紀元前1世紀
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千年紀: | 紀元前1千年紀 |
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世紀: | 前2世紀 - 紀元前1世紀 - 1世紀 |
十年紀: | 前90年代 前80年代 前70年代 前60年代 前50年代 前40年代 前30年代 前20年代 前10年代 前0年代 |
紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、西暦による紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す世紀。紀元前を区分する最後の世紀でもあり、紀元1世紀の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。
なお、天文学やISO 8601では、紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。
できごと
紀元前100年代
紀元前90年代
- 紀元前99年 - 前漢の李陵が匈奴に降伏する。
- 紀元前98年 - 前漢の武帝が泰山で封禅の儀を執行する。
- 紀元前97年頃 - 前漢で司馬遷が獄から釈放されて中書令に就任し『史記』執筆に専念。
- 紀元前91年
- 紀元前91年頃 - 司馬遷が『史記』を完成させる。
- 紀元前90年 - 共和政ローマの執政官ルキウス・カエサルが、反乱に加わらなかった同盟市にローマ市民権を与える法を制定[1]。
紀元前80年代
- 紀元前89年
- 前漢の武帝の「輪台の詔」。
- 共和政ローマで申請した同盟市の人間に市民権を与えるプラウティウス・パピリウス法が成立[2]。
- 紀元前88年 - 共和政ローマでスッラがローマ市を占領してマリウスを追放[3]。第一次ミトリダテス戦争(- 紀元前85年)。
- 紀元前87年
- 紀元前86年
- 紀元前85年頃 - インド・グリーク王国を滅ぼしたサカ人がインド・スキタイ王国を建てる。
- 紀元前83年
- 紀元前82年 - 共和政ローマのスッラが法制定と国家再建の独裁官に就任[9]。プロスクリプティオによる粛清を行う[10]。
- 紀元前81年
- 紀元前80年
紀元前70年代
- 紀元前79年 - スッラが独裁官を辞任し、カンパーニャに引退する。
- 紀元前77年 - アルメニア王ティグラネス2世がアルタクサタからティグラノセルタに都を遷す。
- 紀元前75年 - ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現パンプローナ)をヴァスコン人の定住地のバスク地方に建設する。
- 紀元前74年 - 前漢の昭帝が死去。霍光が劉賀を廃位させ、宣帝を即位させる。
- 紀元前73年 - 共和政ローマで剣闘士のスパルタクスが反乱を起こす(- 紀元前71年)。
- 紀元前70年 - ポンペイウスとクラッススが執政官に就任。
紀元前60年代
- 紀元前69年 - ティグラノセルタの戦い。
- 紀元前66年 - 宣帝の廃位を画策した罪で霍禹ら霍一族が滅ぼされ、皇后霍氏も廃位される。
- 紀元前63年
- 紀元前60年 - 共和政ローマでカエサルが執政官に就任、ポンペイウスやクラッススと共に第一回三頭政治を開始。
紀元前50年代
- 紀元前54年 - ローマによるブリタンニア侵攻。
- 紀元前54年 - 匈奴が東匈奴と西匈奴に分裂。
- 紀元前53年 - カルラエの戦いでパルティアがクラッススを破る。
- 紀元前52年
- 紀元前51年
- 匈奴の呼韓邪単于が前漢に入朝し、宣帝と会見する。
- 石渠閣会議。
- 紀元前50年 - エジプトの「デンデラの黄道帯(ルーヴル美術館蔵)」の天体図はこの年の天球配置を示す。
