カロライナ方面作戦
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カロライナ方面作戦(カロライナほうめんさくせん、英:Carolinas Campaign)は、南北戦争の終盤1865年初めの、西部戦線最後の方面作戦だった[1]。1865年1月北軍ウィリアム・シャーマン少将はジョージア州サバンナから北上し、両カロライナ州を通ってバージニア州の北軍との合流を目指した。3月のベントンビルの戦いでジョセフ・ジョンストン将軍の南軍が敗北し、4月に降伏したことで、南軍の最後の戦力が消失したことを意味した。
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- 1 カロライナ方面作戦とは
- 2 カロライナ方面作戦の概要
- 3 戦いの後
カロライナ方面作戦
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「ジョージア軍 (北軍)」の記事における「カロライナ方面作戦」の解説
軍司令官:スローカム少将 詳細は「en:Carolinas Campaign Union order of battle」を参照 軍団師団旅団第14軍団Jefferson C. Davis少将 第1師団Charles C. Walcutt准将 第1旅団(6個連隊) 第2旅団(3個連隊) 第3旅団(4個連隊) 第2師団James D. Morgan准将 第1旅団(5個連隊) 第2旅団(6個連隊) 第3旅団(6個連隊) 第3師団Absalom Baird少将 第1旅団(7個連隊) 第2旅団(5個連隊) 第3旅団(4個連隊) 砲兵部隊(4個砲兵中隊) 第20軍団アルフェウス・ウィリアムズ少将Joseph A. Mower少将 第1師団Nathaniel J. Jackson准将アルフェウス・ウィリアムズ少将 第1旅団(4個連隊) 第2旅団(5個連隊) 第3旅団(5個連隊) 第2師団ジョン・ギアリー少将 第1旅団(5個連隊) 第2旅団(5個連隊) 第3旅団(6個連隊) 第3師団William Thomas Ward少将 第1旅団(5個連隊) 第2旅団(4個連隊) 第3旅団(6個連隊) 砲兵部隊(4個砲兵中隊) 他にテネシー軍(2個軍団)及びオハイオ軍(2個軍団)が参加。
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カロライナ方面作戦
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詳細は「カロライナ方面作戦」を参照 1865年2月1日、サバンナに約1ヶ月留まった後に、シャーマンは再び軍を動かし破壊的な進軍を開始した。今回は北に向かって南北カロライナ州を通過し、最終的な目的はバージニアのグラントと合流することであった。ハワードのテネシー軍はその右翼を務め、再びローガンが指揮を執る第15軍団と、ブレアの第17軍団で構成されていた。左翼はスローカムのジョージア軍が務めた。サウスカロライナ州での南軍の抵抗はほとんど無く、シャーマンは合衆国から最初に脱退した州を徹底的に破壊した。(シャーマンは3月初めにはサウスカロライナを通過し終えたが、ある兵士はサウスカロライナは「今や正しさを回復した」と述べている。)ノースカロライナ州では、シャーマンとアトランタ方面作戦で戦ったジョンストンが、激しく抵抗した。シャーマンにとって最後の大きな戦闘となった3月中旬のベントンビルの戦いは、ほとんどがスローカムのジョージア軍によって戦われた。敗北したジョンストンは北西に向かって脱出し、シャーマンはゴールズバラで、グラントの命令に従ってテネシーから東進してきたジョン・スコフィールドの部隊と会合した。テネシー軍は50日間でサバンナからゴールズバラまでの約450マイルを進軍し、もはやバージニアのグラントとの合流を妨げるものは無いものと思われた。シャーマンは後にこの作戦を「かつて文明国に組織化された軍が実施した最も長く、かつ重要な進軍の一つ」と記している。シャーマンの急速な前進を観察して、ジョー・ジョンストンは「ジュリアス・シーザーの時代以来、このような軍はなかった」と結論づけている。
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カロライナ方面作戦 (1865年2月-3月)
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「西部戦線 (南北戦争)」の記事における「カロライナ方面作戦 (1865年2月-3月)」の解説
詳細は「カロライナ方面作戦」を参照 シャーマンがサバンナを占領した後、グラントの命令で、その軍を船に乗せてバージニアの北軍の支援に回るように言ってきた。グラントはロバート・E・リー将軍に対してピーターズバーグの包囲戦で行き詰まっていた。シャーマンは別の戦略を提案した。バージニアに行く代わりに両カロライナ州を進軍し、ジョージア州で海への行軍をしたときと同じように途中にある軍事的価値があるもの全てを破壊していくことだった。サウスカロライナ州は最初にアメリカ合衆国から脱退を宣言した州であり、そこを侵すことで南部の士気に与える影響を考えれば、特に重要な目標になった。 シャーマンの作戦では、オーガスタやチャールストンに結集している小さな南軍部隊は迂回し、1865年3月15日までにゴールズバラに到着することを目指した。ジョージアの時と同様に複数の部隊に別れて同時に行軍し、散開した南軍の守備兵を混乱させた。この時点での最初の目標はサウスカロライナ州の州都コロンビアであった。シャーマン軍は再びジョセフ・ジョンストンの指揮する小さくぼろぼろになったテネシー軍と対峙した。 2月17日、コロンビア市が降伏した。町は大火となり、中心部の大半が破壊された。コロンビア市の消失はその後の論争を引き起こした。火事は事故によると言う者がおれば、報復のために図られた行為と言う者もいる。同じ日に南軍はチャールストンも明け渡した。2月18日、シャーマン軍はコロンビア市にある軍事的価値があるもの全てを破壊し尽くした。南軍の最後の重要な海港ウィルミントンは2月22日に降伏した。 ジョンストンの最後の抵抗は3月19日から21日にかけてのベントンビルの戦いであった。ジョンストンは北軍がゴールズバラに到着する前にスローカムの受け持つ一翼を破ろうとして失敗した。シャーマンはジョンストンをローリーに追った。 4月18日、リンカーンの暗殺から3日後に、ジョンストンはダーラム駅近くの農家、ベネット・プレースでシャーマンとの休戦条約に署名した。シャーマンは、グラント将軍やアメリカ合衆国政府からの承認無しに、政治から軍事までの降伏条件をジョンストンに提示したことで、政治的な問題に巻き込まれた。この問題による混乱は4月26日まで続いた。この日、ジョンストンは純粋に軍事的条件に同意し、正式にジョンストン軍と両カロライナ、ジョージアおよびフロリダの南軍全てが降伏した。これはその月では2番目の重要な降伏だった。4月9日、ロバート・E・リー将軍の北バージニアがアポマトックスでポトマック軍に降伏していた。まだ小さな抵抗勢力は特にテネシーやミシシッピに夏まで残っていたが、実質的な南軍の敗北であった。
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