シャイローの戦い
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シャイローの戦い(シャイローのたたかい、英:Battle of Shiloh、またはBattle of Pittsburg Landing)は、南北戦争初期の1862年4月6日から7日に、西部戦線テネシー州南西部で行われた大きな戦いである。アルバート・ジョンストン将軍とP・G・T・ボーリガード将軍が指揮する南軍が、ユリシーズ・グラント少将の指揮する北軍に急襲を掛け、敗北寸前まで追い込んだ。
- ^ a b c d Eicher, p. 222.
- ^ Cunningham, pp. 422-24.
- ^ Cunningham, p. 422.
- ^ Nevin, p. 104; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 128-?31, 141-42; Smith, pp. 173-79; Cunningham, pp. 72-74.
- ^ Smith, p. 179; Woodworth, Nothing but Victory, p. 136.
- ^ Smith, p. 185; Eicher, p. 223.
- ^ Daniel, p. 131. この教会は南部メソジスト監督教会によって1854年に建てられた。「シャイロー」(ヘブライ語でシロ)という名前は旧約聖書のサムエル記上から来ており、ヘブライ人が毎年巡礼する宗教的中心を表した。大まかに「平和」と訳されたが、戦闘後、ニューヨーク州出身のユダヤ人兵士がそれを「解放」と訳した。
- ^ Grant, pp. 211-12.
- ^ Daniel, p. 139; Nevin, p. 105.
- ^ Eicher, pp. 222, 230.
- ^ 戦闘中、通信文には定冠詞付きのミシシッピ(川の名前)軍とされていた。これは北軍のみが川の名前を軍隊の名前とした一般的な規則と逸脱していた。例えばNPS websiteを参照。またこれは時には西部の軍隊を指すときに使われた。この軍隊は1862年3月5日に始動し、11月にはブラクストン・ブラッグによってテネシー軍と改名された。en:Army of Mississippiの項を参照。
- ^ Eicher, p. 223.
- ^ Cunningham, pp. 93, 98-101, 120.
- ^ Daniel, pp. 127-28.
- ^ Cunningham, p. 125.
- ^ Daniel, pp. 119, 121-23; Cunningham, pp. 128-29, 137-40; Woodworth, Nothing but Victory, p. 108; Eicher, p. 223.
- ^ Woodworth, Nothing but Victory, pp. 150-54; Nevin, pp. 110-11; Eicher, p. 224; Daniel, pp. 141-42; Smith, p. 185; McPherson, p. 408.
- ^ Cunningham, p. 140.
- ^ Nevin, p. 113. Daniel, p. 145. Esposito, text for Map 34, では、ボーリガードとのこの配置を厳しく批判されたが、ジョンストンが、その部隊に多くの未経験な新兵を抱えており、前線で自ら気合いを入れる必要があったので正当化される。
- ^ Cunningham, p. 200.
- ^ Smith, p. 187; Esposito, map 34; Eicher pp. 224-26.
- ^ McPherson, p. 409.
- ^ Daniel, pp. 143-64; Eicher, p. 226; Esposito, map 34.
- ^ Daniel, p. 139; Cunningham, p. 133.
- ^ Daniel, pp. 143-64; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 164-66; Cunningham, pp. 157-58; Eicher, p. 226.
- ^ Woodworth, Grant's Lieutenants, p. 77; Cunningham, p. 339.
- ^ Woodworth, Grant's Lieutenants, p. 72-82; Daniel, pp. 256-61; Sword, pp. 439-40; Cunningham, pp. 338-39; Smith, p. 196.
- ^ Cunningham, pp. 241-42.
- ^ Cunningham, p. 298.
- ^ 歴史家達はホーネッツネストに対して南軍が集中させた大砲の数について意見の一致を見ていない。Cunningham, p. 290では51門としている。Daniel, p. 229は53門とした。Sword, p. 326, とEicher, p. 228では、戦場歴史家D・W・リードによって当初設定された伝統的な数字62門を報告した
- ^ Nevin, pp. 121-29, 136-39; Esposito, map 36; Daniel, pp. 207-14; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 179-85; Eicher, p. 227.
