騎兵指揮官
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「ネイサン・ベッドフォード・フォレスト」の記事における「騎兵指揮官」の解説
フォレストは1862年2月のドネルソン砦の戦いで頭角を現した。フォレストの騎兵隊が北軍の砲兵隊を捕捉し、続いてユリシーズ・グラント少将が指揮する包囲軍を突破した。フォレストは4,000名近い部隊を集合させこれを率いて川を渡った。数日後、ナッシュビルの陥落が差し迫ったときに、フォレストが防衛の指揮を執り、数百万ドルの価値がある軍需工場の重機械類と、政府要人の脱出を手引きした。 1ヵ月後、フォレストはシャイローの戦い(1862年4月6日-7日)に参加したが、南軍は破れ、撤退する南軍の殿を務めた。シャーマン将軍率いる先行偵察部隊に発見されたときに、フォレストは近くに他の部隊もない状況で、北軍の真っ只中で銃弾が尽きたため、サーベルを抜いて北軍の敵兵部隊を突破した。北軍の歩兵のライフルで脇腹を負傷し、フォレストはシャイローの戦いで最後に負傷した男と言われることになった。 初夏までに、フォレストは緑の騎兵連隊からなる新しい1個旅団を指揮した。7月、騎兵襲撃を掛けるという命令の下に、その部隊を連れてテネシー州中部に移動した。7月13日、その部隊は第一次マーフリーズバラの戦いに参戦し、フォレストがこの戦闘を勝利に導いたと言われている。 北軍指揮官の報告書では次のようになっている。 「 私の宿営地を攻撃した部隊はウォートン大佐の第1連隊テキサスレンジャーズ(第8テキサス騎兵隊、テリーのテキサスレンジャーズ)、モリソン大佐の第1ジョージアレンジャーズの1個大隊、および多数のラザフォード郡市民であり、その多くは最近アメリカ合衆国に対して忠誠を誓ったばかりだった。テキサスとジョージアの部隊には多くの黒人兵も配備されており、武器を持ち装備もしており、その日の我が軍との幾度かの戦闘に参加した。 」 フォレストはこの戦争中、滅多に騎兵戦で負けることは無かったが、上官であるテネシー軍指揮官ブラクストン・ブラッグとは折り合いが悪かった。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスとロバート・E・リー将軍は戦後に、南軍の作戦司令部はフォレストの才能を適切に使うことを誤った、と記している。 フォレストは1862年7月に准将に昇進し、南軍の騎兵旅団の指揮を任された。戦闘にあっては、攻撃的な戦術を採り、素早く騎兵を展開させ、しばしば馬を下りて戦わせた。基本的には敵の側面に回りこみ、後方との連携を遮断した。 1862年12月、フォレストの古参騎兵隊が、フォレストの抗議にも拘らず、ブラッグによって他の士官の指揮下に移された。フォレストは新しい約2,000名の新兵からなる旅団を集めなければならず、しかもその大半は武器も無かった。ブラッグは、今度はテネシー州西部に侵入し、ビックスバーグ市を脅かしているグラント指揮下の北軍通信線を遮断する任務を与えた。 フォレストは未熟な部隊を敵前線の背後に送ることは自殺行為だと抗議したが、ブラッグは譲らず、フォレストが命令に従った。その作戦で、フォレストは再びその優れた才能を示し、テネシー州西部の何千もの北軍兵を撹乱し「ガチョウの追いかけっこ」(得られぬものを追い求めること)をさせた。フォレストは所在を掴まれるほど1箇所に長く留まることは無く、遠く北のケンタッキー州南西部のオハイオ川岸まで襲撃し、出発した時よりも多くの兵士を連れてミシシッピ州の基地に戻ってきた。作戦前はろくに武装も揃っていなかった部隊は、鹵獲した北軍の武器で武装を整えていた。その結果、グラントはビックスバーグ方面作戦の戦略を修正し、かなり遅らせることを強いられた。 フォレストは1863年4月まで小規模の作戦で部隊を指揮し続けた。南軍は、北軍のアベル・ストレート大佐が指揮する30,000名の騎兵隊の攻撃に対処するため、フォレストをアラバマ州北部とジョージア州西部の奥地に派遣した。ストレートはテネシー州チャタヌーガの南にある南軍の鉄道を遮断し、ブラッグ率いる部隊の補給線を断ってジョージア州まで撤退させるという命令を受けていた。フォレストは16日間ストレート隊を追い続け、行く先々で散発的な攻撃をかけた。ストレートの部隊はフォレスト隊の攻撃への対処に拘束された。5月3日、フォレストはアラバマ州シーダーブラフの東でストレート隊に追いついた。フォレスト隊の方が少数だったが、部下の兵士に丘の頂上周りを繰り返し行進させて大部隊のように見せかけ、疲弊したストレート隊の1,700名を降伏させ、捕虜とした。 チカマウガの戦い(1863年9月18日-20日)では主力軍の一部を務めた。撤退する北軍を追撃し数百名を捕虜にした。ブラッグの指揮下にあった他の幾つかの戦闘と同様に、即座に攻撃を続行して数週間前に陥落していたチャタヌーガを奪い返すよう提案したが、ブラッグには採用されなかった。フォレストは憤り、殺すと恫喝するほどの激しい対立の後、フォレストは再びミシシッピ州における独立部隊の指揮を割り当てられた。フォレストは1863年12月4日に少将に昇進した。
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