シャイローの戦いとは? わかりやすく解説

シャイローの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/18 00:47 UTC 版)

シャイローの戦い(シャイローのたたかい、英:Battle of Shiloh、またはBattle of Pittsburg Landing)は、南北戦争初期の1862年4月6日から7日に、西部戦線テネシー州南西部で行われた大きな戦いである。アルバート・ジョンストン将軍とP・G・T・ボーリガード将軍が指揮する南軍が、ユリシーズ・グラント少将の指揮する北軍に急襲を掛け、敗北寸前まで追い込んだ。


  1. ^ a b c d Eicher, p. 222.
  2. ^ Cunningham, pp. 422-24.
  3. ^ Cunningham, p. 422.
  4. ^ Nevin, p. 104; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 128-?31, 141-42; Smith, pp. 173-79; Cunningham, pp. 72-74.
  5. ^ Smith, p. 179; Woodworth, Nothing but Victory, p. 136.
  6. ^ Smith, p. 185; Eicher, p. 223.
  7. ^ Daniel, p. 131. この教会は南部メソジスト監督教会によって1854年に建てられた。「シャイロー」(ヘブライ語でシロ)という名前は旧約聖書のサムエル記上から来ており、ヘブライ人が毎年巡礼する宗教的中心を表した。大まかに「平和」と訳されたが、戦闘後、ニューヨーク州出身のユダヤ人兵士がそれを「解放」と訳した。
  8. ^ Grant, pp. 211-12.
  9. ^ Daniel, p. 139; Nevin, p. 105.
  10. ^ Eicher, pp. 222, 230.
  11. ^ 戦闘中、通信文には定冠詞付きのミシシッピ(川の名前)軍とされていた。これは北軍のみが川の名前を軍隊の名前とした一般的な規則と逸脱していた。例えばNPS websiteを参照。またこれは時には西部の軍隊を指すときに使われた。この軍隊は1862年3月5日に始動し、11月にはブラクストン・ブラッグによってテネシー軍と改名された。en:Army of Mississippiの項を参照。
  12. ^ Eicher, p. 223.
  13. ^ Cunningham, pp. 93, 98-101, 120.
  14. ^ Daniel, pp. 127-28.
  15. ^ Cunningham, p. 125.
  16. ^ Daniel, pp. 119, 121-23; Cunningham, pp. 128-29, 137-40; Woodworth, Nothing but Victory, p. 108; Eicher, p. 223.
  17. ^ Woodworth, Nothing but Victory, pp. 150-54; Nevin, pp. 110-11; Eicher, p. 224; Daniel, pp. 141-42; Smith, p. 185; McPherson, p. 408.
  18. ^ Cunningham, p. 140.
  19. ^ Nevin, p. 113. Daniel, p. 145. Esposito, text for Map 34, では、ボーリガードとのこの配置を厳しく批判されたが、ジョンストンが、その部隊に多くの未経験な新兵を抱えており、前線で自ら気合いを入れる必要があったので正当化される。
  20. ^ Cunningham, p. 200.
  21. ^ Smith, p. 187; Esposito, map 34; Eicher pp. 224-26.
  22. ^ McPherson, p. 409.
  23. ^ Daniel, pp. 143-64; Eicher, p. 226; Esposito, map 34.
  24. ^ Daniel, p. 139; Cunningham, p. 133.
  25. ^ Daniel, pp. 143-64; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 164-66; Cunningham, pp. 157-58; Eicher, p. 226.
  26. ^ Woodworth, Grant's Lieutenants, p. 77; Cunningham, p. 339.
  27. ^ Woodworth, Grant's Lieutenants, p. 72-82; Daniel, pp. 256-61; Sword, pp. 439-40; Cunningham, pp. 338-39; Smith, p. 196.
