には本書の他に『四度加行』(しどけぎょう)という、書名と同一の儀式に関する著作があり、ラポーはその成立年代を延元元年/建武3年(1336年)から正平20年/貞治4年(1365年)と推定する。『四度加行』の内容は基本的に旧来のものと変わらないか、むしろ厳密なものである。しかし、数少ない例外的事項として、「本寺復興」がなるまでの暫定的処置という期限付きで、加行(儀式)の日数については大胆に短縮されており、さらに病人についても、治療を速くするために、治癒の儀式を簡略化する方針を示している。このことについて、ラポーは、文観の学派は、後世の勝利者側による「異端的」というレッテルとは相反して、むしろ正統的作法への厳密性を志向していると考えられ、その上で、僧侶からの支持を集めるために、傷病人が多い戦乱という時流に合わせ、儀式の負担を軽減させるという現実的な対応を図ったのではないかと考察した。
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「世界を騙しつづける科学者たち」の記事における「著者」の解説
著者の一人ナオミ・オレスケスはハーバード大学に在籍する歴史学と科学論の教授であり、地質学の学位と、地質学研究および科学史の博士号を持っている。オレスケスは2004年に『サイエンス』誌に掲載された論文 The Science Consensus on Climate Change(気候変動に関する科学的コンセンサス)で人間活動に由来する地球温暖化が事実だということに科学界から大きな異論はないと書き、注目を集めるようになった。もう一人の著者エリック・M・コンウェイは、パサデナ市カリフォルニア工科大学にあるNASAのジェット推進研究所に所属する歴史家である。
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ウォルター・ルーウィン(英語版)(英: Walter H.G. Lewin)は、物理学博士(核物理学専攻)でX線宇宙物理学の先駆者である。マサチューセッツ工科大学の教養課程で物理学の教鞭を受け持っている。インターネット公開授業の嚆矢となったMITオープンコースウエアで注目を集め、ニューヨーク・タイムズからWebスターと称された。ルーウィンは物理学の講義に携わる身上としてほとんどの学生は物理学者になるわけではない。ゆえに「複雑な数理計算よりも発見することのすばらしさ」を胸に刻ませるほうが、ずっと大切だ。と語る。
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「12世紀ルネサンス (ハスキンズ)」の記事における「著者」の解説
ハスキンズ(Charles Homer Haskins 1870-1937) は、1870年ペンシルヴァニア州ミドヴィル生まれ。16歳でジョンズ・ホプキンス大学を卒業し、パリとベルリンに留学。 1892年ウィスコンシン大学教授、1902-1931年ハーヴァード大学教授。この時期に『十二世紀ルネサンス』を執筆。1937年にマサチューセッツ州ケンブリッジで死去。 専門は中世文化史。日本語訳された著書として他に『大学の起源』(青木靖三/三浦常司共訳 社会思想社現代教養文庫 1977)がある。
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『マルコによる福音書』(以下『マルコ福音書』)本文には著者を同定する手がかりは何もない。しかし、2世紀のパピアス以来、第二福音書(『マルコ福音書』)の著者はペトロの通訳を務めた弟子で、ペトロからイエスの生涯について聞き取ったマルコであるとされてきた。もしこの伝承が史実なら、マルコはイエスを直接知る人々からイエスについての証言を聞いたことになる。なお、パピアスの資料は現存しておらず、カイサリアのエウセビオスの以下のような引用によってのみ知られている。 「 長老たちによれば、マルコはペトロの通訳になり、ペトロの記憶していたことを忠実に記録したという。しかし、それは決してイエスの生涯における時間の流れに正確に沿ったものではなかった。マルコ自身はイエスに会ったことはなく、ペトロからイエスについて聞いたのである。しかしペトロの言葉も聴く人々のその時々の必要に応じたものであって、決してイエスの言葉を体系的にまとめることを意図していなかった。マルコ自身に関していうなら、彼はペトロから聞いたことを忠実に記録し、決して自ら加筆修正することはなかった。 」 エウセビオスの引用をよく読むと、マルコの記録は単なるイエスの言葉などであって、福音書のようにまとまっていないとわかる。この記述から、マルコが福音書を書いたと結論するのは難しい。2世紀のアレクサンドリアのクレメンスから20世紀前半にいたるまで、『マルコ福音書』がローマで書かれたのが定説であったが、数十年の間に疑義が呈され、現在ではおそらくシリアのどこか、という説が有力になっている。ローマ説の根拠は『マルコ福音書』のギリシャ語にラテン語の影響が見られることであったが、それはローマ帝国内のどこでも言えるからである。それ以上にパピアスのいう「マルコ」が誰かよくわからないという問題がある。『ペトロの第1の手紙』5:13でも協力者マルコについて言及されているが、マルコというのは1世紀では非常にありふれた名前だったのである。 『マルコによる福音書』ではガリラヤの地理に関する記述で混乱や誤りが見られる。これは著者あるいは著者に情報を提供したものがガリラヤの地理に明るくなかったことを意味しており、その点でもペトロの情報をもとにしたとはいいがたい。また、もう一つの根拠であったローマでのキリスト教徒への迫害との関連でも、迫害は散発的にローマ以外でも起きていたため、根拠にはなりがたい。結局、『マルコ福音書』の著者が誰で、どこで書かれたかに関してはなんら決め手がないのである。
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本名は関幸甫(せきこうすけ)で「関一楽」(せきいちらく)は号(ごう)で現代でのペンネームである。江戸時代前期-中期の儒者であり儒医。「冥加訓」は1724年(享保9) 関が81歳(満82) の時に30年かかり成立した。 関幸輔について多くは不明であり、「藩政時代の教育」大分県社会課/1925年(T14)、「大分県偉人伝」大分県教育会/1953年(S10)、他に墓誌等が紹介され、その著書に「大道訓」「春秋胡伝諺解」「冥加訓」とされている。自宅室号が輔仁堂である。「冥加訓」は国書総目録/岩波書店に関一楽の名で掲載されている。
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著者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 08:39 UTC 版)
著者は渡辺久夫(わたなべ ひさお、1908年 - 1993年)で、物理初等教育の指導者。旧制彦根中学、京都二中、京都学芸大学(現在の京都教育大学)を歴任。 華頂短期大を歴任。学tk
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著者
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島岡譲(執筆責任)、丸田昭三(執筆補佐)、佐藤眞(執筆補佐)、池内友次郎、長谷川良夫、石桁真礼生、松本民之助、矢代秋雄、柏木俊夫、小林秀雄、三善晃、末吉保雄、南弘明。
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著者(成立事情)
