ガリア戦争
ガリア戦争
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「ティトゥス・ラビエヌス」の記事における「ガリア戦争」の解説
「ガリア戦争」も参照 紀元前58年より始まったガリア戦争での最初の戦いとなったヘルウェティイ族との戦闘において、カエサルが自著「ガリア戦記」中に名前を言及した唯一のレガトゥスがラビエヌスであり、カエサルが当初よりラビエヌスを高く評価していたことが窺える。実際に、ラビエヌスは数多くの戦争経験を重ねた熟練の騎兵指揮官であり、カエサルが己の手柄とした多くもラビエヌスの補佐によるものであった。また、他のカエサル配下のレガトゥスに比べても軍功・キャリア共に豊富であったことから、カエサル軍の筆頭の副司令官格であり、カエサルもゲルマニアやブリタンニアへの遠征でガリアを離れた際は、ガリア属州全体の統治を別部隊と共にラビエヌスに一任した。また、ラビエヌスもカエサル不在のガリアを無難に治めた。 紀元前57年、ネルウィイ族(Nervii)及びアトレバテス族(Atrebates)らとのサビス川の戦いでは、ラビエヌスは第9軍団及び第10軍団を指揮してアトレバテス族を撃破した。ベルガエ人の本陣を占拠した後、苦戦していたカエサル自ら指揮を取る第7軍団及び第12軍団(en)に加勢するべく、ネルウィ族の後背を攻撃するよう第10軍団に指示を出し、ローマ軍の勝利に貢献した。 紀元前54年のインドゥティオマルス(Indutiomarus)が率いたトレウェリ族との戦いでは、インドゥティオマルスがローマ軍に対して威嚇及び挑発行為を行うことでラビエヌスを悩ませたものの、ラビエヌスは作戦によって少しの間、待機する戦術をとった。トレウェリ族及びインドゥティオマルスがローマ軍は攻撃しないものと隙を見せた時期を見計らって、ラビエヌスは配下の騎兵にトレウェリ族の陣を急襲させた。ラビエヌスはインドゥティオマルスを真っ先に殺害するように指示を与え、ローマ軍はインドゥティオマルスを討ち取り、族長を失ったトレウェリ族は壊走した。 トレウェリ族はインドゥティオマルスの親族を新たな首領として再編成し、スエビ族らのゲルマニア人から援軍を待ってローマを攻撃する姿勢を示した。それに対してラビエヌスが撤退するよう見せかけたことから、トレウェリ族は後背よりローマ軍に迫ったところを、仕掛けておいた伏兵及び急反転した自軍によって反撃し、トレウェリ族に再び勝利を収めた。ゲルマニア人は援軍を控えざるを得ず、ゲルマニア人のガリア侵攻を防いだ格好となった。この年はアドゥアトゥカの戦いでローマ軍は大打撃を受けており、ローマ軍の崩壊を防ぐ勝利ともなった。 紀元前52年のルテティア(現:パリ)におけるパリシイ族との戦いでの勝利はラビエヌスの戦術の秀逸振りを見せる良い例となった。ゲルゴウィアへ向かったカエサル軍と別れて、パリシイ族を抑えるべく派遣されたラビエヌスは、コホルス(歩兵大隊)5個大隊をアゲディンクム(Agedincum、現:サンス)に残した上で、自らは3個軍団を率いてセクアナ川を越えてルテティアへ向かった。ローマ軍は川の3つの場所を渡ったが、軍隊を分割して川を横断しているものとガリア側に思い込ませ、ガリア軍はこれを追跡したが、ラビエヌスは軍を再び1つに戻して、迫ってきたガリア軍を包囲して、これを殲滅した。 ルテティアでの勝利の後にラビエヌスはカエサル本軍と合流。アレシアの戦いにも参加し、アレシア包囲網で最もガリア側の攻撃の激しかった北西の包囲線の防衛を果たしてローマ軍の勝利に貢献した。 紀元前51年、最後まで抵抗していたトレウェリ族の地に派遣され、ローマに抵抗する勢力を打ち破った。同年9月、カエサルはラビエヌスにガリア・キサルピナ属州の統治を委任した。
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ガリア戦争
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「プブリウス・リキニウス・クラッスス」の記事における「ガリア戦争」の解説