- 紀元前50年頃 - アテナイの「ローマ時代のアゴラ」に「風の塔(アンドロニコスの時計塔)」が建てられる。
紀元前40年代
- 紀元前49年 - ローマ元老院がカエサルに「元老院最終勧告」を下す。
- 紀元前48年 - ファルサロスの戦いでカエサルがポンペイウスを破る。
- エジプトに逃亡したポンペイウスはこの地でプトレマイオス13世の配下に殺害される。
- 紀元前47年
- 紀元前46年
- 紀元前45年 - ムンダの戦いでカエサルが小ポンペイウスと元老院派に勝利し、ローマ内戦を終結させる。
- 紀元前44年
- 紀元前43年
- 紀元前42年
- 紀元前42 - 20年頃 - ヘレニズム時代の彫刻「ラオコーン像(ヴァチカン美術館(ピオ・クレメンティーノ美術館)蔵)」が作られる。
紀元前30年代
- 紀元前37年 - エルサレム攻囲戦。
- 紀元前37年頃 - 『三国史記』によると東明聖王高朱蒙により高句麗が建国される。
- 紀元前36年
- 紀元前33年 - 匈奴の呼韓邪単于が再び前漢に入朝し、王昭君が呼韓邪単于に嫁ぐ。
- この時期に前漢の領土は最大となる。元帝が死去し、成帝が即位。
- 紀元前32年 - オルメカの祭祀センターのトレス・サポーテスの石碑Cの日付。
- 紀元前31年 - アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍を破る。
- 紀元前30年 - クレオパトラ7世が自殺し、息子カエサリオン(プトレマイオス15世)が殺害される。
- プトレマイオス朝が滅び、エジプト(アエギュプトゥス)はローマの属州となる。
紀元前20年代
- 紀元前27年
- 紀元前27年頃 - 前漢が夜郎を滅ぼす。
- 紀元前25年
- 紀元前25年頃
- ヘロデ大王が属州パレスティナにカイサリア・マリティマ(海辺のカイサリア)を建設。
- 大月氏からクシャーナ朝(貴霜翕侯)のクジュラ・カドフィセスが独立する。
- 紀元前22年 - ローマ帝国に南インドのパーンディヤ朝の使者が到着。
- 紀元前20年頃 - ヘロデ大王がエルサレム第二神殿の修繕と大拡張工事を行う(ヘロデ神殿)。
紀元前10年代
- 紀元前19年 - カンタブリア人の反乱が鎮圧され、その領土が属州ヒスパニア・タラコネシスに編入される。
- この時期までにイベリア半島のカストロ文化圏がローマ支配下におかれることなる。
- この時期を代表するのがガリシア地方カストロ・デ・サンタ・トレガの城砦遺跡。
- 紀元前19年頃 - アグリッパの命で水道橋ポン・デュ・ガールが架けられる。
- 紀元前18年 - ユリウス姦通罪/渉外交渉罪法とユリウス正式婚姻法が成立する。
- 紀元前16年 - ローマがノリクムに遠征し、属州ノリクムが設置される。
- 紀元前15年 - ローマがラエティアに遠征し、属州ラエティアが設置される。
- この地の首府アウグスタ・ウィンデリコルム(現アウクスブルク)が建設される。
- 紀元前13年 - ローマのマルケッルス劇場が完成する。
- 紀元前12年
- アウグストゥスが最高神祇官に就任する。
- ローマのガイウス・ケスティウスのピラミッドが完成する。
- ローマの大ドルススのゲルマニア遠征。
- この戦役を避けて「ヒルデスハイムの遺宝(銀器)」が埋蔵される。
- 紀元前12年頃
紀元前0年代
- 紀元前9年
- 紀元前7年 - 前漢で限田法が布告される。
- 紀元前7 - 4年頃 - ナザレのイエス生誕。
- 紀元前6年 - アウグストゥスのアルプス諸族平定を記念しトロパエム・アルピウムがユリア・アウグスタ街道沿いのラ・テュルビーに建てられる。
- 紀元前2年 - 大月氏の使者伊存が「浮屠経(仏教の経典)」を博士弟子の景廬に口授する(『魏略』西戎伝)。
- 紀元前1年 - 前漢で丞相・御史大夫・大司馬将軍が大司徒・大司空・大司馬に改称され三公とされる。
- 紀元前後
- モンゴル高原北部のノイン・ウラの匈奴の墓が築かれる。