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この書物の原作者は、伝統的には主としてヨシュアが書き(ヨシュア記24章26節)、彼の死後の記事をアロンの子エルアザルとエルアザルの子ピネハスが書いたとされている。 高等批評をする聖書学者たちは、創世記~申命記のモーセ五書にヨシュア記を加えて「六書」と考え、J, E, D, Pなどの資料から成っていると考える者もいるが、M.ノートなどは申命記とヨシュア記は共にD資料(申命記資料)のみによると考えている。 1952年から1957年まで、Kathleen M. Kenyon らによって考古学的発掘が行われた結果、エリコの城壁の崩壊は紀元前3000年紀の出来事であることが実証されており、ヨシュアたちがエリコに来たときには、エリコはすでに廃墟になっていたことが判明している。したがって、ヨシュア記6章に記されているエリコの陥落物語は歴史的事実ではなく、原因譚として後から(2~7章の物語が)創作されたと考えられる。また、10章に記されている太陽と月の停止は、カナンの民間説話がもとになっていると考えられる。
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著者
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「華洛非人桑門了悟」なる人物が著者であるとされているがその素性は不明である、既知の著名な人物の別称である可能性も唱えられているが現在のところ解明するすべは無い状況である。本書におけるさまざまな記述から「了悟」とは以下のような条件を満たす人物であると考えられる。 本書の成立年代から見て1250年代から1280年代ころに活動していたこと。 「華洛」とあることから都(京都)在住であり、東国の鎌倉を中心に活動していた河内方に対して極めて冷淡であること。 「非人桑門」とあることから出家した公家であると思われること。 冷泉家の人物との交流はあるものの、「京極中納言(=藤原定家)の本」(=青表紙本)に対して否定的な評価を下しており、藤原定家に近い人物ではないと思われること。 『続古今和歌集』の撰者たちと交流はあったらしいが選者ではないこと。 疑問点の問い合わせを行っている相手から見て自身もそれらの人物と同程度のかなり高い地位にあったと見られること。 熱心な『源氏物語』の研究者であること。 広く和漢の詩文についての深い素養を持っていると考えられること。 福田秀一はこの「華洛非人桑門了悟」について、九条基家(1203年 - 1280年)である可能性を指摘している。
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「エドワード二世 (戯曲)」の記事における「著者」の解説
『エドワード二世』の著者に疑いが生じたことはない。1744年にドズリーは「エドワード二世」を Select Collection of Old Plays に収録したが、マーロウの名前は序文では言及されていない 。マーロウの世評は1597年に出版されたトーマス・ビアード(英語版)の The Theatre of God's Judgement の中の中傷によって毀損されたままだった。
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64人もの国内の一流の溯行家によって書かれている。48人が1本、6人が2本、3人が3本、岩崎元郎、永井勇男、深瀬信夫、吉川満の4人が4本、遠藤甲太、関根幸次、中庄谷直の3人が5本、計100の渓谷を紀行文で紹介している。渓谷を遡行するにあたっての資料として、遡行ガイドも掲載してある。
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著者・喜田川守貞(きたがわ もりさだ)に関しては未詳の事項も多い。本人が守貞謾稿に「概略」として記した記事には、彼は1810年(文化7年)6月に浪華に誕生、当時は石原姓を名乗ったが、1837年(天保8年)に江戸・深川に下り、後、1840年(天保11年)9月(数え31歳)に北川家の嗣子となったとある。その後もしばしば江戸・大坂間を往還したらしい。別名喜田川季荘(きたがわきそう )。また、現代の研究では通称は庄兵衛、号は月光庵であったと考えられている。嘉永6年(1853年)の序文によると、商人であるが、一生を空しく過ごすのは残念であるとの思いから一書を著そうと思い立ち、民間の雑事を記録することにした、という。
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ベックマンは共産主義学術圏で博士号を取得し、アメリカ合衆国のコロラド大学に留学中に亡命したチェコスロバキア人である。亡命の真の理由は、訳者の記述からは、経済的な豊かさにあったと思われる。彼の権力を嫌う姿勢は、『πの歴史』という無味乾燥な題名とは裏腹に、著書の中身のスタイルにも表れている。例えば、古代ギリシアの古典数学が使われていた時代について述べた章の題名は、"ローマという名のペスト"となっている。彼はカトリックの異端審問を、「キリスト教に対する狂信的精神異常者のふるまい」と呼んでいる。社会主義国であった旧ソ連を「ソヴィエト帝国」と表現するあたりは、冷戦中は東側から西側に亡命すると、ひととき物質的な豊かさが得られることに幻惑されているのがうかがえる。そして、科学研究のために大衆に問いかける人々を「科学技術に最終的に攻撃を受けて傷つけられたために、'多すぎる科学技術'についてたわいのない話をして、〈これ以上科学技術を理解する事ができない〉と言う知的な身体障害者」と言及している。 ベックマンは多作のサイエンスライターであり、電気工学に関するテキストを多く著している他、科学技術以外の作品もあり、彼の本の大半がGolem Pressから出版されている。また、"Access to Energy"という題で独自の月刊新聞を出版していた。彼は生涯に60を超える科学論文と8つの科学著書を残した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 09:45 UTC 版)
『チャチュ・ナーマ』はカーズィ・イスマイール( Kàzí Ismáíl)により書かれた。彼はムハンマド・カーシムによって シンド征服後Alór地方の最初のカーズィに任命された。 「 サキーフ一族は、BakharとAlór或いはRohrí地方のカーズィの家系でムーサーの子孫である。ムーサーはヤアクーブの息子であり、ヤアクーブはターイーの息子であり、ターイーはムハンマドの息子、ムハンマドはシャイバーンの息子であり、シャイバーンはウスマン・サキフィーの息子である。アラブ人によるシンドの征服の著者はアラビア語で書かれた『チャチュ・ナーマ』を翻訳した。カーズィ・イスマイールはアリーの息子で、アリーはムハンマドの息子、ムハンマドはムーサーの息子、ムーサーはターイーの息子であり、イスマイールは同じ家系の子孫である。ヤアクーブの息子ムーサーは、郷伸カーズィー・イスマーイールの孫で、カーズィー・イスマーイールはムハンマド・カースィムのその地の征服後、最初にカーズィーに任命された。 」 それはムハンマド・アリー・ビン・ハミド・ビン・アブーバクル・クーフィーによって1216年に初期のアラビア語からペルシア語へ翻訳された。エルフィンストーンの歴史的考察では、騎士道物語とされている。原典はアラビア語で書かれ、ムハンマド・カースィムの親族であるサキーフの一族によって編集されたと信じられている。
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「754年のモサラベ年代記」の記事における「著者」の解説
