創作活動
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進学を諦めたフルニエは1907年12月、『ラ・グランド・ルヴュ』誌に「女の肉体(Le corps de la femme)」と題するエッセーを発表する。1908年、2年間の兵役義務を果たすため入隊。最初、ヴァンセンヌの竜騎兵第23連隊に入るが騎兵隊生活の厳しさに耐えられず、ラ・トゥール=モブールの歩兵隊第104連隊に移してもらい、見習士官としてラヴァルで研修。1909年4月、ミランドの第88連隊に配属される。この間、『奇蹟(Miracles)』としてまとめられる詩や散文を書いた。1910年2月、セーヌ河岸で若い婦人帽子店主、ジャンヌ・ブリュノーと出会う。『グラン・モーヌ』のお針娘、ヴァランティーヌ・ブロンドーのモデルとなるこの女性との関係は2年間続くが、結局別れることになる(この破局の顛末を描いた章は『グラン・モーヌ』では切り上げられ、後に『奇蹟』に収められる)。1910年からは『新フランス評論』誌に書評を発表し始める。「パリ日報」の記者となりパリ・ジュルナル誌の文芸欄を担当するが、1912年に退社。シャルル・ペギーの紹介で女優シモーヌの夫、クロード・カジミール=ペリエの秘書となる(なお、フルニエとシモーヌは1913年6月以来、愛人関係を結んでいる)。1913年、長年あたためてきた小説『グラン・モーヌ』を完成させ、『新フランス評論』誌の第55号から59号に連載される。12月にはエミール=ポール兄弟書店から刊行され、ゴンクール賞の有力候補に挙げられたが受賞はしなかった。フルニエ自身は「僕は賞もお金も要らない。ただ『グラン・モーヌ』が読まれればと願っている」としたためた書簡をリヴィエールと交わしている。
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