封禅
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封禅(ほうぜん)は、帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式である。
始皇帝以前には72人の帝王がこの儀式を行ったと『史記』には伝えられている。その歴史は三皇五帝によって執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。
概略
封禅の儀式は、封と禅に分かれた2つの儀式の総称を指し、土を盛って檀を造り天をまつる「封」の儀式と地をはらって山川をまつる「禅」の儀式の2つから構成されていると言われている。
司馬遷の『史記』(巻二十八封禪書第六)の注釈書である『史記三家注』によれば、
- 「正義:此泰山上築土為壇以祭天,報天之功,故曰封。此泰山下小山上除地,報地之功,故曰禪(『史記正義』には、泰山の頂に土を築いて壇を作り天を祭り、天の功に報いるのが封で、その泰山の下にある小山の地を平らにして、地の功に報いるのが禅だ、とある)」
- 『史記三家注』では続いて『五経通義』から「易姓而王,致太平,必封泰山(王朝が変わって太平の世が至ったならば、必ず泰山を封ぜよ)」という言葉を引用している。
天命を受けた天子の中でも功と徳がある者のみが執り行う資格を持つとされ、『史記』そのものには、斉の桓公がこれを行おうとして、管仲が諫める場面があり、管仲が神農・炎帝から周の成王に至る古来封禅を行った帝王を列挙して説得するという記述があり、これが前述の始皇帝以前の封禅の有無を推論する際の論拠となっている。
秦の始皇帝が皇帝になったのちの紀元前219年に、泰山で封禅の儀を行ったが、このとき既に古い時代の儀式の知識は失われており、儒学者などを集めて封禅の儀式について研究させたが、各自意見がまちまちでまとまらず、結局我流でこれを執り行ったと伝えられている。その儀式の内容は秘密とされており、実際に何が行われたかはよく分かっていない。
泰山で封禅の儀式を行った君主
秦
前漢
- 武帝劉徹
後漢
隋
唐
宋
清
泰山以外で封禅を行った君主
三国呉
文物
泰山(山東省泰安市)のふもとには、岱廟(=東岳廟)という道観(道教寺院)がある。そこでは、北宋・真宗の「大宋東嶽天斉仁聖帝碑」を始めとし、徽宗の「宣和重修泰嶽廟記碑」、李斯碑など、様々な封禅関係の遺物を観ることが出来る。
また、禅が行われた場所には主な所として、梁父山・社首山(=蒿里山)が挙げられる。1931年(民国20年)、軍閥の馬鴻逵がここにあった道観を破壊したとき、唐宋代の禅に用いられた玉函=(禅地玉冊と玉嵌片)が見つかった。玉函は、鴻逵と共にアメリカへ渡った後、彼の没後の1970年、夫人が台湾の国立故宮博物院へ寄贈し、それが今日展示されている。
参考文献
- 『漢書』、漢・班固撰、唐・顔師古注、中華書局、1962年。
- 『新刻泰山小史』、明・蕭協中著、趙新儒校勘、文海出版社、1971年。
- 『中国の泰山』、澤田瑞穂・窪徳忠著、講談社、1982年。
- 「馬歩馬鴻逵馬歩青三傑」(『伝記文学』69所収)、伝記文学編集委員会、1996年。
- 『泰山―中国人の信仰』、シャヴァンヌ著、菊池章太訳、勉誠出版、2001年、ISBN 4585020810、ISBN 9784585020813。
関連項目
封禅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:46 UTC 版)
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の泰山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え、この儀式を遂行した。 しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、隣の梁父山で「禅」の儀式を終えた。 この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる。吉川忠夫は、始皇帝は泰山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた。
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