- 倭人が百余国に分かれて、一部の国が前漢の楽浪郡に朝献する(『漢書』地理誌)。
人物
共和政ローマから帝政ローマ
- マリウス(前157年 - 前86年) - 共和政時代の執政官(7度就任)[6]・キンブリ・テウトニ戦争、マリウスの軍制改革で知られる[12]
- スッラ(前138年 - 前78年) - 共和政時代の独裁官・第一次ミトリダテス戦争で知られる[13]。マリウスのライバル[14]
- クラッスス(前115年頃 - 前53年) - 共和政時代の第一回三頭政治の一人・資産家で知られる
- スパルタクス(前109年頃 - 前71年) - 共和政時代の剣闘士・「スパルタクスの反乱(第三次奴隷戦争)」の指導者
- ポンペイウス(前106年 - 前48年) - 共和政時代の第一回三頭政治の一人・カエサルのライバル
- キケロ(前106年 - 前43年) - 共和政時代の執政官[15]・『国家論』などのラテン語散文の大成者
- カエサル(前100年 - 前44年) - 共和政時代の第一回三頭政治の一人・終身独裁官[16]。『ガリア戦記』でも名高い
- マルクス・アエミリウス・レピドゥス - 共和政時代の国家再生三人委員の一人[17]
- マルクス・アントニウス - 共和政時代の国家再生三人委員の一人[17]
- オクタウィアヌス - 共和政時代の国家再生三人委員の一人[17]・カエサルの養子で元首政を始める[18]
- ルクレティウス(前99年頃 - 前55年) - 共和政時代の詩人、哲学者・『事物の本性について』ではエピクロス派の唯物論を説く
- シケリアのディオドロス(前1世紀) - 共和政時代のギリシア人歴史家・エジプトやローマを歴訪し『歴史叢書』をまとめる
ヘレニズム国家と西アジア
- ポセイドニオス(前135年頃 - 前51年) - シリアのアパメア出身の地理学者・天文学者・アンティキティラ島の機械とも関係があったか
- ロドスのアンドロニコス(生没年不詳) - リュケイオン学園の第11代学頭・アリストテレスの草稿を校訂し現行の全集として刊行した
- ミトリダテス6世(前132年 - 前63年) - 小アジアのポントス王国国王(在位前120年 - 前63年)・共和政ローマと三度戦争を行う
- ミトラダテス2世(? - 前88年) - パルティア王(在位前123 - 前88年)・クテシフォンに遷都・最盛期を迎え「諸王の王」を名乗る
- アンティオコス13世(? - 前64年) - セレウコス朝シリア最後の王(在位前69年 - 前64年)・ポンペイウスに滅ぼされる
- ティグラネス2世(? - 前55年) - アルメニア国王(在位前95年 - 前55年)・セレウコス朝を圧倒し「諸王の王」「大王」を名乗る
- アンティオコス1世(? - 前38年) - 小アジアのコンマゲネ王国国王(在位前69年 - 前38年)・ネムルト山墳墓を造営
- スレナス(前84年 - 前52年) - パルティアの貴族・将軍・カルラエの戦いでローマに大勝しクラッススを倒す
- ヘロデ大王(前73年頃 - 前4年) - ローマ共和政から帝政にかけてのユダヤの王(在位前37年 - 前4年)・ヘロデ朝を創設
- クレオパトラ7世(前70年 - 前30年) - プトレマイオス朝エジプト最後の女王・カエサルやアントニウスとの親交で名高い
南アジア
東アジア
前漢
- 武帝(前156年 - 前87年) - 前漢の皇帝(在位前141年 - 前87年)・匈奴征討など積極外交策を行う・治世後期は内政再建を実施
- 桑弘羊(前152年 - 前80年) - 前漢の政治家・財政家・武帝に仕え均輸法・平準法・専売制の実施など財政改革を行う
- 蘇武(前140年頃? - 前60年) - 前漢の官僚・使者として匈奴に赴くが捕縛され帰順を拒んで20年近く抑留される
- 李広利(? - 前88年) - 前漢の軍人・武帝の命で汗血馬を求め大宛を攻略・後年は匈奴に降伏し粛清される