編纂者は、無名のモサラベ(キリスト教徒)の年代記録者で、イベリア半島の一部を支配下においていたアラブの支配の元で生きていた。16世紀以来、それは他の無名の僧侶イシドルス・パケンシス(Isidorus Pacensis)の作に帰せられていたが、この説は、現在では史料混同の結果であるという説が広く受け入れられている。Henry Waceは "Isidorus Pacensis"の幻の歴史書か、或いは、パックス・ユリア(英語版)(現ポルトガルのベージャ)の、まだ存在が証明されていない僧侶の年代録に起源があるのではないかと説明している。。 年代記が書かれた場所については、他にも見解の相違がある。Tailhanは年代記の起源としてコルドバの名を上げている。モムゼンは最初にトレドを指摘した。最近の Lopez Pereiraの研究では、どちらの都市も否定され、南東スペインの現在特定不能な小さな町だとの見解に賛同している。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 16:10 UTC 版)
中世においては、中世の文書の序文として発表された、聖ヒエロニムスとダマスス1世 (366–383) が交わしたとされる手紙に基づいて、聖ヒエロニムスがダマスス1世までのすべての伝記の著者であると考えられていた。この考えはラバヌス・マウルス・マグネンティウスに端を発し、13世紀に書の内容を拡充したオパヴァのマルティンによって繰り返された。他の説としては、初期の書が ヘゲシッポスや エイレナイオスの著作であるという説が、カエサレアのエウセビオスによって唱え続けられている。 16世紀には、オノフリオ=パンヴィニオが、ダマスス以降、教皇ニコラウス1世 (858–867)までの伝記の作者が アナスタシウス・ビブリオテカリウスであると述べた。アナスタシウスは17世紀まで書の著者であると言われ続けたが、この説に関してはカエサル・バロニウスやジョヴァンニ・チャンピーニ、エマニュエル・スヘルストラートなどにより反論されている。 現代の解釈では、主要な研究用エディションを編集したルイ・デュシェンヌの考えに従い、「『教皇の書』は徐々に、そして非体系的に編集されたため、原作者が誰であるかを決定することは、一部の例外を除き不可能である。」と捉えられている。デュシェンヌたちはCatalogus Liberianusを根拠に、教皇フェリクス3世 (483–492)までの『教皇の書』が、教皇アナスタシウス2世 (496-498)の同時代人である一人の著者による作品であると捉えているが、これは ローマのヒッポリュトスの目録や、すでに現存していないLeonine Catalogueの記述を引用していた。専門家のほとんどは、『教皇の書』が5世紀または6世紀に最初に編集されたと考えている。 教皇庁会計院の記録(vestiarium)によって、 初期の『教皇の書』の著者が教皇庁の宝庫に勤める書記であったとの仮説が立てられた。 エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』 (1788)は、『教皇の書』 は「8世紀または9世紀の教皇の司書や書記」により作成され、一番新しい部分に関してのみアナスタシウスが編集した、という専門家たちの一致した意見がまとめられている。 デュシェンヌたちは、『教皇の書』に初めて加筆した著者が教皇シルウェリウス (536–537)の同時代人であり、またさらに教皇コノン (686–687)の同時代人もまた別の(2回目の加筆であるかどうかは不明だが)加筆を行ったと考えている。後の教皇の記述は、ひとりずつ、教皇の治世期間、または教皇の死後すぐに加筆された
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『算法少女』序文によると、娘が父親の協力の下にこの本を著わしたとあるが、本名はない。父親は壺中隠者、娘は単に平氏とあり、同時に章子の印章がある。当時は弟子の名前で師匠が自分の業績や研究を発表することが行われていたので、実際の著者は「壺中隠者」と見られる。しかしそれでも、この時代の和算書に女性が名前を連ねるのは他に例がなく、その意味でも日本の文化史上貴重な本といえる。跋文(あとがき)は俳人の谷素外(号は一陽井)が記している。和算が学問であると同時に趣味的な分野として受け止められていたことが窺える。 著者「壺中隠者」の正体については長く不詳のままだったが、数学史家・三上義夫の研究によって医師・千葉桃三であることが明らかになった。
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イブン・ハズムはコルドバ近郊の名家に生まれた。幼少期からハレムの女性たちとともに生活し、読み書きをはじめとする教育も侍女から受けて育った。髭が生えそろうまで男性との同席経験がなく、この生い立ちが女性についての観察眼を養ったと回想している。父のアフマドはカリフのヒシャーム2世に仕える大臣であり、大宰相のアル・マンスール(英語版)を補佐していた。アル・マンスールはカリフを超えるほどの権力を誇ったが、彼の死後に内紛が起き、コルドバは荒廃する。ウマイヤ朝は滅びに向かい、諸王国が並び立つタイファの時代になり、家族や家を失ったイブン・ハズムは19歳でアルメリアに逃れた。彼は流浪の暮らしをしながらウマイヤ朝を再興するために働くものの、従軍した勢力が敗北して捕虜となる。解放されたのちにハティバにたどり着き、この地で暮らしながら29歳の頃に書かれたのが本書である。 イブン・ハズムによると執筆の動機は、愛の特性、意味、原因、属性、付随して起こる事柄についての論考を求められたからであった。求められなければ執筆しなかったが、時には心を憩わせるのも必要だと書いている。論考を求めた人物が誰なのかは不明で、アルメリアに住む友人が執筆をすすめたという説もある。
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序文によると、本書の最初の部分(とくに聖杯探求の物語より前)の作者はリュース・ド・ガ(Luce de Gat)という謎の人物であるとされ、おそらく1230年から1235年に書かれた。1240年以降に全体を手直しされ、後半部が書き加えられた。本書の結びで、2人目の作者はエリ・ド・ボロン(Helie de Boron)と名乗り、自分は同じくアーサー王物語の著者の一人、詩人ロベール・ド・ボロン(Robert de Boron)の甥であると付け加えている。エリー・ド・ボロンの言うところでは、『薔薇物語』の著者の場合と同じく、リュースが書き残したものを見つけて収集したのだとしている。2人の著者が書き記しているそれぞれの来歴および、ラテン語の原典があってそれを翻訳した、という主張を真剣に受け取る学者はいない 。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 04:00 UTC 版)
著者は冒頭部分で、自らを「主イエス・キリストのしもべであるヤコブ」と名乗る。新約聖書にはヤコブなる人物が複数現れるが、その中でこの手紙を書いたと考えられるのは以下の三名である。 「義人ヤコブ」三世紀の半ば以降、教父たちはイエスの兄弟(カトリック教会の解釈では従兄弟などの親類)で「義人」と呼ばれたヤコブが本書簡の著者であるとしてきた。彼は十二使徒には含まれておらず、パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』で「主の兄弟」(1:19)、「教会の三人の柱の一人」(2:9)として言及する人物である。 「アルファイの子ヤコブ」ジャン・カルヴァンなどは、著者は「主の兄弟」ヤコブではなくマタイの兄弟でレビとも呼ばれた「アルファイの子」ヤコブであるという。アルファイの子ヤコブは『マルコによる福音書』15:40に出る「ヤコブ」と同一人物ではないかと考えられるが、この人物についてはほとんど何もわかっていない。 使徒の一人「大ヤコブ」本書簡の著者をこの「大ヤコブ」であるとする見方はまれである。彼は使徒ヨハネの兄弟でゼベダイの子であったとされる。しかし、彼は早くに殉教していることから、この書簡を彼が書いたとは考えにくい。なぜなら、ヤコブの殉教は紀元44年以前であるが、本書簡が書かれたのはパウロの義化という考えに対する教会内の誤った認識を正すためであり、早くても50年代と考えられるからである。 現代の研究者たちの多くは、「ヤコブ」というのは文書に権威を持たせるためのものであり、三人のヤコブの誰かが著者だとは考えていない。すなわち、本書は偽名文書であり、実際の著者は不明である。しかしその内容から、ここで著者とされた「ヤコブ」はエルサレム教会において、リーダー格だった「主の兄弟」である義人ヤコブであるとするのが批判的聖書学者のほぼ共通認識である(むろんこの考え方に対しての異論もある)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 09:49 UTC 版)