- ^ Cunningham, pp. 275-77.
- ^ この戦闘に対する伝統的な見方は、ジョンストンの死が戦いの一時停止を生み、南軍からその気運を奪い、戦闘における敗北に繋がったというものである。Sword, p. 310と Daniel, p. 235は共にこの見解を支持している。Cunningham, pp. 277-78は、そのような一時停止が南軍分裂の要因であるとし、ボーリガードが行動を起こさなかったことは要因ではなく、ボーリガードは戦場での配置の感覚は持っていたと主張した。
- ^ Nevin, pp. 121-29, 136.
- ^ Cunningham, p. 321では、はぐれ兵と非戦闘員の数は約15,000名と推計した。
- ^ Cunningham, p. 317.
- ^ ホーネッツネストと同様、大砲の数の推計値は大きく異なる。グラントはその自叙伝で、「20門かそれ以上」とした。Daniel, p. 246とGrimsley, p. 109は、41門とした。Sword, p. 356は、「少なくとも10門」とした。Cunningham, p. 307は、42門から100門以上という歴史的な数字を引用した。
- ^ Daniel, p. 265.
- ^ Cunningham, pp. 323-26.
- ^ Eicher, pp. 227-28; Daniel, pp. 235-37; Nevin, pp. 138-39.
- ^ Smith, p. 201; Sword, pp. 369-82.
- ^ Cunningham, p. 333.
- ^ Cunningham, pp. 340-41.
- ^ Cunningham, pp. 332-34.プレンティスは彼の捕獲者に笑って言った「貴方達は今日自分達のやりたいようにやった。しかし明日は違うだろう。ご存じのように、ビューエルが今夜グラントに合流して有効になり、明日の朝には我が方があなた方にテーブルを向けるだろう」
- ^ Nevin, p. 147; Daniel, pp. 252-56; Cunningham, pp. 323-26, 332; Sword, p. 378.
- ^ Daniel, pp. 265, 278.
- ^ Daniel, pp. 275-83.
- ^ Daniel, pp. 283-87.
- ^ Daniel, pp. 289-92.
- ^ Daniel, pp. 296-97; Sword, pp. 423-24.
- ^ Sword, pp. 425-26; Daniel, pp. 296-97; Cunningham, pp. 373-75. フォレストが1人の北軍兵士の襟を掴んで馬の上に引き上げ、楯の代わりに使ったという人気のある話は、おそらく作り話である。参考文献にこの話を含むものは無い。
- ^ Woodworth, Nothing but Victory, pp. 198-201; Smith, pp. 204-05; Cunningham, pp. 382-83.
- ^ Cunningham, pp. 384-96.
- ^ Eicher, p. 230; Cunningham, pp. 421-24.
- ^ Smith, p. 204.
- ^ List of battles参照。シャイローの戦いより損失が大きい8度の戦闘とは、ゲティスバーグの戦い、チカマウガの戦い、チャンセラーズヴィルの戦い、 スポットシルバニア・コートハウスの戦い、アンティータムの戦い、荒野の戦い、第二次ブルランの戦いおよびストーンズリバーの戦いである。
- ^ McDonough, p. 1775.
