南北戦争での従軍
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「ジョン・グレッグ」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
グレッグは1861年2月15日のアメリカ連合国臨時議会に出席し、8月には代議員を辞職して南軍に入隊した。グレッグはテキサス州に戻って、第7テキサス歩兵連隊を立ち上げ、9月にその大佐となった。グレッグと第7テキサス歩兵連隊は1862年2月12日から16日に行われたドネルソン砦の戦いが初戦であり、このとき守備隊の大半と共に捕まえられた。グレッグは監禁のためにマサチューセッツ州ボストンのウォーレン砦に送られた。 1862年8月15日、グレッグは捕虜交換で釈放され、8月29日には准将に昇進した。その後西部戦線任務のためにミシシッピ州に派遣され、1862年10月24日から1863年3月までミシシッピ軍第1師団の第10旅団長を任された。グレッグの第10旅団はその後1863年3月から5月まで、ミシシッピ・アンド・東ルイジアナ方面軍第3地区軍に割り付けられた。 グレッグの部隊はグレッグ旅団と呼ばれるようになり、1863年5月10日には西部方面軍ウィリアム・H・T・ウォーカー師団に付設された。グレッグにとってミシシッピ州では最初の大きな戦闘は5月12日のレイモンドの戦いであり、その配下3,000名の旅団は北軍ジェイムズ・マクファーソン少将の指揮する総勢10,000名の第17軍団と大変な6時間の戦闘を続けた。この戦闘後グレッグ旅団はミシシッピ州ジャクソンへの撤退を強いられ、6月14日にはジャクソンの戦いに参戦した。 グレッグ旅団は1863年9月、一時的にテネシー軍予備軍団の一部となった。9月19日のチカマウガの戦いの時は、テネシー軍第3軍団ブッシュロッド・ジョンソン師団に付けられた。グレッグは9月20日に首を撃たれて重傷を負った。傷が快復したグレッグはロバート・E・リーの北バージニア軍において有名なフッドのテキサス旅団指揮を任された。 グレッグの旅団は1864年春の東部戦線で、荒野の戦い、スポットシルバニア・コートハウスの戦い、コールドハーバーの戦いおよびピーターズバーグ包囲戦に参戦した。 1864年5月3日の荒野の戦いでグレッグは負傷し、その後はピーターズバーグ包囲戦までリー軍に随った。
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南北戦争での従軍
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「エドワード・ダグラス・ホワイト」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
ジョージタウン大学でのホワイトの学業生活は南北戦争によって妨げられた。ホワイトはバイユー・ラフォーシェに戻って、推定ではリチャード・テイラー将軍の下で南軍の歩兵として入隊し、最終的に中尉まで進んだと考えられてきた。ホワイトの寡婦になっていた母が再婚して当時はニューオーリンズで家族と共に暮らしていたので、このことは疑問である。ホワイトがルイジアナに戻ったとき、ニューオーリンズの自分の家に行った可能性が強い。疑わしい証言では、北軍のゴッドフレイ・ワイツェル将軍が1862年10月にバイユー・ラフォールシェを侵略したとき、ホワイトは危うく掴まりそうになったが、納屋の干し草の下に隠れて難を免れたということである。ホワイトはラフールシェで入隊したが、点呼名簿が完全ではなかった可能性がある。しかし、ホワイトが何らかの南軍志願兵部隊あるいは民兵隊に仕えてラフールシェ地域での作戦に参加したという記録は無い。 別の証言では南軍のW・N・R・ビール将軍の副官となり、ポートハドソンまで付いていったというものがある。ポートハドソンには南軍の守備隊18,000名が守っていたが、数的に勝る北軍が包囲していた。1863年5月21日から7月8日まで続いた包囲戦の後(北アメリカ史では最長の包囲戦)、ビックスバーグの陥落を知った南軍が無条件降伏した。ポートハドソンにホワイトが居たということは、戦後の二次的証言、すなわちポートハドソンの北軍古参兵でありミネソタ州選出のアメリカ合衆国上院議員クヌート・ネルソンとの食事中の会話であり、またジョージ・デューイ提督(ポートハドソンでの北軍海軍士官)との会話であるが、どちらもホワイトが包囲戦の時に居たと証言したことだった。