  28. ^ Cunningham, pp. 241-42.
  29. ^ Cunningham, p. 298.
  30. ^ 歴史家達はホーネッツネストに対して南軍が集中させた大砲の数について意見の一致を見ていない。Cunningham, p. 290では51門としている。Daniel, p. 229は53門とした。Sword, p. 326, とEicher, p. 228では、戦場歴史家D・W・リードによって当初設定された伝統的な数字62門を報告した
  31. ^ Nevin, pp. 121-29, 136-39; Esposito, map 36; Daniel, pp. 207-14; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 179-85; Eicher, p. 227.
  32. ^ Cunningham, pp. 275-77.
  33. ^ この戦闘に対する伝統的な見方は、ジョンストンの死が戦いの一時停止を生み、南軍からその気運を奪い、戦闘における敗北に繋がったというものである。Sword, p. 310と Daniel, p. 235は共にこの見解を支持している。Cunningham, pp. 277-78は、そのような一時停止が南軍分裂の要因であるとし、ボーリガードが行動を起こさなかったことは要因ではなく、ボーリガードは戦場での配置の感覚は持っていたと主張した。
  34. ^ Nevin, pp. 121-29, 136.
  35. ^ Cunningham, p. 321では、はぐれ兵と非戦闘員の数は約15,000名と推計した。
  36. ^ Cunningham, p. 317.
  37. ^ ホーネッツネストと同様、大砲の数の推計値は大きく異なる。グラントはその自叙伝で、「20門かそれ以上」とした。Daniel, p. 246とGrimsley, p. 109は、41門とした。Sword, p. 356は、「少なくとも10門」とした。Cunningham, p. 307は、42門から100門以上という歴史的な数字を引用した。
  38. ^ Daniel, p. 265.
  39. ^ Cunningham, pp. 323-26.
  40. ^ Eicher, pp. 227-28; Daniel, pp. 235-37; Nevin, pp. 138-39.
  41. ^ Smith, p. 201; Sword, pp. 369-82.
  42. ^ Cunningham, p. 333.
  43. ^ Cunningham, pp. 340-41.
  44. ^ Cunningham, pp. 332-34.プレンティスは彼の捕獲者に笑って言った「貴方達は今日自分達のやりたいようにやった。しかし明日は違うだろう。ご存じのように、ビューエルが今夜グラントに合流して有効になり、明日の朝には我が方があなた方にテーブルを向けるだろう」
  45. ^ Nevin, p. 147; Daniel, pp. 252-56; Cunningham, pp. 323-26, 332; Sword, p. 378.
  46. ^ Daniel, pp. 265, 278.
  47. ^ Daniel, pp. 275-83.
  48. ^ Daniel, pp. 283-87.
  49. ^ Daniel, pp. 289-92.
  50. ^ Daniel, pp. 296-97; Sword, pp. 423-24.
  51. ^ Sword, pp. 425-26; Daniel, pp. 296-97; Cunningham, pp. 373-75. フォレストが1人の北軍兵士の襟を掴んで馬の上に引き上げ、楯の代わりに使ったという人気のある話は、おそらく作り話である。参考文献にこの話を含むものは無い。
  52. ^ Woodworth, Nothing but Victory, pp. 198-201; Smith, pp. 204-05; Cunningham, pp. 382-83.
  53. ^ Cunningham, pp. 384-96.
  54. ^ Eicher, p. 230; Cunningham, pp. 421-24.
  55. ^ Smith, p. 204.
  56. ^ List of battles参照。シャイローの戦いより損失が大きい8度の戦闘とは、ゲティスバーグの戦いチカマウガの戦いチャンセラーズヴィルの戦いスポットシルバニア・コートハウスの戦いアンティータムの戦い荒野の戦い第二次ブルランの戦いおよびストーンズリバーの戦いである。
  57. ^ McDonough, p. 1775.