『蒙古源流』の著者は、名をサガン(Sγang)といい、チンギス・カンの子孫の一人で、1604年にオルドス部族に生まれ、称号をエルケ・セチェン・ホンタイジ(Erke Sečen Qong Tayiji)といった。そのためサガン・セチェン・ホンタイジと呼ばれる。サガンは59歳の1662年にモンゴル文でこの『エルデニイン・トヴチ』を書いた。楊海英編『蒙古源流―内モンゴル自治区オルドス市档案館所蔵の二種類 写本(2007年 風響社)し著者 関す伝承か収めている
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 00:18 UTC 版)
著者は陳淏、字は爻一。扶揺、西湖花隠翁などの号をもちいた。浙江省杭州府銭塘県の人。はじめ『花鏡』は陳淏子の名で刊行されたため、近時まで長らく本名も生涯もほとんどわからないままであった。1978年に誠堂と署名した短文が林雲銘「寿陳扶揺先生七十序」をもとに著者陳淏子の生年の誤りをただすとともに、『花鏡』序文から想像されてきた著者の人物像が修正されるべきことを指摘した。これを端緒として名、字、号がただされ、その生涯、人物像もある程度まで解明されるにいたった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 05:47 UTC 版)
「華洛非人桑門了悟」なる人物が著者であるとされているがその素性は不明である、既知の著名な人物の別称である可能性も唱えられているが現在のところ解明するすべは無い状況である。本書におけるさまざまな記述から「了悟」とは以下のような条件を満たす人物であると考えられる。福田秀一はこの「華洛非人桑門了悟」について、九条基家(1203年 - 1280年)である可能性を指摘している。 「華洛」とあることから都(京都)の生まれで都の在住であると考えられること。 「非人桑門」とあることから出家した公家であると思われること。 本書の成立年代と考えられる1250年代から1280年代ころに活動していたと見られること。 「京極中納言(=藤原定家)の本」(=青表紙本)に対して「ことのは常よりも抜きたる」という否定的な評価を下しており、 冷泉家の人物との交流はあると見られるものの、藤原定家に近い御子左家の人物ではないと思われること。 疑問点の問い合わせを行っている相手から見て自身もそれらの人物と同程度のかなり高い地位にあったと見られること。また『続古今和歌集』の撰者たちと交流はあったらしいが選者ではないこと。 熱心な源氏物語の研究者であり、また和漢の詩文についての広く深い素養を持っていると考えられること。
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扱っている内容が詳細かつ正確なため、チャールズ・ジョンソン自身も海賊だったと考えられている。正体をダニエル・デフォーとする学者もいるが、結論は出ていない。他の候補として、デフォーのもとで働いていた出版業者ナサニエル・ミストほか数名が挙げられている。
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戸部良一 - 防衛大学校助教授、国際日本文化研究センター教授(2009年 - 2014年)、帝京大学教授(2014年 - 2019年)。 寺本義也 - 明治学院大学教授、現在は早稲田大学商学学術院教授。 鎌田伸一 - 防衛大学校助教授、防衛大学校教授(1990年 - )。 杉之尾孝生 - 防衛大学校助教授、防衛大学校教授( - 2001年)。 村井友秀 - 防衛大学校助教授、防衛大学校教授・図書館長(2007-2010)、2015年退官。現在は東京国際大学教授。 野中郁次郎 - 一橋大学教授(研究は防衛大学校教授時代)、富士通総研理事長(2010年 - )。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 04:33 UTC 版)
詳細は「イブン・アン=ナディーム」を参照 『フィフリスト』の著者は、10世紀のバグダードで親の代から「ワッラーク」(warrāq, 書店)を営んでいたイブン・ナディームという人物である。著者の人物像について、それ以上のことは、ほとんど何もわかっていない。当時の書籍は、客の注文を受けて筆写職人(カーティブ)が写本を複製し、細密画職人が写本に装飾を施して製作するものである。ワッラークは、大勢の職人を抱える工房でもあった。もっとも、このような10世紀の装飾写本作りの実態は、『フィフリスト』の序文でイブン・ナディームが、書籍の製作方法、買い入れ方法から、アラビア文字の正確な書き方、紙の品質の違い、葦ペンといった文房具に至るまで、詳しく解説しているからこそ、ある程度具体的に推定可能になっているとも言える。 イブン・ナディームは、書籍の消費者の立場に立った買い入れ指南をしている。筆写職人には字の巧みな者を選ぶべし、また、写し元の書籍のページ数と大きさを書き留めておくべし、という。二つ目のアドバイスは、不誠実な筆写職人が故意に落丁のある写本を納品したとしても、だまされないようにするためである。ところで『フィフリスト』の書籍の紹介にも、書名だけでなくページ数と大きさが記されていることがよくある。こうしたことから、イブン・ナディームのワッラークとしての、写本製作の工程管理上の習慣が『フィフリスト』の執筆に結びついたと推定されている。
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『ヘブライ書』の著者については『ヘブライ書』の中には明記されていない。はっきりしているのは差出人不明の手紙であるということである。第11章では旧約聖書の登場人物多数に触れていることから、著者は旧約聖書に精通している人物であることがうかがえる。
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「フィリピの信徒への手紙」の記事における「著者」の解説
『フィリピの信徒への手紙』(以下『フィリピ書』)の著者がパウロであるということについては古代以来、現代の聖書学者にいたるまで一貫して広く受け入れられている。ただ2:5-11の部分のみは後代の加筆であろうと考えられているが、聖書学者によってはこの部分は初代教会で用いられていた賛歌をパウロが引用したとも考えている。伝承では、パウロがこの手紙を書いたのは紀元61年の終わりから62年のはじめにかけてローマで獄中にあった時期であったとされてきた。 彼がこの手紙を書いたとき、パウロはローマ皇帝護衛隊のもとに拘禁された囚人だったが、彼の周囲ではかなり大々的なクリスチャン活動がなされていた。彼は、カエサルの家の信徒たちからのあいさつのことばでこの手紙を結んでいる。こうした点を総合して、この手紙はローマで書かれたと判断できる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/28 02:57 UTC 版)
「西国三十三所名所図会」の記事における「著者」の解説
