年表
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年表(ねんぴょう、英: timeline タイムライン)は、(歴史上の)出来事を年の順(「年月日」の順、「日付」の順)に記載した表のこと[1]。
注釈
- ^ それに対して、まだ起きていないこと、未来の予定などを日付順に記載した表は、(日本語の場合は)「予定表」や「スケジュール表」などと呼ぶ傾向がある。英語では、過去のことを扱う場合でも、未来のことを扱う場合でも、ともかく、時(time)が、線(line)的に並んでいれば、おかまいなしに「timeline」と呼ぶ傾向が、近年強まっている。実は日本語の「年表」という用語にも、「過去でなければならない」という意味の漢字や語根は含まれていない。ただ(時を表すための字である)「年」と(表形式だという意味の字)「表」の組み合わせである。
- ^ 本当は「歴史」と言っても、音楽史もあれば、科学史もあるし、庶民の(権力闘争とは縁遠い)普通の生活の歴史などもあるのだが、なぜか「歴史」と言うと、なぜか「権力史」になりがちで、政治権力や権力者のことばかりに焦点を当てて他を無視しがちである。たとえば100万人で構成された古代国家があった場合でも、権力者やその取り巻きになっているのはわずか数千人程度で、残りの大多数は権力とはほぼ無縁の、平凡な人々である。ごく一部の例外的な人間の権力闘争にばかり焦点が当てられ、残りの大多数の人々の生活や人生の実態に関する記述がないがしろにされてしまっている。このあたりの問題点は、アカデミックな世界でも、ここ数十年、頻繁に指摘されるようになってきている。
出典
年譜 (月日は全て旧暦)
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「山本盛備」の記事における「年譜 (月日は全て旧暦)」の解説
延享2年(1745年)12月25日:島津宗信に初お目見え。 天明2年(1782年):この年には既に横目に就任し、大阪駐在の薩摩藩の役人と文書のやりとりがあった。 天明6年(1786年):磯奉行が庭奉行に改名される。 享和2年(1802年)2月16日:島津斉宣の参勤交代に同行していた養子の七郎盛賢が大阪の薩摩藩邸で死去。 同年4月27日:孫の五百助盛珉が誕生。盛備が養育する。 文化4年(1807年)12月6日:甥の山本宇源多が納戸奉行から鑓奉行に降格。 天保6年(1835年)8月18日:妻死去。
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年譜(月日は旧暦)
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天保5年;日向国勝岡郷地頭に就任。当時、碇山仲左衛門と称す。 天保9年;伊作郷地頭に就任。当時、碇山八郎右衛門久珍と称す。 弘化3年;1月11日に市来郷地頭に就任し、閏5月29日に島津斉興名代の島津斉彬により家老に任命され、8月25日に指宿郷地頭に地頭担当地が変更される。
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年譜(江戸幕府役職履歴)
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「跡部良弼」の記事における「年譜(江戸幕府役職履歴)」の解説
文政6年3月29日(1823年5月9日)、西丸小姓組二番組(氷見伊予守為糾)組衆より中奥番に異動。石高2500石。季十郎を称す。 文政8年1月11日(1825年2月28日)、中奥番より使番に異動。 文政11年2月1日(1828年3月16日)、火事場見廻役兼帯。 文政13年3月12日(1830年4月4日)、使番・火事場見廻役より駿府町奉行に異動。駿府町奉行在任中、季十郎より大膳に改称する。 天保4年8月11日(1833年9月24日)、駿府町奉行から堺奉行に異動。堺奉行在任中、従五位下山城守に叙任。 天保7年4月24日(1836年6月7日)、堺奉行から大坂東町奉行に異動。 