背景と対戦した戦力
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「シャイローの戦い」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説
南軍は1862年2月にヘンリー砦とドネルソン砦を失った後で、アルバート・ジョンストン将軍はその軍を再編するためにテネシー州西部、ミシシッピ州北部およびアラバマ州に退いた。3月初め、これに反応した北軍の西部戦線司令官ヘンリー・ハレック少将は、グラントとその西テネシー軍(この戦闘後間もなく、そのより有名な名前であるテネシー軍と呼ばれる)にテネシー川を上って侵略するよう命じた(ハレックはグラントに対する職業的また個人的な敵意のために、当初グラントの部下であるチャールズ・F・スミス少将にその遠征を率いさせ、グラントはヘンリー砦で待機しているはずだった。エイブラハム・リンカーン大統領が干渉し、またスミスが負傷したので、グラントが全軍指揮に戻った)。グラントがハレックから受けた命令では、ナッシュビルから進軍してくるビューエルのオハイオ軍と合流し、南に進んで南軍の生命線であるミシシッピ川流域、テネシー州メンフィスおよびバージニア州リッチモンドを結ぶメンフィス・アンド・チャールストン鉄道を掴むための協働攻撃を掛けるというものだった。 Maj. Gen.ユリシーズ・グラント、北軍 Maj. Gen.ドン・カルロス・ビューエル、北軍 Gen.アルバート・ジョンストン、南軍 Gen.P・G・T・ボーリガード、南軍 グラント軍は6個師団からなる総勢48,894名だった。師団指揮官はジョン・A・マクラーナンドとルー・ウォーレス各少将、W・H・L・ウォレス、スティーブン・A・ハールバット、ウィリアム・シャーマンおよびベンジャミン・M・プレンティス各准将だった。師団のうち5個師団はテネシー川西の尾根に宿営した。グラントはこの戦争の間、敵の作戦よりも自分の作戦に強い関心があるという評判が出来ていた。ピッツバーグ・ランディングにあるその宿営は、そのような関心の欠如を最も象徴するものを示していた。その部隊は野営の形に、多くはシャイロー(ヘブライ語で「平和の場所」の意味)という木製の小さな教会の周りで拡がり、ビューエル軍を待ちながら多くの未熟な兵士に訓練を施して時を過ごし、塹壕やその他防御のための手段に気付いてもいない様子だった。グラントはその自叙伝で、塹壕に考えが及ばないことに対する批判に答えて、「この他に、私、士官および兵士の軍隊はピック、ショベルおよび斧で経験するよりも多くの訓練・演習を必要とした。...これら全ての状況の下で私は演習や訓練が防塞化の作業よりも兵士に有益であると結論づけた。」ルー・ウォーレスの師団は5マイル (8 km)下流(北方)のクランプズ・ランディングにおり、南軍が川向きの砲台を設置することを妨害し、ベスル駅で鉄道線を攻撃することを意図した配置だった。 ビューエル軍の総勢は17,918名であり戦闘の夜にはシャイローへの長い行程にあった。その4個師団はアレクサンダー・マクック、ウィリアム・"ブル"・ネルソン、トマス・L・クリッテンデンおよびトマス・J・ウッド各准将が率いた。 南軍側では、ジョンストンがその新しく結成した軍隊をミシシッピ軍と名付けた。ジョンストンはグラントの陣地から約20マイル (30 km)南西のミシシッピ州コリンス周辺におよそ55,000名の部隊を集結させた。この中で、44,699名が4月3日にコリンスを発ち、ビューエル軍が参入する前にグラント軍を急襲することを期待していた。この軍隊は大きく4個軍団に編成された。指揮官は以下の通りだった。 レオニダス・ポーク少将指揮、チャールズ・クラークとベンジャミン・F・チーザム各准将の師団 ブラクストン・ブラッグ少将指揮、ダニエル・ラッグルズとジョーンズ・M・ウィザーズ各准将の師団 ウィリアム・J・ハーディ少将指揮、トマス・C・ヒンドマン、パトリック・クリバーンおよびスターリング・A・M・ウッド各准将の師団 ジョン・ブレッキンリッジ准将指揮、予備隊、ロバート・トラビューとウィンフィールド・S・ストラザム各大佐とジョン・S・ボウェン准将の旅団、および付設騎兵隊 戦闘の前夜、グラント軍とジョンストン軍はほぼ拮抗する勢力だったが、南軍は散弾銃、古い型の滑腔マスケット銃、さらにはヤリまであるという古い武器で装備しているに過ぎなかった。