著者の暁鐘成は寛政5年(1793年)、大坂籠屋町の醤油醸造業者和泉屋茂三郎の妾腹の四男として生まれた。姓は木村、名は明啓といい、通称を和泉屋弥四郎、号として鶏鳴舎、晴翁、気野行成などを称した。前半生には著述のかたわら、各地の名所を模した麩・味噌・菓子などを売る名物屋を心斎橋筋博労町で営み、繁盛した様子だが天保の改革のもとで閉店を余儀なくされた。後に難波瑞竜寺門前に茶店を開いて妻に営ませ、自身は著作に専念した。 嘉永6年(1853年)、門人の安部貞昌に「暁鐘成」の号を譲った。これを区別して二世暁鐘成と呼ぶが、嘉永6年以降の著作目録には一世と二世のものが混在しているはずだが、識別は出来ない。万延元年(1860年)、妻の親類を訪ねて丹波国福知山をおとずれたところ、百姓一揆に加担したとして投獄され、釈放後20日あまりで急死した。鐘成の墓は大阪市浦江の正楽寺にある。 鐘成は名所図会作家、戯作家 として知られ多様な著作を残したことにより、存命中に刊行された『浪華当時人名録』(嘉永元年刊)なる書物には「雑家」と分類されている。『国書総目録』に掲載されるだけでも101編に達し、内容も啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌と極めて広範であって、その博覧強記が知れる。本書に類似の名所図会・地誌としては『摂津名所図会大成』(安政年間)、『天保山名所図会』(天保6年)、『淡路国名所図会』(嘉永4年)、『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年)、『淀川両岸勝景図会』(文政7年)、『宇治川両岸一覧』(文久3年)等が挙げられる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 02:04 UTC 版)
荷風の日記(『断腸亭日乗』1941年12月20日)には、かつて自宅へ出入していた人物が荷風の原稿を偽造し、好事家に売りつけていると憤懣を述べた箇所があり、その中に「春本四畳半襖の下張」の名が上げられている(この人物は当時門人であった平井呈一と言われている。後、二人の師弟関係は破綻するのだが、この一件がその原因の一つだったとも言われている)。当時は一部好事家の間で知られていたのみのようだが、戦後のカストリ雑誌ブームの中で秘かに複数の版が刊行され、次第に有名となった。1948年に出版社が摘発され、荷風は警視庁の事情聴取を受けた(『断腸亭日乗』1948年5月7日・5月10日)。荷風は、はじめの部分はおおよそ自分が書いた文章だが、後は他人が書いたもので、自分は知らないと述べた(城市郎『性の発禁本』)。 国文学者たち[誰?]はこの作品の作者について、学問的厳密さを重んじる立場から断言することができないとしているが、石川淳その他の文学者たち[誰?]は荷風作と断言している。
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著者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 06:21 UTC 版)
第一書には著者名は一切記載されていないが、ヨハネ福音書との思想的共通性が指摘されている。第二書と第三書はともに「長老」と名乗る人物によって書かれており、特に第一書と第二書は思想的共通性が見られる。これらの無記名の書簡を最初に使徒ヨハネと結びつけたのは2世紀後半のエイレナイオスである(ただし、第一書・第二書のみで、第三書への言及はない)。のちに4世紀のエルサレムのキュリロス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが3書簡全てについて使徒ヨハネの作とした。現代でもカトリックのバルバロ訳聖書およびフランシスコ会訳聖書、また福音派の『新聖書辞典』、『新実用聖書注解』など、この見解を採る文献は少なからず存在する。これらの立場では、第二書と第三書の著者が「長老」としか名乗っていないことも、それだけで誰が書いたか認識される権威ある存在、すなわちヨハネが書いたことの傍証とされている。 他方、高等批評の立場では、使徒ヨハネが書いたとは見なされていないが、思想的共通性から、いずれも「ヨハネ学派」、「ヨハネの教会」、「ヨハネ教団」、「ヨハネ共同体」などと仮称される思想集団から発したものと考えられている。ただし、3書簡が全て同一人物によると見る説(ヨハネス・シュナイダー、中村和夫など)、第一書だけ別で第二書と第三書が同じと見る説(宮内彰、大貫隆、土戸清など)、第一書と第二書が同じで第三書だけ別と見る説(田川建三など)があり、いずれか確定している状況にない。
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著者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 10:13 UTC 版)
一条兼良は室町時代の公卿・摂政関白で古典学者である。一般に「かねら」と呼ばれることが多い。兼良の著作とされる抄出・注釈・評論・随筆・戯作は『辨疑書目録』(べんぎしょもくろく)によって窺える。『辨疑書目録』は兼良の著作書目を多く載せている(すべて著作というわけではなく、学ぶ際に書写・抄出・覚書の形式をとり、後世から著作とされることもある)。この中に『花鳥余情』のほか、難語を解釈した『源氏物語和秘抄』(『和秘鈔』とも)、光源氏の年譜である『源氏物語年立』、有職故実を記す『江家次第』なども記されている。研究は公事の根源を究めるため、学は和漢、神儒仏教の3教にも及んでいる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:36 UTC 版)
本文中で著者は自らを「イエス・キリストの僕(しもべ)またヤコブの兄弟であるユダ」(口語訳聖書)と名乗る。「ユダ」という名はイエスを引き渡したイスカリオテのユダをはじめ、新約聖書に何人か登場するが、「ヤコブの兄弟」と位置づけられているユダは、主の兄弟ヤコブの兄弟、すなわち主の兄弟ユダ以外にいない。この人物は、一般にタダイとも呼ばれる使徒ユダとは別人と見なされる。ただし、オリゲネスらは、主の兄弟ユダを使徒ユダと同一視しており、現代においてもフェデリコ・バルバロのようにその立場を採る者もいる。また、教会の伝承においては、著者のユダをヤコブの兄弟とするものからそうでないとするものまで様々であった。 リベラル派には、ユダの名を借りて後の時代に作成された偽名書簡と見る者たちがおり、両論を併記しているフランシスコ会訳聖書においても、偽名書簡と見る論者が多いことは認められている。偽名書簡と見る立場では、ユダの名を借りたのは権威付けのためとされている。しかし、こうした説には真正書簡と見る福音派などからの反論もある。聖書正典においては、主の兄弟ユダは直接的には『マルコによる福音書』6章3節(および並行する『マタイによる福音書』13章55節)で、イエスに驚く群衆の発言の中で名前が言及されているにすぎないからである。 2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。 3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。 — マルコによる福音書6章2-3節、口語訳聖書(Wikisource) 古代の伝承においても、ヘゲシッポス(英語版)がユダの2人の孫について述べた程度しか伝わっておらず、ユダ本人については何も伝わっていない。 偽名説に反論する人々は、もしも権威付けを理由とした偽名ならば、なぜ著者は(主の兄弟とはいえ)このような知名度の低い人物を選んだのかを疑問視している。さらに、もしも権威付けならば、著者が(主の兄弟などを名乗らずに)「ヤコブの兄弟」としか名乗っていないことも不自然とされる。この点、真正書簡と見る立場では、イエスに対する畏敬や控えめな態度として理解できる。しかし、偽名書簡だとするならば、もっと主の兄弟としての権威を強調してしかるべきというわけである。 ユダの知名度についての疑問は自由主義神学の側からも提示されており、ドイツのNTD新約聖書註解シリーズで公同書簡を担当したヨハネス・シュナイダーは、ユダの生涯が詳らかになっていない以上、本当に主の兄弟ユダが書いた可能性も排除しきれないと指摘している。 偽名書簡と見る場合、真の著者は不明である。ただし、外典・偽典を含む旧約聖書からの引用などによって、ユダヤ人キリスト教徒が想定されることがある。