しかし、ホワイトの名前はポートハドソンの捕虜名簿に載っていない。信頼性の薄い別の証言に拠れば、ホワイトはミシシッピ州の捕虜収容所に送られたということである(実際にポートハドソン守備隊の南軍兵士は仮釈放され、士官は捕虜交換の前にニューオーリンズの収容所に送られたので、この証言はおそらく嘘だろう)。ホワイトが仮釈放されたとき、家のプランテーションに戻ったと考えられるが、そこは既に放棄され、トウモロコシ畑は荒れ地となり、元奴隷達の大半はそこを離れていた。 ホワイトが南軍に従軍したという唯一「紙で残った」証拠は、南北戦争公式記録に含まれるポイントクープ郡モーガンザでの戦闘で1865年3月に捕虜になったというものであり、米国国立公文書館のホワイトの従軍記録ではその後にニューオーリンズで収監されて、1865年5月に仮釈放になったというものである。これらの記録ではホワイトがルイジアナ騎兵連隊バーロー中隊の中尉として従軍していたことを確認するものであり、この部隊は実際上非正規兵かゲリラの組織的に緩やかな部隊だった。この連隊は時として「第9ルイジアナ騎兵連隊」と呼ばれ、その中の士官の1人がロバート・プリュイン少佐だった(戦後、バトンルージュ市長になった)。プリュインはミシシッピ川を泳いで包囲線を抜け出し、ポートハドソンの指揮官フランクリン・ガードナー将軍からジョセフ・ジョンストン将軍に伝言を伝えた伝令の役目を担った。プリュインは同じやり方でポートハドソンの降伏前にそこを逃げ出した。ホワイトがプリュインとともに逃亡に加わったと考えるのは興味有ることであり、ホワイトがポートハドソンの捕虜名簿に載っておらず、後にプリュインの連隊で従軍したということを説明できるものである。 ホワイトが南北戦争に従軍したということは、彼がアメリカ合衆国最高裁判所判事に指名された当初も共通に知られている事項であり、アメリカ連合国退役兵のために出版された「南軍退役兵」雑誌は彼の肯定を祝すことになった。ホワイトはアメリカ合衆国最高裁判所に仕えた3人の元南軍兵の一人となった。他の陪席判事とはルイス・クィンタス・キンキナトゥス・ラマー2世とホレース・ハーモン・ラートンだった。最高裁判所では他に一人、アメリカ連合国政府で公職を務めたハウェル・エドマンズ・ジャクソンが陪席判事になった。
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南北戦争での従軍
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「デイビッド・ディクソン・ポーター」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
1861年、ポーターはUSSポーハタンを指揮して海軍のメキシコ湾戦隊に加わった。4月22日に海軍中佐、1863年2月7日に海軍大佐に昇進した。1862年のルイジアナ州ニューオーリンズに対してミシシッピ川を遡る遠征(ニューオーリンズの戦い)には、21隻の砲艦と幾隻かの蒸気船を率いて加わった。 1862年から1863年にかけてのユリシーズ・グラントが率いたビックスバーグ方面作戦では、ポーターがその旗艦USSブラックホークに乗ってミシシッピ川戦隊を指揮した。グラントはビックスバーグに近付き攻略するために一連の独創性を発揮し、これが「グラントのバイユー作戦」と呼ばれている。その共通目的は、南軍の砲台下にあるミシシッピ川を直接接近する必要性無しに、ビックスバーグから射程内に軍隊を配置できる別の水路を使いあるいは建設することだった。しかし「グラントのバイユー作戦」はことごとく失敗した。グラントはその確固たる決断力で知られており決して諦めなかった。最後の選択肢は大胆だったが危険を伴うものだった。ミシシッピ川西岸を下り、ビックスバーグの南で川を渉り、南と東からビックスバーグを攻撃するかナサニエル・バンクスの軍隊と合流し、ポートハドソンを占領し、続いて協働してビックスバーグを征服するというものだった。ビックスバーグより上流にいたポーターの戦隊は砲台の下をかいくぐり十分な砲艦と輸送船をビックスバーグの南で確保する必要があった。一端下流に出てしまうと川の流れで速度が極端に遅くなるので、もう一度ビックスバーグの砲台の下を過ぎることはできないはずだった。 1863年4月16日、月の無い晴れた夜に、ポーターは7隻の砲艦と3隻の物資を積み兵士は載せていない輸送船をビックスバーグの崖下に送った。音や灯りは極力出さないようにしていた。