背景と対戦した戦力とは? わかりやすく解説

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背景と対戦した戦力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:12 UTC 版)

シャイローの戦い」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説

南軍1862年2月ヘンリー砦とドネルソン砦を失った後でアルバート・ジョンストン将軍はその軍を再編するためにテネシー州西部ミシシッピ州北部およびアラバマ州退いた3月初め、これに反応した北軍西部戦線司令官ヘンリー・ハレック少将は、グラントとその西テネシー軍(この戦闘後間もなく、そのより有名な名前であるテネシー軍呼ばれる)にテネシー川上って侵略するよう命じたハレックグラント対す職業的また個人的な敵意のために、当初グラント部下であるチャールズ・F・スミス少将にその遠征率いさせ、グラントヘンリー砦待機しているはずだった。エイブラハム・リンカーン大統領干渉し、またスミス負傷したので、グラント全軍指揮戻った)。グラントハレックから受けた命令では、ナッシュビルから進軍してくるビューエルオハイオ軍合流し、南に進んで南軍生命線であるミシシッピ川流域テネシー州メンフィスおよびバージニア州リッチモンドを結ぶメンフィス・アンド・チャールストン鉄道を掴むための協働攻撃掛けるというものだった。 Maj. Gen.ユリシーズ・グラント北軍 Maj. Gen.ドン・カルロス・ビューエル北軍 Gen.アルバート・ジョンストン南軍 Gen.P・G・Tボーリガード南軍 グラント軍は6個師団からなる総勢48,894名だった。師団指揮官ジョン・A・マクラーナンドルー・ウォーレス少将W・H・L・ウォレススティーブン・A・ハールバット、ウィリアム・シャーマンおよびベンジャミン・M・プレンティス准将だった。師団のうち5個師団テネシー川西の尾根宿営したグラントはこの戦争の間、敵の作戦よりも自分作戦強い関心があるという評判出来ていた。ピッツバーグ・ランディングにあるその宿営は、そのような関心欠如を最も象徴するものを示していた。その部隊野営の形に、多くシャイローヘブライ語で「平和の場所」の意味)という木製小さな教会周り拡がりビューエル軍を待ちながら多く未熟な兵士訓練施して時を過ごし塹壕やその他防御のための手段に気付いてもいない様子だった。グラントはその自叙伝で、塹壕考えが及ばないことに対す批判答えて、「この他に、私、士官および兵士軍隊ピックショベルおよび斧で経験するよりも多く訓練演習を必要とした。...これら全ての状況の下で私は演習訓練防塞化の作業よりも兵士有益であると結論づけた。」ルー・ウォーレス師団は5マイル (8 km)下流北方)のクランプズ・ランディングにおり、南軍川向きの砲台設置することを妨害し、ベスル駅で鉄道線攻撃することを意図した配置だった。 ビューエル軍の総勢17,918名であり戦闘夜にシャイローへの長い行程にあったその4師団アレクサンダー・マクックウィリアム・"ブル"・ネルソントマス・L・クリッテンデンおよびトマス・J・ウッド准将率いた南軍側では、ジョンストンがその新しく結成した軍隊ミシシッピ軍名付けたジョンストングラント陣地から約20マイル (30 km)南西ミシシッピ州コリンス周辺におよそ55,000名の部隊集結させた。この中で44,699名が4月3日にコリンスを発ちビューエル軍が参入する前にグラント軍を急襲することを期待していた。この軍隊大きく4個軍団編成された。指揮官以下の通りだった。 レオニダス・ポーク少将指揮チャールズ・クラークベンジャミン・F・チーザム各准将師団 ブラクストン・ブラッグ少将指揮、ダニエル・ラッグルズとジョーンズ・M・ウィザーズ准将師団 ウィリアム・J・ハーディ少将指揮トマス・C・ヒンドマン、パトリック・クリバーンおよびスターリング・A・M・ウッド准将師団 ジョン・ブレッキンリッジ准将指揮予備隊、ロバート・トラビューとウィンフィールド・S・ストラザム各大佐ジョン・S・ボウェン准将旅団、および付設騎兵隊 戦闘前夜グラント軍とジョンストン軍はほぼ拮抗する勢力だったが、南軍散弾銃、古い型の滑腔マスケット銃さらにはヤリまであるという古い武器装備しているに過ぎなかった。彼らはほとんど戦闘経験も無いままに戦場到着したペンサコーラモービルから来たブラクストン・ブラッグ兵士が最も訓練されていた。グラント軍にはドネルソン砦で戦闘経験した歩兵連隊62個のうち32個あった。その砲兵隊半分騎兵隊大半戦闘古参兵だった。 ジョンストン軍の副司令はボーリガードだった。ボーリガードグラント軍を攻撃しないよう奨めた。行軍の音や南軍兵が2日続き後でライフル試射する音が、急襲価値下げるのではないかと心配したジョンストンボーリガード忠告拒み、「敵が100万でも攻撃」すると伝えたボーリガード根拠のある心配に拘わらず北軍南軍近付いている音を聞き取ることが無く、3マイル (5 km)離れた敵の宿営地動き何の気もなく気付かないままだった。 明日戦闘では武器使い方知っている我々と同じ血の西部の男達と戦うことになる。戦い捨て身ものになるだろう。 P・G・T・ボーリガード ジョンストンの作戦グラント軍の左翼襲い北軍陸軍テネシー川砲艦支援(さらに退却路)とを分離し、西のスネーク・クリークやオウル・クリークの沼地追い込んで、そこで全滅させるというものだったジョンストングラント対す攻撃当初4月4日予定されていたが、48時間遅れたその結果再度ボーリガード急襲効果失われるのを怖れ、コリンスへの後退奨めた。しかし、ジョンストンはこの時も撤退考えることを拒んだ