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「サンギータ・ラトゥナーカラ」の記事における「著者」の解説
著者シャールンガデーヴァは、インド亜大陸北西部カシミールのバラモンの家に生まれた。イスラーム侵入のため南に移動し、ヒンドゥー王国のデカン地域エローラ石窟群の近くに移住した。マハーラーシュトラ州デーヴァギリを都とするヤーダヴァ王朝の頃である。シャールンガデーヴァは、シンガナ二世(在位c.1210-1246)の王宮に仕え、経理士として働く傍ら音楽を究めた。
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「グリーン・ニューディール」の記事における「著者」の解説
グリーン・ニューディール の著者を以下に示す。 ラリー・エリオット(Larry Elliott) - ガーディアン紙の経済担当編集者(Economics Editor) コリン・ハインズ(Colin Hines) - ファイナンス・フォー・ザ・フューチャーの共同理事(Co-Director) トニー・ジュニパー(Tony Juniper) - フレンズ・オブ・アースの前理事(former Director) ジェレミー・ガット(Jeremy Leggett) - ソーラー・センチュリーとソーラーエイドの設立者兼代表 キャロライン・ルーカス(Caroline Lucas) - イングランドとウェールズ緑の党 MEP(欧州議会議員) リチャード・マーフィー(Richard Murphy) - タックス・リサーチLLPの将来の経済担当共同理事・理事(Co-Director of Finance for the Future and Director) アン・ペティフォー(Ann Pettifor) - ジュビリー2000借金帳消し運動の前代表、オペレーション・ノアの運動理事(Campaign Director) チャールズ・セクレット(Charles Secrett) - "持続可能な開発"のアドバイザー、フレンズ・オブ・アースの前理事(former Director) アンドリュー・シムズ(Andrew Simms) - 新経済財団の政策担当理事(Policy Director)
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著者
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著者の游藝(ゆう げい、游芸、字は子六。号は岱峯)は、生没年不詳で、経歴もほぼ不詳である。 福建省建寧府建陽県崇化里の人であり、北宋の游酢(程頤の高弟)の末裔とされる。明末清初の江南において、黄道周に学んだ後、方以智・熊明遇(中国語版)・掲暄(中国語版)・余颺(中国語版)らの学者サークルに参加した。特に、方以智と熊明遇の二人を師として仰いだ。この二人はイエズス会士と直接交流した人物でもある。
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著者
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詳細は「ヨハネ書簡#著者」を参照 ヨハネ書簡と呼ばれる3通の書簡は、実際には著者名が一切書かれておらず、第三書の本文でも、著者は単に「長老」とだけ名乗っている。この著者問題は、他の2通のヨハネ書簡および『ヨハネによる福音書』の著者との関連で議論されてきた。全ての書簡が同一人物によるのか、また違う場合にはどれが同一人物によるのかなどについて様々な議論があり、確定していない。 とはいえ、少なからぬ専門家が3つの書簡全てを同一人物の作品と見る説を採っている。伝承通り3通全てを使徒ヨハネに帰するローマ・カトリックのフェデリコ・バルバロやフランシスコ会聖書研究所、福音派の『新聖書辞典』や『新実用聖書注解』は当然その立場であり、使徒ヨハネを著者とする伝承を受け入れていない聖書学者にも、『総説新約聖書』でヨハネ書簡を担当した中村和夫、上智学院の『新カトリック大事典』などでヨハネ書簡を担当した小林稔などのようにこの立場を採る者たちがいる。アンカー・バイブルでヨハネ書簡を担当したレイモンド・E・ブラウンは、「多くの学者」 (many scholars) が3書簡全てを同一著者に帰することに否定的であると述べつつ 、自分は3書簡全てを同一著者に帰すると述べていた。しかし、後には「多くの学者」が3書簡を同一の著者の作品と見ていると述べた。 使徒ヨハネと見ることに批判的な学者からは、もしも第三ヨハネ書が使徒ヨハネによって書かれたのだとすれば、ディオトレフェスが彼に反抗したこと(後述)は奇妙であるとされている。というのは、使徒たちは初期キリスト教会にあっては高く尊敬されていたからである。これに対して福音派の『新聖書辞典』では、使徒ヨハネの著書とする観点から、まさにヨハネの使徒権を否定したものとして、ディオトレフェスの振舞いが「暴挙」と位置づけられている。同様に福音派の『新聖書注解』では、ディオトレフェスの異常さこそが問題であって、彼の振る舞いが使徒ヨハネの著作であることを否定する根拠にはならないと主張されている。 さて、ヒエラポリスのパピアス(英語版)によって140年頃に書かれ、エウセビオスによって引用された断片からは、書簡の著者に関して使徒ヨハネとは別の可能性が指摘されている。その断片で長老ヨハネという人物について言及されているからであるが、この人物について知られていることはパピアスの乏しい言及以外には何もないので、第三書の著者とこの詳細不明の人物と結びつける根拠は何もない。それでもヒエロニムスがこの「長老ヨハネ」を第二・第三ヨハネ書の著者と位置づけていたことで、近代以降にもこの見方を採る者たちがいる。その延長線で、中村和夫、NTD新約聖書註解シリーズでヨハネ書簡を担当したヨハネス・シュナイダー らのように、3書簡すべてを長老ヨハネの作品とする者もいる。 3書簡を執筆したのは使徒ヨハネその人かもしれないし、長老ヨハネのような他の人物かもしれないが、チャールズ・ドッドは「もしも我々がこれらの書簡の匿名の著者を…いくらか知られている人物と結び付けようとするなら、ほとんどうまくいかないものと思われる」と述べていた。 第一ヨハネ書を別人の作とし、第二書と第三書のみ同一人物に帰する見解もある。前述のように、古くはヒエロニムスがこの見解を紹介していたが、現代日本では『新約聖書略解』でヨハネ書簡を担当した宮内彰、『新共同訳新約聖書略解』で同書簡を担当した土戸清などがこの立場である。第二書と第三書には多くの類似点がある。どちらも当時の他人宛の手紙の様式で書かれており、著者は「プレスビュテロス」とだけ名乗っており、直訳では「老人」(elderly man) を意味する。そして、どちらの書簡も歓待と教会内の対立のテーマを扱っている。それらは長さの点でもきわめて類似しているが、おそらくそれはどちらもパピルス1枚に収まるようにしたためたことによるのだろう。 第三書は言語的には第二書とも、他のヨハネ文書とも似通っている。使われている99種の単語のうち、21種類は「…と…」や冠詞など、さして重要でない単語であり、有意義なのは残る78語である。そのうち23語は第一書にもヨハネ福音書にも登場しないが、その23語中4語は第三書に固有のものであり、1語は第二書とだけ共通し、2語は第二書と共通するが、他の新約正典にも見られるものである。ゆえに第三書の有意な単語の約30%は第一書にもヨハネ福音書にも登場しないが、同じ数字は第二書の場合では20%になる。これらの考察が示すのは、第二書が第三書よりも第一書と強く結びついているものの、第二書と第三書の間にも十分に密接な結びつきを見出せるということである。 しかしながら、第二書と第三書が同一の著者によるという見解に異議を唱える研究者も少数ながら存在し、ルドルフ・ブルトマンは第三書を元に第二書が別人の手で書かれたと主張していた。日本では田川建三がこの立場で、第二書と第三書の著者は文体からギリシア語の素養の差が明瞭(第三書が上)であり、内容からこれらの著者が対立的な関係にあったと推測している。第二書と第三書を対立的に捉える見解は、フェミニスト神学の聖書注解書でヨハネ書簡を担当したマーガレット・D・ヒュタフも示している。 使徒ヨハネ一人に帰する場合は勿論であるが、それ以外の著者(たち)を想定する場合にも、それらが同一の思想的集団から発していると推測されることが普通で、その集団は「ヨハネ学派」、「ヨハネの教会」、「ヨハネ教団」、「ヨハネ共同体」等と仮称されている(以下では便宜上「ヨハネ共同体」と表記)。