しかし準備の効果が無かった。南軍の歩哨が艦影を認め、崖上の砲台から大量の砲弾が発射された。視認性を高めるために川岸に炬火が灯された。北軍の砲艦が応射した。ポーターは南軍の大砲が仰角を抑えられないために主に北軍艦船の上の方に撃ってきていることを観察し、艦船を砲台の真下にあたる東岸に寄せさせた。非常に接近したので南軍の指揮官が命令を出す声も聞こえ、砲弾は頭の上を飛びすぎた。北軍戦隊はほとんど損傷無く生き残った。13名が負傷しただけで死者はいなかった。「ヘンリー・クレイ」号が航行不能になり水際で燃えた。4月22日、他の6隻の艦船が物資を積んで同じように通過した。1隻が通過できなかったが、戦死者は出なかった。乗組員は舟の残骸に乗ったまま下流に流された。 次はグラント軍をミシシッピ川の西から東に渡す必要があった。1863年4月29日、ポーターは7隻の鋼製被覆砲艦を率い、グランド湾の要塞と砲台を沈黙させその地域をジョン・A・マクラーナンド少将の第13軍団で確保する意図で攻撃を始めた。輸送船や艀も伴っていた。7隻の砲艦による攻撃は午前8時に始まり、午後1時半まで続いた。この戦闘中、砲艦は南軍大砲から100ヤード (90 m)以内まで接近しウェイド砦の下部砲台を沈黙させた。コバン砦の上部砲台までは届かず、砲撃が続いた。北軍の砲艦(そのうちの1隻USSタスカンビアは動けなくなった)と輸送船は後退した。しかし、暗闇が訪れてから、砲艦が再度南軍の大砲に砲撃を始め、その間に蒸気船や艀は難所を擦り抜けた。グラントはその軍隊を陸路進ませ、グランド湾の下流カフィ・ポイントまで進ませた。輸送船がグランド湾を過ぎた後で、ディシャルーンのプランテーションで兵士を載せ、グランド湾より下流のブルーンズバーグで川向こうの岸に降ろした。この部隊は直ちに陸路をポートギブソンに向かった。ポーターはこのグランド湾の戦いで水陸共同作戦を遂行中に頭を負傷したと言われる。 7月4日に海軍少将に昇進したが、これはビックスバーグの南軍が降伏した日だった。1864年4月には連邦議会から「陸軍と協力しミシシッピ川を開放したときに、彼とその戦隊が示した優れた技術、忍耐および勇敢さに対して」感謝状を受けた。 1864年のレッド川方面作戦では、南軍のジョナサン・H・カーターの指揮する改装砲艦ミズーリを降伏に追い込んだ。 1864年にポーターは北大西洋封鎖戦隊を指揮することになり、60隻の艦船を率いて、1865年1月の第二次フィッシャー砦の戦いに参戦し砦の奪取に成功した。1月15日、ポーターの砲艦が砦の海側に対して砲火を開き、正午までに2門の大砲を除き沈黙させた。その間にアルフレッド・テリー少将の陸軍が砦に入ったが、かなりの苦戦を強いられた。ポーターの砲艦は北軍の士気を維持することに貢献した。その砲手の照準は恐ろしく正確であり、北軍が海側の防壁に近付くにつれて守備隊を排除した。この戦功でポーターは再度次のような議会の感謝状をうけた。 デイビッド・D・ポーター海軍少将、およびその指揮下にあった士官、下士官、海軍兵および海兵に、フィッシャー砦への攻撃に示された卓越した勇敢さと技術に対して、また重要な基地を反乱軍の手から奪い、アメリカ合衆国の占領するものにした輝かしく決定的な勝利に対して、さらに大きな困難さと危険の中でこの国のために捧げられた長く誠実な働きと揺るぎない献身に。 1865年3月遅く、南北戦争も終戦間近となった頃、北軍の総司令官グラントはエイブラハム・リンカーン大統領にバージニア州シティポイントにあったその作戦本部を訪れるよう誘った。この時、ウィリアム・シャーマンがたまたまノースカロライナ州からシティポイントに来合わせ、またポーターもその仲間に加わった。その結果リンカーン、グラント、シャーマンおよびポーターが大統領船リバークィーン号に集まった。この4日間の会合はジョージ・P・A・ヒーリーの有名な絵画『"平和の作り手達"』で記念されている。
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南北戦争での従軍
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「エリオット・フィッチ・シェパード」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