シャイローの戦い

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オハイオ軍」の記事における「シャイローの戦い」の解説

軍司令官ビューエル少将 詳細は「en:Shiloh Union order of battle」を参照 軍団師団旅団軍団編成され第2師団アレクサンダー・マクック准将 第4旅団(6個連隊第5旅団(5個連隊第6旅団(4個連隊、1個砲兵中隊第4師団William "Bull" Nelson准将 第10旅団(3個連隊) 第19旅団(3個連隊) 第22旅団(3個連隊、1個騎兵連隊第5師団トマス・L・クリッテンデン准将 第11旅団(4個連隊第14旅団(3個連隊独立部隊(1個騎兵連隊、3個砲兵中隊第6師団Thomas J. Wood准将20旅団(4個連隊) 第21旅団(4個連隊) 他に、テネシー軍6個師団参戦

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シャイローの戦い

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テネシー軍」の記事における「シャイローの戦い」の解説

詳細は「シャイローの戦い」を参照 1862年2月14日、ドネルソン方面作戦中ではあったが、グラント新設された西テネシー軍管区司令官任命された。本来なら「西テネシー軍」と呼ばれるべきであったが、その後直ぐに彼の部隊は「テネシー軍」と呼ばれるようになったその後数カ月の間に、グラント2度わたって軍の指揮権を失う危機陥ったそのような展開になっていたら、間違いなくテネシー軍将来性質変えたであろうし、また後のグラント成功の源となったリーダーシップ継続」をも、奪ってしまうこととなったであろう3月初めグラントの上司でありミズーリ軍管区Department of the Missouri)の司令官であったヘンリー・ハレックは、北軍奪取したヘンリー砦からテネシー川遡る遠征隊をグラント率いるように命じたしかしながら3月4日には、遠征軍現場指揮権スミス移譲するようにグラント命じた。この命令ハレック嫉妬と、またハレックグラントとの間に管理上の問題有しており、グラント対す信頼持っていなかったことが原因であったスミス最初遠征隊を、川の東岸ヘンリー砦から約160kmの距離にあるテネシー州サバンナ向けたその後直ちに、分遣隊14km南の対岸にあるピッツバーグ・ランディングに進めた一方ハレック部隊拡大され、名称もミシシッピ軍管区Department of the Mississippi)と変更された。この際グラント現場指揮官復帰したが、これはおそらくエイブラハム・リンカーン大統領個人的な介入によると思われるグラント3月17日テネシー軍合流した4月始めまでに、グラントの軍は兵力50,000名に拡大しており、6個師団隷下においていた。新たに加わった3個師団師団長は、スティーブン・ハールバット(Stephen A. Hurlbut)准将第4師団)、ウィリアム・シャーマン准将第5師団)、ベンジャミン・M・プレンティス准将第6師団であったまた、スミス脚の負傷衰弱していたため、W・H・L・ウォレス第2師団長を引き継いだ4月6日から7日にかけて、グラント戦争それまで時点最大出血となった、シャイローの戦いを戦った南軍部隊は、ミシシッピ州コリンスからほとんど探知されことなく前進し、ピッツバーグ・ランディングにあったテネシー軍の5個師団攻撃をかけてきた。戦い初日奇襲を受け、また塹壕にも入っていなかった北軍は、死に物狂い戦ったが、多く損害出したしかしながら待ち望まれていたドン・カルロス・ビューエル率いオハイオ軍隷下の部隊が、その日遅くはいくつ到着し、また他の部隊夜中から翌日にかけて到着してグラントの軍を補強した。さらに夕方には、ピッツバーグ・ランディングからは離れたクランプス・ランディングにあった、ルー・ウオーレスの第3師団到着したビューエルウォーレス部隊強化されたため、グラント4月7日反撃開始し南軍駆逐、コリンスへ押し戻した。ある歴史家は「グラントシャイローでの勝利は、血まみれでまた苦いものであったが、南軍ミシシッピ渓谷から撤退することを運命づけた」と記している 。しかし短期的には、グラント準備怠っていたことに対す批判シャーマン急速な少将への昇進ミシシッピ州プレンティスの占領第2師団長のウオレス瀕死の重傷グラントルー・ウォーレス対す信頼低下、といった結果もたらした加えて4月後半には脚の負傷戦傷ではない)の合併症スミス死亡した

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