※この「著者」の解説は、「ヨハネの手紙三」の解説の一部です。
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著者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 21:40 UTC 版)
著者名を欠いているため不明であるが、昭和16年(1941年)刊の『松江市史』で、松江藩の藩士、斎藤勘介(豊宣、豊仙)が隠岐郡代として渡島した折のものであるとしており、それ以来この人物が有力となっている。また、序文にある「命」を「幕命」(幕府の命令)と見た場合、隠岐の島町加茂の井上家に伝わる古文書に、当時大巡見使として稲葉清左衛門、市橋三四郎、徳永頼母の3名が渡島した記録が残されており、この中の誰か、もしくは彼等に随行した能筆者であった可能性もある。いずれにせよその記述から、相当な学識を有する者の手に成ったものであろうと推察される。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:11 UTC 版)
中国の歴史を通して、『孟子』の著者が誰であるかについていくつかの異なる見解があった。漢朝の著名な歴史家である司馬遷は、『孟子』は孟子が自らの弟子である公孫丑・萬章と共に書き上げたものであるとしており、朱熹や趙岐、清朝の儒教学者である焦循らは、孟子が自分一人で書き上げたとしている。唐朝の作家の韓愈と孫奭は12世紀の学者である晁公武と同様に、孟子の死後公孫丑と萬章が自身の記録や記憶を基にして『孟子』を著したとしている。
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「デルスウ・ウザーラ (書籍)」の記事における「著者」の解説
アルセーニエフは、ロシア帝国軍の士官学校で地理学者のミハイル・グルム=グルジマイロの教えを受け、大きな影響を受けた。グルム=グルジマイロは、プルジェヴァリスキーらの著作をアルセーニエフに教えた。アルセーニエフはプルジェヴァリスキーの『ウスリー地方における旅』を愛読書として、ウスリー地方への憧れを持つようになる。ポーランドに駐屯していた時期には、遼東半島やアムール管区への転属を求める嘆願書を提出した。 アルセーニエフの願いは叶い、1899年8月にウラジオストックに配属された。アルセーニエフは銃を持って自然の中をよく歩き、中国語の勉強にも励んでいたので、それを見た連隊長が彼を義勇兵部隊の隊長に任命した。義勇兵部隊は、平時は山谷で狩猟をして、戦時には偵察や道案内をすることが任務だった。
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『マタイによる福音書』自身には、著者に関する記述はない。この福音書の著者は、教会の伝承では取税人でありながらイエスの招きに答えて使徒となったマタイであるとされている。その理由として、福音書の特徴より著者が『ユダヤ人クリスチャンであること』、『旧約聖書についての知識、興味があること』、『律法学者の伝承に通じていること』があげられ、内容的に『金銭問題』や、『取税人』について数多く触れられていることなどがあげられる。 一方、近現代の高等批評の立場に立つ聖書学者の多くはこの伝承を疑問視している。
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著者名は明記されていないが、巻5「花折る咎に縄かゝる事」に「三浦屋浄心」の名前に言及があり、また跋にあたる巻10「老て小童を友とする事」に「浄き心にあらざれば」という名前の分かち書きがあって、三浦浄心の著書である。 浄心の著書の刊本の序には、「翁」や「三五庵木算入道」が著した『見聞集』32冊(と『(稿本)そぞろ物語』20冊)の一部を別人が写して編纂し、『(刊本)そぞろ物語』『北条五代記』『見聞軍抄』『順礼物語』を刊行した、という経緯が記されているが、これは擬態で実際には全編、浄心自身の著書と考えられている。なお、『見聞集』は写本で伝わっており、同書の序にはこの擬態は用いられていない。
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著者は不明で、一般に「第一文法論者」(第一文法家)と呼び慣わされている。その正体については様々な仮説がある。有力な候補の一人として、Hallr Teitsson(1085年頃 - 1130年)が挙げられている。他の候補としては Þóroddr Gamlason が挙げられている。
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菅原大江中原などの博士たち(黒川春村説)、観勝寺の真言僧良胤(岡田希雄説)、江家の正嫡筋(木村紀子説)など諸説ある。このうち、良胤説は良胤を『壒嚢鈔』の著者とし、塵袋は壒嚢鈔の読みかえによる別名という解釈であるが、壒嚢鈔は文安2年から3年(1445年-1446年)に同じ観勝寺の僧行誉によって書かれたことが奥書の自記によって明らかであることから、信憑性には疑問が持たれる(木村紀子の考証による。)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 02:35 UTC 版)
本書の著者の熊沢蕃山は、儒学者として人々の教化に力を入れ多くの著作を著したため著名な存在ではあったものの、儒学者としては江戸幕府から認められ重用された主流からは外れた立場の人物であった。一般的に、日本の儒学者は日本固有の文化を中国のものより低いものとして見ており、中でも『源氏物語』のような男女の愛憎関係を描いたようなものは「好色淫乱の書」とされてまともに取り上げるに値しない蔑視の対象でしかなかった。そのような中で『源氏物語』を愛読したとされる熊沢蕃山は、『源氏物語』を「礼楽及び人情世態を教化するための良書である」として儒学による価値観と日本の伝統文化の融合を図ろうとして本書を著したと考えられている。
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『コヘレトの言葉』は冒頭の一文により、その著者が古代イスラエル王国第三代王ソロモンであることを仄めかしている。 エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。 — 1:1 ソロモンを著者とする説は保守的な注釈家たちの間では広く受け入れられており、彼らはこの記述をもって、ソロモンが「コヘレト」という異名でも呼ばれていたと主張し、その由来を、コヘレト(קהלת)が多くの共同体(קהילות)をエルサレムに集めた(הקהיל)からであると説明している。もちろん、会衆を集めて律法を教えるなど、神の命に適った施政を実践したとする彼の業績は『列王記上』などに記録されている。これらの説が正しいのならば、『コヘレトの言葉』は、紀元前10世紀代にソロモンが残したとされる一連の著作の一つということになる。 伝統的に旧約聖書の書物の中の三つがソロモンの手に帰されている。『雅歌』、『箴言』、そして『コヘレトの言葉』である。もっとも、これらの書物には思想、様式、文体などの点で相応の相違が認められる。これに関しては、それぞれの書物はソロモンの生涯における異なる三つの時代に書かれたと説明されている。つまり、青年時代に愛の歌を歌い(『雅歌』)、壮年期に知恵の言葉をまとめ(『箴言』)、経験を重ねた晩年に至って、この世のすべてを「虚しい」と断じた(『コヘレトの言葉』)というのである(『ミドラシュ・シール・ハ=シリーム・ラッバー』 1.1)。 近代における研究では、『コヘレトの言葉』はソロモンから数百年も後代の紀元前4世紀から同3世紀にかけての第二神殿時代に書かれたと推定されているが、明らかな証拠が無く仮説として知られている。 同書の著者あるいは編纂者は、当初よりこれを知恵文学を代表する著者名であるソロモンに(律法全体をモーセと呼ぶように)仮託したものと見られている。また、研究者の多くが同書の成立年代を第二神殿時代のより後期に見積もっているのだが、それはפרדס(果樹園)、פתגם(おふれ)といったペルシア語由来の単語が記されているからである。ヘレニズム期の黙示思想に抗するものであるとする説もある。
