レッド川方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/29 00:39 UTC 版)
レッド川方面作戦(レッドかわほうめんさくせん、英:Red River Campaign、あるいはレッド川遠征、英:Red River Expedition)は、南北戦争中の1864年3月10日から5月22日にルイジアナ州のレッド川沿いで戦われた一連の戦闘である。この作戦は北軍の先手で始まり、北軍はナサニエル・バンクス少将の30,000名の部隊、南軍はリチャード・テイラーの6,000名から12,000名の部隊の間で争われた。
|
- ^ Hollandsworth, page 180. The quotes come from the official Government Records of the Civil War, titled War of the Rebellion, A Compilation of the Official Records of the Union and Confederate ArmiesVolume 34, pt. 2-494, 610-611, Washington, D.C., Government Printing Office, 1880-1901.
- ^ Don D. Worth. “Camp Ford, Texas”. 2007年12月8日閲覧。
- 1 レッド川方面作戦とは
- 2 レッド川方面作戦の概要
- 3 戦闘
- 4 カービー・スミスが南軍を割る
- 5 バンクス軍の撤退
- 6 結果
レッド川方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/05 03:27 UTC 版)
「ナサニエル・バンクス」の記事における「レッド川方面作戦」の解説
レッド川方面作戦(1864年3月-5月)はバンクスの上官であるグラントが戦略的陽動と考えたものであり、1864年春の一連の協働攻勢作戦の一部として、バンクスには東に侵攻してアラバマ州モービルの占領を望んだ。バンクス自身はその作戦に同意できず、その代わりにガルベストンの占領を望んだが、参謀総長ヘンリー・ハレックから行動の命令が来た。ハレックの作戦はリンカーン内閣に承認されており、バンクスは職務上嫌々ながらそれに従った。 バンクス軍は南軍リチャード・テイラー(元大統領ザカリー・テイラーの息子)のためにマンスフィールドの戦いで大敗を喫し、20マイル (32 km)後退して翌日はプレザントヒルの戦いで踏みとどまった。バンクス軍はアレクサンドリアまでの後退を続け、そこで北軍内陸艦隊の一部と再結集した。デイビッド・ディクソン・ポーター指揮する海軍は南部の綿花を金になる戦利品として取るためにレッド川方面作戦に加わり、バンクスは金持ちの投機家に綿花を集めるために従軍を許していた。この混成部隊にアーカンソー州から陸路を辿れなかった共同軍が加わり、ウィリアム・シャーマンに属する2つの軍団は半ば独立した行動を採り、またこの軍隊が頼る川の水面は危険なくらい低かった。 バンクスはその後退を続けるためにポーターの艦隊に頼ったが、ポーターの艦隊は低水位のためにアレクサンドリアの滝以上は進めなかった。バンクスはジョセフ・ベイリーの提案した計画を承認し、水路に残された僅かな水を上げる手段として突堤を造ることにした。10日間に放火を浴びる1万名の兵士が2つの堤を造り、なんとかポーターの艦隊とバンクス軍を救出した。 この方面作戦の後、シャーマン将軍はそのアトランタに対する作戦を開始する直前だったが、シャーマンはレッド川方面作戦のことを「初めから最後まで最悪のしくじり」と呼んだ。 バンクスはレッド川方面作戦の後で指揮官から外された。 南軍は戦争の残り期間レッド川を保持し続けた。その部隊はロバート・E・リーがバージニア州アポマトックス・コートハウスで休戦を求めたその2ヵ月後、1865年6月に最終的に降伏した。
※この「レッド川方面作戦」の解説は、「ナサニエル・バンクス」の解説の一部です。
「レッド川方面作戦」を含む「ナサニエル・バンクス」の記事については、「ナサニエル・バンクス」の概要を参照ください。
レッド川方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 14:02 UTC 版)
「ジェンキンスフェリーの戦い」の記事における「レッド川方面作戦」の解説
1864年3月、ナサニエル・バンクス少将指揮下のルイジアナ州にいた北軍陸軍と、デイビッド・ディクソン・ポーター少将が率いたミシシッピ川で活動する海軍が、レッド川方面作戦を始めた。この作戦の直接の目的は、南軍ミシシッピ圏方面軍指揮官のエドマンド・カービー・スミス将軍の作戦本部であるルイジアナ州シュリーブポートを占領することだった。シュリーブポートはアメリカ連合国ルイジアナ州の暫定州都でもあり、主要物資補給地かつテキサス州への入り口でもあった。この作戦の二次的な目的は、北部州で不足していた綿花を手に入れることであり、それによって川沿いの農園主から北軍に対する忠誠心を得ることだった。この行動はルイジアナ州におけるレコンストラクションを展開できるとも考えられた。この作戦を考えた北軍総司令官のヘンリー・ハレック少将は、北軍によるテキサス占領への道を開き、フランス軍がメキシコから侵略して来られないようにすることを望んでいた。フランスは1863年6月にメキシコを侵略して占領しており、傀儡皇帝マクシミリアン皇帝の下に政府を作り上げていた。 エイブラハム・リンカーン大統領がレッド川方面作戦を承認した後に、ユリシーズ・グラントが中将と総司令官に昇進し、グラントはこの作戦を止められないと感じた。グラントはウィリアム・シャーマン少将が北ジョージアからアトランタに軍隊を繰り出すときの支援のために、この作戦に宛てる1万名の部隊を使おうと思ったので、作戦の実行を急がせようとした。グラントはまた、南軍の強固な砦であるアラバマ州モービルを攻撃することで南軍を釘付けにしてしまおうとも考えた。 バンクス将軍はこの方面作戦のためにニューオーリンズ市近くで少なくとも2万名の部隊を利用できた。ミシシッピ州ヴィックスバーグにいるシャーマンの軍隊からは、アンドリュー・J・スミス准将の指揮下に1万名の部隊が加わることになっていた。スミスの部隊はレッド川を遡るポーターの戦隊を伴ってきた。最初にその部隊はドラッシー砦を確保し、レッド川への道を開いた。フレデリック・スティール少将も、北のアーカンソー州リトルロック、フォートスミス、パインブラフの基地からシュリーブポートに対するバンクスを支援するために、14,000名の部隊を動かしてくることが期待された。
※この「レッド川方面作戦」の解説は、「ジェンキンスフェリーの戦い」の解説の一部です。
「レッド川方面作戦」を含む「ジェンキンスフェリーの戦い」の記事については、「ジェンキンスフェリーの戦い」の概要を参照ください。
レッド川方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 23:00 UTC 版)
「第19軍団 (北軍)」の記事における「レッド川方面作戦」の解説
1864年春、第19軍団はウィリアム・B・フランクリンを軍団長とし、悲惨な結果に終わったバンクスのレッド川方面作戦を開始した。フランクリンはマンスフィールドの戦いで負傷した。この失敗が目立ったため、第19軍団の内2個師団は、ウィリアム・エモリー(William H. Emory)に率いられて、ジュバル・アーリーと戦うフィリップ・シェリダンを支援するために、バージニア州のシェナンドー渓谷に送られた(1864年のバレー方面作戦を参照のこと)。これらの師団は、シェリダンの作戦における大きな戦闘には全て参加し、特にオペクォンの戦いでは戦死・戦傷2,000人の損害を出した(多くがクヴィア・グルーバー(Cuvier Grover)の師団の兵士であった)。
※この「レッド川方面作戦」の解説は、「第19軍団 (北軍)」の解説の一部です。
「レッド川方面作戦」を含む「第19軍団 (北軍)」の記事については、「第19軍団 (北軍)」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- レッド川方面作戦のページへのリンク