彼らはほとんど戦闘の経験も無いままに戦場に到着した。ペンサコーラやモービルから来たブラクストン・ブラッグの兵士が最も訓練されていた。グラント軍にはドネルソン砦で戦闘を経験した歩兵連隊が62個のうち32個あった。その砲兵隊の半分や騎兵隊の大半は戦闘の古参兵だった。 ジョンストン軍の副司令はボーリガードだった。ボーリガードはグラント軍を攻撃しないよう奨めた。行軍の音や南軍兵が2日続きの雨の後でライフルを試射する音が、急襲の価値を下げるのではないかと心配した。ジョンストンはボーリガードの忠告を拒み、「敵が100万でも攻撃」すると伝えた。ボーリガードの根拠のある心配にも拘わらず、北軍は南軍が近付いている音を聞き取ることが無く、3マイル (5 km)離れた敵の宿営地の動きを何の気もなく気付かないままだった。 明日の戦闘では武器の使い方を知っている我々と同じ血の西部の男達と戦うことになる。戦いは捨て身のものになるだろう。 P・G・T・ボーリガード ジョンストンの作戦はグラント軍の左翼を襲い、北軍の陸軍とテネシー川の砲艦の支援(さらに退却路)とを分離し、西のスネーク・クリークやオウル・クリークの沼地に追い込んで、そこで全滅させるというものだった。ジョンストンのグラントに対する攻撃は当初4月4日に予定されていたが、48時間遅れた。その結果、再度ボーリガードは急襲の効果が失われるのを怖れ、コリンスへの後退を奨めた。しかし、ジョンストンはこの時も撤退を考えることを拒んだ。
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背景と対戦した戦力
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「ウィルソンの襲撃」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説
北軍ジョージ・ヘンリー・トーマス少将とそのカンバーランド軍はナッシュビルの戦いで勝利した後、南部の心臓部で事実上自軍に対抗できる組織化された軍隊はいないことが分かった。トーマスはジェイムズ・H・ウィルソン准将(ミシシッピ軍事部門の騎兵軍団を指揮していたが、トーマスの軍隊に付けられていた)にアラバマ州セルマの武器庫を襲って破壊し、エドワード・キャンビー少将のモービルに対する作戦と連動するよう命令した。セルマは南部の手中に残っている数少ない軍事基地の一つとして戦略的重要さがあった。この町には武器庫、海軍鋳造場、大砲製造所、火薬製造所、軍事倉庫および鉄道の修理工場があった。 ウィルソンは3個師団約13,500名を率い、その師団長はエドワード・M・マクック、イーライ・ロングおよびエモリー・アプトン各准将だった。騎兵はそれぞれが強力な7連発スペンサー・ライフル銃を装備していた。ウィルソンの主要な対抗者はネイサン・ベッドフォード・フォレスト中将だったが、そのアラバマ、ミシシッピおよび東ルイジアナ方面軍の騎兵軍団は約2,500名の騎兵であり、ジェイムズ・R・チャルマーズおよびウィリアム・H・ジャクソン各准将が指揮する小さな2個師団、フィリップ・D・ロッディ准将とエドワード・クロスランド大佐の部分的な2個旅団および、少数の地元民兵によって構成されていた。
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背景と対戦した戦力
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「北バージニア方面作戦」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説