天保10年9月10日(1839年10月16日)、大坂東町奉行から大目付に異動。分限帳改兼帯。同日、山城守から信濃守に遷任(同役に山城守を任官する神尾元孝が既にいるため遷任)。 天保12年6月13日(1841年7月30日)、信濃守から能登守に遷任(上司の老中に真田信濃守幸貫が就任したため遷任)。12月8日(1842年1月19日)、大目付を免ず。12月9日(1月20日)、勘定奉行に就任。公事方担当。 天保13年(1842年)2月、道中奉行兼帯。同月19日(3月30日)より同年4月まで日光東照宮参詣御用取扱兼帯。 天保15年9月15日(1844年10月26日)、勘定奉行から江戸南町奉行に異動。 弘化2年3月15日(1845年4月21日)、江戸南町奉行から一番組の小姓組番頭に異動。 嘉永4年3月24日(1851年4月25日)、小姓組番頭から留守居に異動。同日、能登守から甲斐守に転任(同役に能登守を任官する蜷川親常が既にいるため転任)。 安政2年(1855年2月5日)、老中阿部正弘が安政の改革の一環として設置した講武所の総裁に土岐頼旨と共に任命される。 安政2年8月9日(1855年9月19日)、留守居格大目付に異動。分限帳改及び海防掛兼帯。 安政3年7月13日(1856年8月13日)、宗門改兼帯。11月18日(12月15日)、留守居格大目付から留守居格江戸北町奉行に異動。 安政5年5月24日(1858年7月4日)、留守居格江戸北町奉行から留守居格清水卿支配に異動。 万延元年9月7日(1860年10月20日)、留守居格清水付支配から留守居に異動。同日、甲斐守から伊賀守に遷任(同役に甲斐守を任官する池田長顕が既にいるため遷帯)。11月1日(12月12日)、皇女和宮親子内親王江戸下向並びに縁組御用取扱兼帯。 文久2年8月24日(1862年9月17日)、側衆を兼帯。 文久3年7月12日(1863年8月25日)、側衆兼留守居から御側御用取次側衆に異動。 元治元年6月23日(1864年7月26日)、御側御用取次側衆を免ず。無役にて菊間縁側詰。11月19日(12月17日)、留守居上席として就任。 慶応元年10月22日(1865年12月9日)、伊賀守から遠江守に転任(上司の老中に板倉伊賀守勝静が就任したため転任)。 慶応3年8月5日(1867年9月2日)、留守居上席から側衆格留守居に異動。 慶応4年2月26日(1868年3月19日)、側衆格留守居から若年寄に異動。3月3日(3月26日)、若年寄を免じ、無役にて菊間縁側詰となる。 表 話 編 歴 江戸南町奉行、江戸北町奉行(1844年 - 1845年、1856年 - 1858年)一奉行天野康景 神田政高 岸正久 板倉勝重 彦坂元正 青山忠成 内藤清成 (北町・南町に分割) 北町奉行米津田政 堀直之 酒井忠知 朝倉在重 石谷貞清 村越吉勝 島田守政 北条氏平 川口宗恒 保田宗郷 松野助義 丹羽長守 中山時春 諏訪頼篤 稲生正武 石河政朝 能勢頼一 依田政次 曲淵景漸 石河政武 柳生久通 初鹿野信興 小田切直年 永田正道 榊原忠之 大草高好 遠山景元 阿部正蔵 鍋島直孝 牧野成綱 井戸覚弘 跡部良弼 石谷穆清 小笠原長常 浅野長祚 佐々木顕発 阿部正外 都筑峯暉 池田頼方 井上清直 杉浦知周 小出秀実 石川利政 (明治維新により廃止) 南町奉行土屋重成 島田利正 加賀爪忠澄 神尾元勝 渡辺綱貞 宮崎重成 松平忠冬 甲斐庄正親 能勢頼相 松前嘉広 林忠和 坪内定鑑 松野助義 大岡忠相 松波正春 水野勝彦 島祥正 馬場尚繁 山田利延 土屋正方 牧野成賢 山村良旺 池田長恵 坂部広高 村上義礼 根岸鎮衛 岩瀬氏紀 荒尾成章 筒井政憲 矢部定謙 鳥居耀蔵 跡部良弼 遠山景元 池田頼方 伊沢政義 池田頼方 黒川盛泰 小栗忠順 井上清直 佐々木顕発 松平康英 有馬則篤 根岸衛奮 山口直毅 有馬則篤 駒井信興 朝比奈昌広 黒川盛泰 松浦信寔 佐久間信義 (明治維新により廃止) 中町奉行丹羽長守 坪内定鑑 (廃止)
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