- 司馬遷(前145年 - 前87年) - 前漢の歴史家・『史記』の著者・武帝の前で李陵を弁護して怒りを買い宮刑に処せられる
- 李陵(? - 前74年) - 前漢の軍人・李広利の救援に急ぐが匈奴と戦い敗北・降伏した後は匈奴の右校王となる
- 江充(? - 前91年) - 前漢の官僚・巫蠱の禍により劉拠を失脚させんとして太子に斬殺される
- 劉屈氂(? - 前90年) - 前漢の丞相・皇族で武帝の甥・戾太子の反乱を鎮圧・帝位継承で李広利との密約が露見し処刑される
- 金日磾(前134年 - 前86年) - 前漢の政治家・もとは匈奴の休屠王の太子・武帝の信任を得て霍光らと昭帝を補佐する
- 霍光(? - 前68年) - 前漢の政治家・大将軍・武帝亡き後の昭帝を補佐・その後は昌邑王劉賀を廃し宣帝を擁立
- 劉旦(? - 前80年) - 前漢の皇族(燕王)・武帝の子で昭帝の異母兄・上官桀らと霍光打倒の反乱を起こすが鎮圧される
- 上官桀(? - 前80年) - 前漢の政治家・将軍・霍光らとともに昭帝の補佐をするが後に反目・霍光打倒の反乱を起こすが鎮圧される
- 丙吉(? - 前55年) - 前漢の丞相・もとは獄吏だったが巫蠱の獄に際し戾太子の孫(後の宣帝)を庇護した功で昇進し善政を行う
- 宣帝(前91年 - 前49年) - 前漢の皇帝(在位 前73年 - 前49年)・武帝の曾孫・戾太子の孫・前漢中興の祖とも呼ばれる
- 鄭吉(? - 前48年) - 前漢の軍人・西域南道と西域北道を併せて統括する西域都護の初代として安遠侯に封じられる
- 呼韓邪単于(? - 前31年) - 匈奴の単于・匈奴の内紛のため前漢に帰順し宣帝と会見・後に元帝時代にも入朝
- 戴徳(生没年不詳) - 前漢の儒者・宣帝の治世に「礼」の記録を整理し「大戴礼」を編纂・甥の戴聖(小戴)に対し大戴と呼ばれる
- 桓寛(生没年不詳) - 前漢の官僚・始元6年の「塩鉄の議」の記録を宣帝の時代に『塩鉄論』としてまとめたことで知られる
- 劉向(前77年 - 前6年) - 前漢の学者・政治家・宣帝から成帝に仕え『説苑』『列女伝』を著す
- 王昭君(生没年不詳) - 前漢の宮女・元帝時代に匈奴の呼韓邪単于の入朝に選ばれてその妻女となる
- 王政君(前71年 - 13年) - 前漢の元帝の皇后で成帝の生母・外戚の王氏一族を伸張させる・甥王莽の帝位簒奪には反対した
- 王鳳(? - 前22年) - 前漢の政治家・王政君の兄弟は「五侯」として列侯に封じられたがその中心として大司馬大将軍となる
- 趙飛燕(? - 前1年) - 前漢の成帝の皇后・歌舞音曲に通じ成帝の寵を得る・稗史『飛燕外伝』では傾国の美女とされている
- 王莽(前45年 - 23年) - 前漢の政治家・外戚として権力を握り哀帝没後に平帝を擁立・前漢を簒奪して新王朝を立てる
高句麗
伝説・架空のできごと
- 紀元前93年以降 - 前漢の武帝に仕えた東方朔は滑稽でありながら機知に富んだ人物であったが、崑崙山の仙女西王母が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んで、八千歳の長寿を得たという(『漢武故事』)。
- 紀元前50年頃 - ユリウス・カエサルによりガリアのほとんどがローマの支配下に編入された中にあってアステリックスとオベリックスらの仲間たちが自分たちの村を知恵と勇気で守り抜いている(ルネ・ゴシニとアルベール・ユデルゾ『アステリックス』)。
出典
- ^ MRR2, p. 25.
- ^ MRR2, p. 34.
- ^ MRR2, p. 40.
- ^ MRR2, p. 46.
- ^ MRR2, p. 55.
- ^ a b MRR2, p. 53.
- ^ MRR2, p. 63.
- ^ MRR2, p. 64.
- ^ MRR2, p. 66.
- ^ MRR2, p. 69.
- ^ MRR2, pp. 74–75.
- ^ ゴールズワーシー, pp. 112–113.
- ^ MRR2, p. 74.