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PPG I (2016)に挙げられている、このプロジェクトの運営メンバーは以下の通りである。 Eric Schuettpelz Harald Schneider Alan R. Smith Peter Hovenkamp Jefferson Prado Germinal Rouhan Alexandre Salino Michael Sundue Thaís Elias Almeida Barbara Parris Emily B. Sessa Ashley R. Field André Luís de Gasper Carl J. Rothfels Michael D. Windham Marcus Lehnert Benjamin Dauphin 海老原淳 Samuli Lehtonen Pedro Bond Schwartsburd Jordan Metzgar 张丽兵 (Li-Bing Zhang) 郭立園 (Li-Yaung Kuo) Patrick J. Brownsey 加藤雅啓 Marcelo Daniel Arana その他の参加者は以下の通りである。 Francine C. Assis Michael S. Barker David S. Barrington Ho-Ming Chang Yi-Han Chang Yi-Shan Chao 陳正為 (Cheng-Wei Chen) De-Kui Chen Wen-Liang Chiou Vinícius Antonio de Oliveira Dittrich Yi-Fan Dua Jean-Yves Dubuisson Donald R. Farrar Susan Fawcet Jose María Gabriel y Galán Luiz Armando de Araújo Góes-Neto Jason R. Grant Amanda L. Grusz Christopher Haufler Warren Hauk 何海 (Hai He) Sabine Hennequin Regina Yoshie Hirai Layne Huiet Michael Kessler Petra Korall Paulo H. Labiak Anders Larsson Blanca León Chun-Xiang Li Fay-Wei Li Melanie Link-Pérez Hong-Mei Liu Ngan Thi Lu Esteban I. Meza-Torres Xin-Yuan Miao Robbin Moran Claudine Massi Mynssen Nathalie Nagalingum Benjamin Øllgaard Alison M. Paul Jovani B. de S. Pereira Leon R. Perrie Mónica Ponce Tom A. Ranker Christian Schulz 篠原渉 Alexander Shmakov Erin M. Sigel Filipe Soares de Souza Lana da Silva Sylvestre Weston Testo Luz Amparo Triana-Moreno 堤千絵 (Chie Tsutsumi) Hanna Tuomisto Iván A. Valdespino Alejandra Vasco Raquel Stauffer Viveros Alan Weakley Ran Wei Stina Weststrand Paul G. Wolf George Yatskievych Xiao-Gang Xu 严岳鸿 (Yue-Hong Yan) Liang Zhang 张宪春 (Xian-Chun Zhang) Xin-Mao Zhou
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著者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/30 14:03 UTC 版)
NoteEditはJörg Andersによって長い間メンテナンスされてきた。2004年の8月以後、新しい開発チームが結成された。今は、このソフトウェアプロジェクトは多数の人々に支持されている。 Reinhard Katzmann、プロジェクトマネージャー Christian Fasshauer、プログラマ Erik Sigra、デベロッパー David Faure、KDEユーザインタフェース Matt Gerassimoff Leon Vinken、MusicXML Georg Rudolph、LilyPond インタフェース Matevž Jekovec、デベロッパーでありコンポーザー Karai Csaba、デベロッパー NoteEditはまだメンテナンスされているが、NoteEditのソースコードにはメンテナンスを行うことと改善することが難しい制限があるために、現在の何人かの開発者はこれを置き換えるために新しい Canorusプロジェクトを開始した。 最初の著者Jörg Andersもまた、Linux上で動作する新しいWYSIWYGであり、 GTK+を用いた楽譜エディタ、NtEd の開発を始めている。
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「著者」の例文・使い方・用例・文例
- その本の著者がだれか知っていますか
- その著者は出版間際になって,自分が書いた本に数カ所の削除をおこなった
- この著者の言いたい事はさっぱり分からない
- その本の表紙には著者の写真が印刷されていた
- 著者はチョムスキーの理論を数回引用している
- 著者は第7章で再びこの問題を論じている
- 著者の略歴
- 著者に会えるなんて本当に思わぬ喜びでした
- 著者の日本史の扱い方
- 彼が7月この著者の他の作品を見た
- エッセイストとして活躍していた著者が、初めて小説を書く
- 著者が各地で定期セミナーを開催します
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- 著者の妻が共著者としてクレジットされている。
- 著者はこの本でカントを脱構築の方法で分析している。
- 著者はインフォーマル・セクターについてイ―ミックな立場で論じている。
- この著者は、芸術もまたエディプス的な苦悩を経験すると述べている。
- 著者はたくさんの相互参照を用いている。
- その本は著者を論争に巻き込んだ。
- この著者は永遠性と無常観について比較検討しようとしています。
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