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背景と対戦した戦力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:24 UTC 版)

ウィルソンの襲撃」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説

北軍ジョージ・ヘンリー・トーマス少将とそのカンバーランド軍ナッシュビルの戦い勝利した後、南部心臓部事実上自軍対抗できる組織化され軍隊はいないことが分かったトーマスジェイムズ・H・ウィルソン准将ミシシッピ軍部門騎兵軍団指揮していたが、トーマス軍隊に付けられていた)にアラバマ州セルマ武器庫襲って破壊しエドワード・キャンビー少将モービル対す作戦連動するよう命令したセルマ南部の手中に残っている数少ない軍事基地一つとして戦略的重要さがあった。この町には武器庫海軍鋳造場、大砲製造所火薬製造所、軍事倉庫および鉄道修理工場があった。 ウィルソンは3個師団13,500名を率い、その師団長エドワード・M・マクック、イーライ・ロングおよびエモリー・アプトン准将だった。騎兵それぞれ強力な7連発スペンサー・ライフル銃を装備していた。ウィルソン主要な対抗者はネイサン・ベッドフォード・フォレスト中将だったが、そのアラバマミシシッピおよび東ルイジアナ方面軍騎兵軍団は約2,500名の騎兵であり、ジェイムズ・R・チャルマーズおよびウィリアム・H・ジャクソン准将指揮する小さな2個師団フィリップ・D・ロッディ准将とエドワード・クロスランド大佐部分的な2個旅団および、少数地元民兵によって構成されていた。

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背景と対戦した戦力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 09:35 UTC 版)

北バージニア方面作戦」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説

私は西部から諸君の所にやってきた。西部では常に敵の背中見てきた。敵を求め続け見つけた時はこれを打ち破ることが仕事軍隊からやってきた。その方針は攻撃することであり、防御ではなかった。...我々の前を見つめて後を見ないでおこう。成功栄光前進中にあり、失敗不名誉後方待っているジョン・ポープ、"バージニア軍士官および兵士へ"、7月14日 1862年6月七日間の戦争で、マクレラン半島方面作戦崩壊した後、エイブラハム・リンカーン大統領は、新しく結成され北バージニア軍指揮官ジョン・ポープ指名したポープ西部戦線幾らか成功積んでおり、リンカーンマクレランよりも攻撃的な将軍求めたポープ部下指揮官から慕われる存在ではなく軍団指揮官として選ばれた3人全員事実上ポープよりランク上であり、東部兵士西部兵士より劣ると言わんばかり自慢話で若い士官辟易させた。ポープ抜擢した何人かはポープ攻撃的な調子勇気づけられた。 北軍バージニア軍既存バージニア周辺活動していた方面軍から1862年6月26日結成され、その大半最近ジャクソンによるバレー方面作戦翻弄されていた。ジョン・C・フレモント少将マウンテン方面軍アービン・マクドウェル少将ラッパハノック方面軍ナサニエル・バンクス少将シェナンドー方面軍ワシントン軍事地区からサミュエル・D・スタージス准将旅団西バージニアからジェイコブ・D・コックス准将師団構成された。この新し軍隊51,000名は3つの軍団分けられ第1軍団は、ポープ指名続いて嫌気し辞めたフレモントに代わってフランツ・シーゲル少将指揮し第2軍団バンクス第3軍団はマクドウェルが指揮したスタージスワシントン部隊予備隊とされた。ジョン・ベアズリー大佐ジョン・P・ハッチジョージ・Bベイアード准将騎兵旅団直接3個歩兵軍団付属され集中的統帥無かったことでこの方作戦では消極的な効果しか無かったマクレランポトマック軍属する3個軍団第3軍団第5軍団および第6軍団)とアンブローズ・バーンサイド少将第9軍団指揮ジェシー・リー・リノ少将)が戦闘中ポープ軍に合流し総勢力は77,000となった南軍側は、ロバート・E・リー北バージニア軍55,000名が2つの「翼」あるいは「指揮」に組織された(これら部隊を「軍団」と称するのはアメリカ連合国1862年立法化した後である)。「右翼」はジェイムズ・ロングストリート少将に、左翼ストーンウォール・ジャクソン少将指揮された。J・E・B・スチュアート少将騎兵師団ジャクソンの翼に付けられた。南軍攻勢七日間の戦いのためにリー引き継いだ時の軍隊よりかなり単純になっており、これはリー効果的でない考えた何人かの師団指揮官外し残り師団ジャクソンロングストリートの下に集めた結果だった。