私は西部から諸君の所にやってきた。西部では常に敵の背中を見てきた。敵を求め続け、見つけた時はこれを打ち破ることが仕事の軍隊からやってきた。その方針は攻撃することであり、防御ではなかった。...我々の前を見つめて後を見ないでおこう。成功と栄光は前進の中にあり、失敗と不名誉は後方に待っている。 ジョン・ポープ、"バージニア軍の士官および兵士へ"、7月14日 1862年6月の七日間の戦争で、マクレランの半島方面作戦が崩壊した後、エイブラハム・リンカーン大統領は、新しく結成された北バージニア軍の指揮官にジョン・ポープを指名した。ポープは西部戦線で幾らかの成功を積んでおり、リンカーンはマクレランよりも攻撃的な将軍を求めた。ポープは部下の指揮官から慕われる存在ではなく、軍団指揮官として選ばれた3人全員が事実上ポープよりランクが上であり、東部の兵士は西部の兵士より劣ると言わんばかりの自慢話で若い士官も辟易させた。ポープが抜擢した何人かはポープの攻撃的な調子に勇気づけられた。 北軍のバージニア軍は既存のバージニア周辺で活動していた方面軍から1862年6月26日に結成され、その大半は最近のジャクソンによるバレー方面作戦で翻弄されていた。ジョン・C・フレモント少将のマウンテン方面軍、アービン・マクドウェル少将のラッパハノック方面軍、ナサニエル・バンクス少将のシェナンドー方面軍、ワシントン軍事地区からサミュエル・D・スタージス准将の旅団、西バージニアからジェイコブ・D・コックス准将の師団で構成された。この新しい軍隊51,000名は3つの軍団に分けられ、第1軍団は、ポープの指名に続いて嫌気して辞めたフレモントに代わってフランツ・シーゲル少将が指揮し、第2軍団はバンクス、第3軍団はマクドウェルが指揮した。スタージスのワシントン部隊は予備隊とされた。ジョン・ベアズリー大佐とジョン・P・ハッチ、ジョージ・B・ベイアード各准将の騎兵旅団は直接3個歩兵軍団に付属され、集中的統帥が無かったことでこの方面作戦では消極的な効果しか無かった。マクレランのポトマック軍に属する3個軍団(第3軍団、第5軍団および第6軍団)とアンブローズ・バーンサイド少将の第9軍団(指揮はジェシー・リー・リノ少将)が戦闘中にポープ軍に合流し、総勢力は77,000名となった。 南軍側は、ロバート・E・リーの北バージニア軍55,000名が2つの「翼」あるいは「指揮」に組織された(これら部隊を「軍団」と称するのはアメリカ連合国が1862年に立法化した後である)。「右翼」はジェイムズ・ロングストリート少将に、左翼はストーンウォール・ジャクソン少将に指揮された。J・E・B・スチュアート少将の騎兵師団はジャクソンの翼に付けられた。南軍の攻勢は七日間の戦いのためにリーが引き継いだ時の軍隊よりかなり単純になっており、これはリーが効果的でないと考えた何人かの師団指揮官を外し、残りの師団をジャクソンとロングストリートの下に集めた結果だった。
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「カロライナ方面作戦」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説
シャーマンがその海への進軍の頂点としてサバンナを占領した後、北軍総司令官ユリシーズ・グラント中将からはその軍隊を船でバージニア州に移動し、ロバート・E・リー将軍に対抗して長引いているピーターズバーグ包囲戦でポトマック軍とジェームズ軍の支援に回るよう命令された。シャーマンはもっと大きなことを心に描いていた。1865年1月5日に、「私はこの戦争で幾つかの大きな節目となる出来事で、私の名前が傑出したものになると思う」と予測した。代案として両カロライナ州を北上し、ジョージア州を横切って海への進軍を行ったときと同じく、途上で軍事的に価値あるものを全て破壊することをグラントに提案して説得した。シャーマンは特に最初に合衆国からの脱退を表明したサウスカロライナ州を目標にすることに関心があり、それで南部の士気を殺げると考えた。 シャーマン軍は1865年1月下旬にサウスカロライナ州コロンビアに向けて進発した。その60,079名からなる軍隊は3翼に分かれた。オリバー・O・ハワード少将のテネシー軍、ジョン・マカリスター・スコフィールド少将のオハイオ軍、およびヘンリー・W・スローカム少将の第14と第20の2個軍団であり、スローカム軍は後に正式にジョージア軍と命名された。北上中に援軍が次々と到着し、4月1日までに総勢は88,948名となった。 シャーマン軍に対抗する南軍はかなり小さな戦力だった。