南北戦争が始まると、シェパードは北軍エドウィン・D・モーガン将軍の副官となり、大佐に任官された。シェパードが戦場に行くことは無かったが、志願兵の徴募を担当した。1862年、ジェームズタウンに行ってシャトークア連隊のための制服を検査し、整え、供給した。12歳のときにジェームズタウンを離れてから久しぶりの訪問であり、著名な市民集団に歓迎された。シェパードはニューヨーク第51志願兵連隊を徴募して組織したので、その功績を称えてシェパード・ライフル隊と名付けられた。詩人ウォルト・ホイットマンの兄弟であり、この連隊の隊員だったジョージ・W・ホイットマンが、シェパードから昇進を告知された。その後1865年に少佐に昇進したときも、シェパードが影響を及ぼした可能性がある。さらにシェパードはウォルト・ホイットマンと文通もしていた。 シェパードはニューヨーク州エルマイラで徴兵所の担当となり、周辺地域から47,000人を徴兵した。エイブラハム・リンカーン大統領はシェパードに准将への昇進を提案したが、戦場に出ている士官への遠慮から辞退した。
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南北戦争での従軍
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「シドニー・ジャックマン」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
ジャックマンは1861年に南軍側に付くことを選択し、ミズーリ州兵隊に入隊した。翌1862年、第7ミズーリ歩兵連隊の大佐に指名され、5月にミズーリ州ネオショを襲撃する騎兵隊を率いた。8月16日、ローンジャックの戦いに参戦し、ローンジャックを占領していた北軍部隊の捕獲に貢献した部隊を率い、8月31日には第16ミズーリ歩兵連隊長を任された。 ジャックマンは西部戦線に参戦することになり、主に北軍の目標に対して不規則なゲリラ的戦術を使う戦闘に参加した。1862年の秋と冬までに、ジャックマンはミズーリ州に向けて南軍の正規部隊が襲撃を行う援けになるだけの部隊を徴兵することができた。1863年1月11日、その部隊は北軍が支配しているミズーリ州コロンビアに入り、そこの監獄に入っている南軍兵を解放しようとしたが、この試みは失敗した。4月23日、ジャックマンとその部隊は北軍のトマス・J・バーソロー准将を誘拐し、グラスゴーで宿営を張った。6月1日、ジャックマンの小さな部隊が北軍の騎兵集団に遭遇して破った。このとき北軍騎兵隊の指揮官を倒したと報告されている。 1864年5月、ジャックマンとその部隊はアーカンソー州に入り、その北西部にあるボストン山脈近くを拠点にした。6月までに、1個騎兵連隊を徴兵し、「ジャックマンのミズーリ騎兵隊」と呼ばれることになり、ミシシッピ川流域におけるスターリング・プライス少将のミズーリ軍で、ジョセフ・シェルビー准将の騎兵師団に付設された。その秋、ジャックマンの部隊(2個連隊と新兵の2個大隊からなる1個旅団)はプライスの襲撃に参加した。この襲撃の初期段階で、北軍が支配するグラスゴーを攻撃して占領した。
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南北戦争での従軍
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「ジェイムズ・スティードマン」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
1861年に南北戦争が始まった時、スティードマンは北軍に就くことを選び、アメリカ陸軍に志願した。4月27日に第14オハイオ歩兵連隊を立ち上げ、その大佐に選ばれた。第14オハイオ歩兵連隊は当初徴兵90日間の部隊だったが、その期間が切れる秋にスティードマンが再編した。スティードマンは8月13日に志願兵任務を解かれ、その連隊が3年間任務で再徴兵された直後の9月1日に第14オハイオ連隊の正規軍大佐に指名された。スティードマンとその第14オハイオ連隊はバージニア州バーバー郡(現在はウェストバージニア州の一部)で6月のフィルーピーの戦いにおける北軍勝利に加わっていた 。 スティードマンとその連隊は続いて西部戦線に従軍した。1862年1月には現在のケンタッキー州ナンシーの近くでミル・スプリングスの戦いにおける北軍勝利に加わった。また4月遅くと6月初めのミシシッピ州コリンスにおけるコリンスの包囲戦にも参戦した。スティードマンは1862年7月17日に准将に昇進し、オハイオ軍で1個旅団の指揮を任された。 1862年4月のシャイローの戦いにおける北軍勝利に続き、スティードマンとその旅団は秋にケンタッキー州のドン・カルロス・ビューエルの軍隊に派遣された。10月8日のペリービルの戦いではその旅団がルソー准将の師団を補強し、北軍戦線に開いた隙間をタイミングよく埋めて、その師団が戦場から押し出されることを防いだ。スティードマンはビューエルによるこの戦闘の公式報告書で高い評価を受けた。 スティードマンとその旅団は1862年12月から1863年1月のストーンズリバーの戦いでは、このときウィリアム・ローズクランズ少将が指揮を執り、カンバーランド軍と改名されていた軍隊のスピード・S・フライ准将師団の一部として参戦した。