シャイローの戦い
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軍司令官:ビューエル少将 詳細は「en:Shiloh Union order of battle」を参照 軍団師団旅団軍団編成されず 第2師団アレクサンダー・マクック准将 第4旅団(6個連隊) 第5旅団(5個連隊) 第6旅団(4個連隊、1個砲兵中隊) 第4師団William "Bull" Nelson准将 第10旅団(3個連隊) 第19旅団(3個連隊) 第22旅団(3個連隊、1個騎兵連隊) 第5師団トマス・L・クリッテンデン准将 第11旅団(4個連隊) 第14旅団(3個連隊) 独立部隊(1個騎兵連隊、3個砲兵中隊) 第6師団Thomas J. Wood准将 第20旅団(4個連隊) 第21旅団(4個連隊) 他に、テネシー軍6個師団が参戦。
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シャイローの戦い
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詳細は「シャイローの戦い」を参照 1862年2月14日、ドネルソン方面作戦中ではあったが、グラントは新設された西テネシー軍管区の司令官に任命された。本来なら「西テネシー軍」と呼ばれるべきであったが、その後直ぐに彼の部隊は「テネシー軍」と呼ばれるようになった。その後の数カ月の間に、グラントは2度にわたって軍の指揮権を失う危機に陥った。そのような展開になっていたら、間違いなくテネシー軍の将来や性質を変えたであろうし、また後のグラントの成功の源となった「リーダーシップの継続」をも、奪ってしまうこととなったであろう。 3月初め、グラントの上司でありミズーリ軍管区(Department of the Missouri)の司令官であったヘンリー・ハレックは、北軍が奪取したヘンリー砦からテネシー川を遡る遠征隊をグラントが率いるように命じた。しかしながら3月4日には、遠征軍の現場指揮権をスミスに移譲するようにグラントに命じた。この命令はハレックの嫉妬と、またハレックがグラントとの間に管理上の問題を有しており、グラントに対する信頼を持っていなかったことが原因であった。スミスは最初遠征隊を、川の東岸でヘンリー砦から約160kmの距離にあるテネシー州サバンナに向けた。その後直ちに、分遣隊14km南の対岸にあるピッツバーグ・ランディングに進めた。一方、ハレックの部隊は拡大され、名称もミシシッピ軍管区(Department of the Mississippi)と変更された。この際にグラントは現場指揮官に復帰したが、これはおそらくエイブラハム・リンカーン大統領の個人的な介入によると思われる。グラントは3月17日にテネシー軍と合流した。4月始めまでに、グラントの軍は兵力約50,000名に拡大しており、6個師団を隷下においていた。新たに加わった3個師団の師団長は、スティーブン・ハールバット(Stephen A. Hurlbut)准将(第4師団)、ウィリアム・シャーマン准将(第5師団)、ベンジャミン・M・プレンティス准将(第6師団)であった。また、スミスが脚の負傷で衰弱していたため、W・H・L・ウォレスが第2師団長を引き継いだ。 4月6日から7日にかけて、グラントは戦争のそれまでの時点で最大の出血となった、シャイローの戦いを戦った。南軍の部隊は、ミシシッピ州コリンスからほとんど探知されることなく前進し、ピッツバーグ・ランディングにあったテネシー軍の5個師団に攻撃をかけてきた。戦いの初日、奇襲を受け、また塹壕にも入っていなかった北軍は、死に物狂いに戦ったが、多くの損害を出した。しかしながら、待ち望まれていたドン・カルロス・ビューエルの率いるオハイオ軍隷下の部隊が、その日の遅くにはいくつか到着し、また他の部隊も夜中から翌日にかけて到着して、グラントの軍を補強した。さらに夕方には、ピッツバーグ・ランディングからは離れたクランプス・ランディングにあった、ルー・ウオーレスの第3師団が到着した。ビューエルとウォーレスの部隊で強化されたため、グラントは4月7日に反撃を開始し、南軍を駆逐、コリンスへ押し戻した。ある歴史家は「グラントのシャイローでの勝利は、血まみれでまた苦いものであったが、南軍がミシシッピ渓谷から撤退することを運命づけた」と記している 。しかし短期的には、グラントが準備を怠っていたことに対する批判、シャーマンの急速な少将への昇進、ミシシッピ州プレンティスの占領、第2師団長のウオレスの瀕死の重傷、グラントのルー・ウォーレスに対する信頼の低下、といった結果をもたらした。加えて、4月後半には脚の負傷(戦傷ではない)の合併症でスミスが死亡した。
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