モーガンの襲撃
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モーガンの襲撃(モーガンのしゅうげき、英: Morgan's Raid)は、アメリカ南北戦争の中盤に南軍の騎兵隊が北部のインディアナ州やオハイオ州まで侵入して大きな注目を集めた事件である。この襲撃は1863年6月11日から7月26日に起こり、南軍の指揮官ジョン・ハント・モーガン准将の名前を付けられている。
- ^ Official Records
- ^ Kelsey, page 323; Official Records.
- ^ Mosgrove account in SHSP
- ^ a b Ohio Historical Society
- ^ Harper, page 23.
- ^ Duke, page 460.
- ^ Indiana's John Hunt Morgan Heritage Trail Archived 2005年7月26日, at the Wayback Machine.
- ^ Ohio's plans for a Morgan trail
- ^ Morgan's Men Association; Photo of dedication of Morgan monument
- 1 モーガンの襲撃とは
- 2 モーガンの襲撃の概要
- 3 オハイオ
- 4 襲撃による成果
- 5 関連項目
モーガンの襲撃
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「インディアナ州の歴史」の記事における「モーガンの襲撃」の解説
詳細は「モーガンの襲撃」を参照 インディアナ州内で唯一起こった南北戦争の戦闘はジョン・ハント・モーガンの襲撃だった。1863年7月9日、モーガンがその2,400名の騎兵を率いてオハイオ川を越えインディアナ州内に入ろうとした。この渡河で簡単な抵抗に遭った後、北のコリドンに進軍し、短時間のコリドンの戦いでハリソン郡の部隊と交戦し、その後民兵隊は町の中に撤退した。モーガンはコリドン南の高地を占領してそこから砲弾を2発町に撃ち込むと、町は直ぐに降伏した。この戦闘で5名が戦死し、40名が負傷、355名が捕虜となった。 モーガンの主力部隊はその夜、ニューサリスベリーを襲撃してそこで宿営し、一方分遣隊はクランデル、パルミラとその周辺部を襲撃し略奪した。モーガンは北方への進軍を再開し、セイラムの町の大半を破壊した。首都は恐怖に包まれ、そこで民兵隊が創られてモーガンの進軍に対抗しようとした。しかし、モーガンはセイラムの後で東に転じ、その道沿いで襲撃を行いながら、7月13日にウェストハリソンを通ってインディアナ州から出て行った。かくしてインディアナ州で唯一の軍事的対決は終わった。
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