エッセイストとして
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秀子は、女優全盛期の時代から多くの本を出版し続けている。初の著書は1953年(昭和28年)に刊行された、パリ滞在のエッセイ『巴里ひとりある記』(映画世界社)で、以降『まいまいつぶろ』(同)、『私のインタヴュー』(中央公論社)、『瓶の中』(文化出版局)、『いっぴきの虫』(潮出版社)などのエッセイを上梓した。また、松山との共著による『旅は道連れガンダーラ』(同)、『旅は道連れツタンカーメン』(同)などの旅行記、『台所のオーケストラ』(同)などの料理本も書いている。 子役生活のために小学校にも十分に通えない少女時代を送ったが、シナリオ読みや読書による独学で熱心に教養を蓄え、また松山との結婚後は、自宅で松山のシナリオ執筆を口述筆記するなどの機会も得て、筆力を育てた。 1975年(昭和50年)、『週刊朝日』誌上で『わたしの渡世日記』を連載。この本では関係者を実名で登場させ、国民的女優、かつ一人の女性としての半生を率直な態度で回想している。その内容に「本当に本人が書いているのか」という問い合わせが殺到したが、当時の週刊朝日の編集部では、「ゴーストライターを使っているなら、あんな個性的な文章にはなりません」と答えたという。翌年に朝日新聞社より上下巻で刊行され、当時のベストセラーになった。このエッセイで第24回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。 2013年(平成25年)養女の斎藤明美により、未発表だったエッセイが発見され、3月に新潮社から『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』のタイトルで刊行。この本は1958年(昭和33年)に夫と欧州を旅した際の旅行記で、自宅の書棚に保管されていたという。斎藤明美による多くの関連出版がある。
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エッセイストとして
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60歳から本格的に「絵ことば」創作活動 「田中トシオ絵ことば原画展」が全国各地で開催されている。 「夢は逃げない、自分が夢から逃げるだけ」「夢の大きさに苦しさって比例するんだよね」等多くのことばを発表し続けている。 総理主催「桜を見る会」に2011年 (中止)は理容師として、2013年には文化人として招待された。
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エッセイストとして
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「W・A・グロータース」の記事における「エッセイストとして」の解説
『わたしは日本人になりたい』(柴田武訳、筑摩書房1964)は、自身の日本での体験を描いたエッセイで、好評を博して何度も改訂・再出版された。 『誤訳 ほんやく文化論』(柴田武訳、三省堂1967)はより言語学寄りのエッセイで、主に英語からの有名な邦訳書の誤りを指摘し、日本の言語教育が文献学にかたよっていて生きた言語の学問がないことをその原因のひとつとする。 『それでもやっぱり日本人になりたい』(五月書房1999)は自伝的な内容で、前半はベルギーや中国での生活が詳しく語られている。 エッセイ集としては他に『ロボットはいやだ』(美田稔訳、女子パウロ会1972)、『にっぽん文化考』(ダイヤモンド社1976)などがある。
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