両カロライナ州における主要部隊は打ちのめされたテネシー軍であり、再度ジョセフ・ジョンストン将軍の指揮下にあった(ジョンストンはシャーマンと対抗したアトランタ方面作戦の途中でアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスにその指揮官職を解任されていた)。その戦力は3月半ばで9,513名、4月半ばで15,188名と記録されている。この軍隊は3個軍団で構成された。それぞれウィリアム・J・ハーディ、アレクサンダー・P・スチュアートおよびスティーブン・D・リー各中将が率いた。両カロライナ州にはまた、ウェイド・ハンプトン少将の師団からの騎兵隊とブラクストン・ブラッグ将軍指揮下のウィルミントンの小部隊がいた。 シャーマンの作戦はジョージア州オーガスタやサウスカロライナ州チャールストンのような南軍の小戦力がいるところは迂回し、3月15日までにノースカロライナ州ゴールズバラまで達することだった。ジョージアでの作戦の時と同じく同時に多方向に軍隊を進軍させ、その第一で真の目的である州都コロンビアに近付くにつれて、散開する南軍守備軍を混乱させようとした。
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背景と対戦した戦力
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「コールドハーバーの戦い」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説
グラントのオーバーランド方面作戦は1864年5月4日以降進行中だった。荒野の戦いやスポットシルバニア・コートハウスの戦いは流血が多かったが引き分けに終わった。ノースアンナの戦いはリーが罠を仕掛け、グラントは何とかそれを避けられた。これらの大きな戦いの後で、グラントはポトマック軍(正規にはジョージ・ミード少将の指揮下にあったが、グラントが直接監督していた)をリー軍の右側面に回し、南東に動いた。北軍がパマンキー川を渉ると、リーはグラント軍の配置と意図を読もうとして、ホーズショップ、トトポトミー・クリーク(ベセスダ教会)およびオールドチャーチで3つの小さな戦闘が起こった(歴史家の中にはこれら3つの戦闘を大きなコールドハーバーの戦いの一部として分類する者がいる)。オールドチャーチの戦いから、リーは北軍の騎兵隊が古いコールドハーバー酒場の交差点を狙っていると判断した。そこからはリッチモンドとリー軍の後方地域へのアクセスが容易な道路網が出ていた。 リーは、バミューダ・ハンドレッドからグラント軍の方向に援軍が向かっているという報告を受けた。この援軍はウィリアム・F・"ボールディ"・スミス少将の第18軍団16,000名であり、グラントの要請によって、ベンジャミン・フランクリン・バトラー少将のジェームズ軍から引き抜かれていた。この軍団はジェームズ川を下ってからヨーク川を遡り、パマンキー川に至った。もしスミス隊がホワイトハウス・ランディングから古いコールドハーバー酒場まで真西に動けば、ベセスダ教会の3マイル (5 km)南東のグラント軍左翼に付き、北軍の前線が南に大きく延びて南軍の右翼に対処できることになるはずだった。 リーは自軍にも援軍を宛てに出来た。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスがP・G・T・ボーリガード将軍に指示して、ジェームズ川下流からロバート・F・ホーク少将の師団7,000名を派遣させた。リーは、これら追加部隊を得て、この方面作戦のこの時点までに受けた損失20,000名に入れ替えることによって、北バージニア軍は59,000名となり、ミードとグラントの108,000名と対抗することになった。しかしこの勢力の格差は依然あった程のものではなかった。グラント軍の援軍は多くがワシントンD.C.の守備隊から引き抜いた徴兵間もない新兵やかなりの数の砲兵隊であり、歩兵戦術については比較的経験が足りなかったのに対し、リー軍は活動していない前線から移動させた古参兵が多く、その兵士達は厚く防御が施された塹壕に入ることになっていた。
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