紀元前58年からのガリア属州総督で父の同盟者ガイウス・ユリウス・カエサルの元でガリア戦争に従軍。アリオウィストゥス率いるゲルマン人と戦ったウォセグスの戦いで騎兵隊長として重要な働きをした。 紀元前57年からは、総督副官(レガトゥス)としてローマ軍団を指揮した。この年、派遣されて大西洋沿岸地域(アレモリカ)のガリア人諸部族を帰服させた。紀元前56年のアレモリカ諸部族の反乱に際しては、ガリア南西部のアクィタニアにローマ軍1個軍団を率いてアクィタニア人がアレモリカ諸部族との連携を阻止して、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスによるアレモリカ諸部族の反乱の平定に間接的ながら貢献した。 なお、プブリウスが父のパルティア遠征に従軍するためにガリアを離れた後も、プブリウスの兄弟であったマルクスはクァエストル(財務官)としてガリアに残り、『ガリア戦記』によると、紀元前54年にルキウス・ムナティウス・プランクスやガイウス・トレボニウスと共に3個軍団を率いてベルガエ人の領地へ赴任した。同年にアンビオリクスによってクィントゥス・ティトゥリウス・サビヌス及びルキウス・アウルンクレイウス・コッタ率いるローマ軍団が壊滅した(アドゥアトゥカの戦い)後、アンビオリクスに呼応したネルウィ族の軍に陣営を攻撃されていたクィントゥス・トゥッリウス・キケロの救援にカエサル自身が向かうのに際して、重要な後方の兵站拠点であったサマロブリウァ(Samarobriva, 現:アミアン)の守備を任じられた。
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ガリア戦争
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「ガイウス・ユリウス・カエサル」の記事における「ガリア戦争」の解説
詳細は「ガリア戦争」を参照 紀元前58年、コンスルの任期を終えたカエサルは前執政官(プロコンスル)の資格で以てガリア・キサルピナ及びガリア・トランサルピナ等の属州総督に就任した。ヘルウェティイ族がローマ属州を通過したい旨の要求を拒否したことを皮切りに、ガリア人とのガリア戦争へ踏み出すこととなった。ヘルウェティイ族を抑えた後、ガリア人の依頼を受けてゲルマニア人のアリオウィストゥスとの戦いに勝ち、翌年にはガリアの北東部に住むベルガエ人諸部族を制圧した。 その間の紀元前56年にはルッカでポンペイウス、クラッススと会談を行い、紀元前55年にポンペイウスとクラッススが執政官に選出され、カエサルのガリア総督としての任期が5年延長されることが決定した。また、同年にゲルマニアに侵攻してゲルマニア人のガリア進出を退け、ライン川防衛線の端緒を築いた。紀元前55年及び54年の2度にわたってブリタンニア遠征も実施した。 最大の戦いは紀元前52年、アルウェルニ族の族長ウェルキンゲトリクスとの戦いであり、この時はほとんどのガリアの部族が敵対したが、カエサルはアレシアの戦いでこれを下した。これらの遠征により、カエサルはガリア全土をローマ属州とした。カエサルはガリア戦争の一連の経緯を『ガリア戦記』として著した。 カエサルはこの戦争でガリア人から多数の勝利を得、ローマでの名声を大いに高めた。彼は「新兵は新軍団を構成し、既設の軍団には新兵を補充しない」という方針を採ったため、長期間の遠征に従事した軍団は兵数が定員を割っていたが、代わりに統率の取れた精強な部隊になった。軍団兵には、ローマにではなくカエサル個人に対し、忠誠心を抱く者も多かったといわれる。これらのガリア征服を通して蓄えられた実力は、カエサルが内戦を引き起こす際の後ろ盾となったのみならず、ローマの元老院派のカエサルに対する警戒心をより強くさせ、元老院派の側からも内乱を誘発させかねない強硬策を取らせることとなった。
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ガリア戦争
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「セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前54年法務官)」の記事における「ガリア戦争」の解説
紀元前58年からのガリア戦争においては、属州総督ガイウス・ユリウス・カエサルの総督副官(レガトゥス)を任され、軍団長(レガトゥス・レギオニス)として第12軍団(Legio XII Fulminata)を指揮した。 紀元前57年には、アルプス山脈に登山道を開通させるために第12軍団とともに派遣され、レマン湖東方のナントゥアテス族・ウェラグリ族・セドゥニ族などのガリア人諸部族の領土を制圧して冬営した。ガルバが数日間、谷底のオクトドゥルス村に冬営していたところ、反旗を翻したウェラグリ族とセドゥニ族に包囲攻撃されて窮地に陥ったが、何とか撃退した(オクトドゥルスの戦い)。ガルバは目的を達することができずに、西方のアッロブロゲス族の領土まで撤退した。
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