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南北戦争での従軍
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「バジル・デューク」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
1861年に南北戦争が始まった時、デュークはまだミズーリ州におり、ミズーリ州がアメリカ合衆国から脱退するための始めの襲撃に貢献した(ミズーリ州には戦争中、北部と南部の両方の政府を持つことになった)。1861年1月7日、デュークとその他4人の者が、セントルイスで最近あった選挙で選ばれたばかりの北部寄り政治家達に対抗して、脱退賛成派の組織、ミニット・メンを創設した。デュークはまだ23歳であったにも拘らず直ぐにその指導者になった。デュークは5個中隊を立ち上げ、脱退派の運動のためにセントルイスの連邦武器庫を確保しようとした。目立つ場所に脱退派の旗を置くようにし、北部寄りの部隊との戦いを目指した。ある時点でミニット・メンが使うために4門の大砲を獲得できたが、その後間もなく北軍兵に取られることになった。最後は放火と反逆罪で告発されることになった。 デュークはジョン・ハント・モーガンの姉妹、ヘンリエッタ・ハント・モーガンと結婚するために、1861年4月にレキシントンに戻った。2人は1861年6月19日に結婚した。デュークはミズーリ州に戻って南軍を援けるつもりだったが、ウィリアム・J・ハーディ准将の強要で最後はケンタッキー州に戻った。1861年10月までに1兵卒として義兄弟のモーガン隊に入隊するつもりだったが、少尉に選出されることになった。 デュークは2度負傷した。シャイローの戦いでは、1人の北軍兵の方に振り向いた時にブラウン・ベス・マスケット銃で左肩を撃たれ、銃弾は右肩に抜けて、あやうく脊髄を傷めるところだった。この後で中佐に昇進し、数ヵ月後には大佐になった。1862年のモーガンによるクリスマス襲撃のとき、ケンタッキー州エリザベスタウンのローリングフォーク川で、12月29日にモーガン隊の残りが流れを渡った後の後衛を率いているときに砲弾の破片が直撃した。デュークの部下は当初、デュークが死んだものと思った。 デュークはモーガン襲撃隊にとって騎乗しての戦闘の重要な訓練者だった。モーガンの襲撃に参加し、1863年7月19日のバッフィントン島の戦いで捕まったが、それはアダム・"ストーブパイプ"・ジョンソン大佐と共にオハイオ川を渡って他の南軍兵を逃がすか、モーガンと共にさらにオハイオ州深く入らせるために遅延施術を行う部隊を率いている時のことだった。 デュークは1864年8月3日まで捕虜となっており、その後捕虜交換で釈放された。デュークはモーガンやトマス・ハインズ等と共にオハイオ州刑務所から脱走もできたが、モーガンが容易にその弟の独房と入れ替わったのに対し、デュークの入れ替わる独房は無かったので、脱走の機会を損なうと考えたために脱走隊に加わらなかった。モーガンが戦死した後、デュークは1864年9月15日にその部隊指揮を引き継ぎ、准将に昇進した。ジェファーソン・デイヴィス大統領がリッチモンドを離れたときはこれに同行した。1865年5月2日、サウスカロライナ州アベビルのバート・スターク邸宅で行われた南軍最後の作戦会議にも出席した。デュークはジョージア州ワシントンで1865年5月10日、北軍士官に降伏した。 デュークは1人の士官としてその部下の兵士達に「穏やかに命令する」やり方を採り、これが部隊兵との親しい関係を作ることになった。デュークは戦闘を愛し、戦闘の難しい局面でも確固としており、「磨きあげるられた」士官と表現された。
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南北戦争での従軍
