ピーターズバーグ包囲戦
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「第三次ピーターズバーグの戦い」の記事における「ピーターズバーグ包囲戦」の解説
「ピーターズバーグ包囲戦」も参照 「ステッドマン砦の戦い」も参照 オーバーランド方面作戦の終わりに、北軍ポトマック軍の2個軍団が感知されずに動いて、コールドハーバーを離れ、ピーターズバーグ市の郊外でジェームズ軍と合流したが、その後の1864年6月15日から18日、第二次ピーターズバーグの戦いで南軍の小勢の守備隊から市を奪うことができなかった。その結果、292日に及んだリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦(ピーターズバーグ包囲戦)が始まった。その後、北軍の総司令官ユリシーズ・グラントは塹壕と消耗戦の作戦を遂行するしかなくなった。数的に劣勢な南軍を消耗させピーターズバーグとリッチモンドへの供給源と供給線を破壊または遮断し、防衛線を長くさせることで弱っていく南軍に限界まで守らせるようにすることだった。南軍はリッチモンド市とその南23マイル (37 km) にあるピーターズバーグという鉄道と供給線の中心で、防衛戦略を採用し、塹壕と野外の工作物を巧みに使うことによって、大部隊の敵に対して9か月以上も守り続けることができてきていた。 1865年2月5日から7日に起きたハッチャーズランの戦いの後、前線はさらに4マイル (6.4 km) 伸び、リーが新しい守備隊を入れた後はもう予備隊がほとんど無かった。リーはその軍隊でこれ以上防御を維持できないと考え、さらに戦争を継続するためには、その軍隊の一部あるいは全軍がリッチモンドとピーターズバーグを離れ、ダンビルあるいはおそらくリンチバーグで食料や物資を補給し、ノースカロライナ州で北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍に対抗しているジョセフ・ジョンストン将軍の軍隊と合流しなければならないことが分かっていた。南軍が即座にシャーマン軍を破れなければ、グラント軍がシャーマン軍の残りと合流できる前に、グラント軍に対抗するために戻って来ることになるはずだった。リーは移動のための準備を始め、アメリカ連合国大統領のジェファーソン・デイヴィスと陸軍長官ジョン・ブレッキンリッジにその結論と作戦を知らせた。 リーはジェファーソン・デイヴィス大統領からリッチモンド守備を継続するよう圧力を受けており、また冬にどのような状況になるかもわからない中で、飼料も乏しい家畜でぬかるんだ道路を効率的に動くことはできない状況だったが、ジョン・ブラウン・ゴードン少将が提案したステッドマン砦を攻撃する部隊を出撃させるという作戦を検討し最後は承認した。その目指すところは、ピーターズバーグの東で北軍の前線を突破し、あるいは少なくともそこそこの損害を与える攻撃で地歩を獲得し、北軍の前線を短くさせるというものだった。これが成功すれば、リー軍は前線を短くでき、ジョンストン軍を支援するためにそこそこの援軍、あるいは全軍を送られる機会が得られるはずだった。 1865年3月25日夜明け前に、ゴードン隊がステッドマン砦を急襲して、砦と隣接する砲台3か所を占領し、500名を捕虜にし、さらに約500名を戦死または負傷させた。北軍はジョン・G・パーク少将指揮下の第9軍団が即座に反撃した。砦と砲台を取り返し、南軍を元の前線に押し返し、前進した哨戒線を布くことを諦めさせた。第9軍団は捕虜1,000名を含む約4,000名の損失を南軍に出させ、南軍はその補充が出来なかった。 3月25日午後のジョーンズ農園の戦いで、北軍第2軍団と第6軍団がアームストロング・ミル近くの南軍哨戒線を占領し、北軍前線の左端を約0.25マイル (400 m) 南軍の砦近くに延伸させた。このことで、北軍前線のこの部分を担当していた第6軍団を、南軍前線から約0.5マイル (800 m) 内のいつでも攻撃ができる位置に置いた。リーは、ステッドマン砦とジョーンズ農園で南軍が敗北した後、グラントが直ぐに南軍に残されたピーターズバーグへの供給線であるサウスサイド鉄道とボイドトン板張り道路の方向に動いて来て、恐らくはリッチモンドとピーターズバーグからの退路を遮断することになると理解した。
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