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背景と対戦した戦力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/25 16:45 UTC 版)

カロライナ方面作戦」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説

シャーマンがその海への進軍頂点としてサバンナ占領した後、北軍総司令官ユリシーズ・グラント中将からはその軍隊を船でバージニア州移動しロバート・E・リー将軍対抗して長引いているピーターズバーグ包囲戦ポトマック軍ジェームズ軍支援に回るよう命令された。シャーマンはもっと大きなことを心に描いていた。1865年1月5日に、「私はこの戦争幾つかの大きな節目となる出来事で、私の名前が傑出したものになると思う」と予測した代案として両カロライナ州を北上しジョージア州横切って海への進軍行ったときと同じく途上軍事的に価値あるもの全て破壊することをグラント提案して説得したシャーマンは特に最初に合衆国からの脱退表明したサウスカロライナ州目標にすることに関心があり、それで南部士気殺げる考えたシャーマン軍は1865年1月下旬サウスカロライナ州コロンビア向けて進発した。その60,079名からなる軍隊は3翼に分かれたオリバー・O・ハワード少将テネシー軍ジョン・マカリスター・スコフィールド少将オハイオ軍、およびヘンリー・W・スローカム少将の第14と第20の2個軍団であり、スローカム軍は後に正式にジョージア軍命名された。北上中に援軍次々と到着し4月1日までに総勢88,948名となったシャーマン軍に対抗する南軍はかなり小さな戦力だった。両カロライナ州における主要部隊打ちのめされテネシー軍であり、再度ジョセフ・ジョンストン将軍指揮にあったジョンストンシャーマン対抗したアトランタ方面作戦途中でアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスにその指揮官職を解任されていた)。その戦力3月半ばで9,513名、4月半ば15,188名と記録されている。この軍隊は3個軍団構成された。それぞれウィリアム・J・ハーディアレクサンダー・P・スチュアートおよびスティーブン・D・リー中将率いた。両カロライナ州にはまた、ウェイド・ハンプトン少将師団からの騎兵隊ブラクストン・ブラッグ将軍指揮下のウィルミントン小部隊がいた。 シャーマン作戦ジョージア州オーガスタサウスカロライナ州チャールストンのような南軍小戦力がいるところは迂回し3月15日までにノースカロライナ州ゴールズバラまで達することだった。ジョージアでの作戦の時と同じく同時に多方向に軍隊進軍させ、その第一真の目的である州都コロンビア近付につれて散開する南軍守備軍を混乱させようとした。

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背景と対戦した戦力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 03:22 UTC 版)

コールドハーバーの戦い」の記事における「背景と対戦した戦力」の解説

グラントオーバーランド方面作戦1864年5月4日以降進行中だった。荒野の戦いスポットシルバニア・コートハウスの戦い流血多かった引き分け終わったノースアンナの戦いリーが罠を仕掛けグラントは何とかそれを避けられた。これらの大きな戦いの後で、グラントポトマック軍正規にはジョージ・ミード少将指揮にあったが、グラント直接監督していた)をリー軍の右側面に回し南東動いた北軍がパマンキー川を渉ると、リーグラント軍の配置意図読もうとして、ホーズショップ、トトポトミー・クリーク(ベセスダ教会)およびオールドチャーチで3つの小さな戦闘起こった歴史家中にはこれら3つの戦闘大きなコールドハーバーの戦い一部として分類する者がいる)。オールドチャーチの戦いから、リー北軍騎兵隊が古いコールドハーバー酒場交差点狙っていると判断した。そこからはリッチモンドリー軍の後方地域へのアクセス容易な道路網が出ていた。 リーは、バミューダ・ハンドレッドからグラント軍の方向援軍向かっているという報告受けた。この援軍ウィリアム・F・"ボールディ"・スミス少将第18軍16,000名であり、グラント要請によって、ベンジャミン・フランクリン・バトラー少将ジェームズ軍から引き抜かれていた。この軍団ジェームズ川下ってからヨーク川遡り、パマンキー川に至った。もしスミス隊がホワイトハウス・ランディングから古いコールドハーバー酒場まで真西動けばベセスダ教会の3マイル (5 km)南東グラント左翼付き北軍前線が南に大きく延びて南軍右翼対処できることになるはずだった。 リー自軍にも援軍宛て出来たアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスP・G・T・ボーリガード将軍指示してジェームズ川下流からロバート・F・ホーク少将師団7,000名を派遣させた。リーは、これら追加部隊得てこの方作戦のこの時点までに受けた損失20,000名に入れ替えることによって、北バージニア軍59,000名となり、ミードとグラント108,000名と対抗することになった。しかしこの勢力格差依然あった程のものではなかった。グラント軍の援軍多くワシントンD.C.守備隊から引き抜いた徴兵間もない新兵かなりの数の砲兵隊であり、歩兵戦術については比較経験足りなかったのに対しリー軍は活動していない前線から移動させた古参兵が多く、その兵士達厚く防御施され塹壕に入ることになっていた。

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