- ^ ゴールズワーシー, p. 121.
- ^ MRR2, p. 165.
- ^ MRR2, p. 317.
- ^ a b c MRR2, p. 337.
- ^ ゴールズワーシー, p. 126.
参考文献
- T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association
- エイドリアン・ゴールズワーシー 著、遠藤利国 訳『図説 古代ローマの戦い』東洋書林、2003年。ISBN 9784887216082。
関連項目
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、紀元前1世紀に関するカテゴリがあります。
紀元前1世紀
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「共和政ローマ監察官一覧」の記事における「紀元前1世紀」の解説
紀元前97年 LXV - 祝日や普段使えるアス (青銅貨)の制限などを定めたリキニウス法を撤廃しようとした護民官マルクス・ドゥロニウスを元老院から除外。ロストラをキリキアでの戦利品で飾る。アエミリウス・スカウルスを第一人者に再指名ルキウス・ウァレリウス・フラックス (紀元前100年の執政官) マルクス・アントニウス・オラトル 紀元前92年 - 行きすぎたラテン語の修辞技法を制限。ドミティウスは同僚クラッススの贅沢を攻撃した。スカウルスを第一人者に留任グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前96年の執政官) ルキウス・リキニウス・クラッスス 途中辞任 紀元前89年 - この年、同盟市戦争の結果市民権を得たイタリア人を登録するため新しく10の農村トリブスが追加される事が決定していたが、護民官プブリウス・スルピキウス・ルフスの提出した新市民を旧農村トリブスに登録する法案が可決されたため中断プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前97年の執政官) ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前90年の執政官) 紀元前86年 LXVI - 解放奴隷が35のトリブスに登録される。成年人口463,000人。この回はルキウス・コルネリウス・スッラの意向が強く反映されていると考えられており、ルーストルムすらスッラが行ったとする説もある。この時ローマを支配していたのはキンナで、新市民の登録が間に合わなかったともみられている。ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官) マルクス・ペルペルナ (紀元前92年の執政官) 紀元前70年 LXVII - 64名を元老院から除名、成年人口90万人。この年の執政官グナエウス・ポンペイウスの影響で、スッラ派に対抗するため主にケントゥリアの第一クラシスを大量に登録したと考えられているグナエウス・コルネリウス・レントゥルス・クロディアヌス ルキウス・ゲッリウス・プブリコラ 紀元前65年 - ポー川以北の人々(トランスパダニ)にローマ市民権を与えるかどうかで意見が対立。クラッススは恐らくカエサルの支援を得てトランスパダニに市民権を与える法案提出を図ったがカトゥルスに阻止されたクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス マルクス・リキニウス・クラッスス 途中辞任 紀元前64年 - 前年と同じ理由で対立。元老院リスト更新を護民官に妨害され途中辞任ルキウス・アウレリウス・コッタ (紀元前65年の執政官) 不明 紀元前61年 - 元老院全員を留任、定員オーバー。アシア属州でのスキャンダラスな不当契約に絡んでいた可能性ガイウス・スクリボニウス・クリオ (紀元前76年の執政官)? 不明 途中辞任 紀元前55年 - この年ティベリス川が大氾濫して多くの死傷者が出た。彼らは治水工事を行った。任期満了まで務めたがルストルムは行えなかったプブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前79年の執政官) マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ニゲル 紀元前50年 - ポンペイウス派のプルケルは贅沢や不品行を徹底的に調査すると多くのエクイテスと元老院議員を除名し結果的にカエサル派で固め、解放奴隷を元老院から除名。ガイウス・サッルスティウス・クリスプスもこのとき除名されている。カエサル派のピソはガイウス・スクリボニウス・クリオの除名撤回を嘆願した。ピソはカエサルとの調停も図ったアッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前54年の執政官) ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス 紀元前42年ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ プブリウス・スルピキウス・ルフス 紀元前28年 LXVIII - 元老院が千人を超えたため190名に自主的に返上させ、内乱の一世紀で激減していたパトリキを元老院の許可の下増やし、元老院議員が許可なくイタリア半島から出ることを禁じたインペラトル・カエサル・オクタウィアヌス マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ
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