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「フィッツ・ジョン・ポーター」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
南北戦争が始まると、ポーターはペンシルベニア方面軍の参謀長と総務局長補となったが、その後直ぐの1861年5月14日に第15歩兵連隊の大佐に昇進し、3日後には准将に昇進した。8月28日にはジョージ・マクレラン少将の下に新しく作られたポトマック軍で師団指揮官を任された。間もなくポーターはマクレランの信頼される助言者かつ忠実な友人になったが、この間もなく議論を呼ぶことになる司令官との交友はポーターの軍歴にとっては災いをもたらすもとになった。 ポーターは半島方面作戦の開始時点でその師団を率い、ヨークタウンの包囲戦での戦闘に参戦した。マクレランは暫定軍団を2つ創設し、ポーターは第5軍団の指揮を割り当てられた。七日間の戦いのとき、特にゲインズミルの戦いで、防御戦における才能を示した。マルバーンヒルの戦いでは、指導的役割も演じた。半島におけるその功績によって1862年7月4日に志願兵の少将に昇進した。
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南北戦争での従軍
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「ロバート・パターソン (軍人)」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
南北戦争の開始でパターソンは再度軍務に戻った。ペンシルベニア志願兵隊の少将に指名され、ペンシルベニア軍管区部隊(シェナンドー軍とも呼ばれる)を指揮した。1861年、このときアメリカ陸軍総司令官だったウィンフィールド・スコットがハーパーズ・フェリーを取り返すために曖昧な命令をパターソンに送った。パターソンはこれらの命令に即座に行動することができず、ホークスランの戦いでは敵に裏を掛かれ、バージニア州ウィンチェスターにいたジョセフ・ジョンストン准将の南軍が第一次ブルランの戦いの戦場に行軍して補強することを可能にしてしまった。パターソンは敵軍を食い止めておくことができなかったことで、広く批判され、不名誉な解任を受け、1861年7月遅くには陸軍から除隊ということになった。
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南北戦争での従軍
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「ジェイムズ・ワズワース」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
南北戦争が始まった時、ワズワースは全く軍隊経験が無かったが、1861年5月にニューヨーク州民兵隊の少将に任官された。7月8日の第一次ブルランの戦いの時は、アービン・マクドウェル少将の市民参加副官として仕えた。マクドウェルはワズワースを指揮官に推薦し、8月9日に准将に指名された。10月3日にポトマック軍マクドウェル師団で第2旅団長となった。その後、1862年3月17日までポトマック軍第1軍団第3師団の第2旅団長だった。 3月17日から9月7日まで、ワズワースはワシントンD.C.の軍事地区指揮官となった。ジョージ・マクレラン少将の半島方面作戦を準備する間、マクレランがバージニア半島に大部隊を連れて行く作戦なので、首都を守るには兵士が足りないと、エイブラハム・リンカーン大統領に苦情を言った。リンカーンがマクレランの作戦を取り消し、1個軍団全体をワシントン防衛に充てたので、マクレランとワズワースの間には気まずい感情が生まれた。ワズワースはマクレランの軍隊で従軍する見込みが無かったので、ニューヨーク知事選で反戦をうたう民主党のホレイショ・シーモアに対抗する候補者になることを認めていたが、軍隊の現役任務から去ることを辞退し、選挙は落選した。 マクレランがポトマック軍を去った後、かつ北軍がフレデリックスバーグの戦いで大敗を喫した後で、第2軍団第2師団長に昇進したジョン・ギボン准将に代わって、ワズワースは1862年12月27日に第1軍団第1師団長に指名された。ワズワースは1863年6月15日までこの師団を指揮したが、1月と3月に合計で約10日という短期間だけ第1軍団を指揮することがあった。 ワズワースは隊員の福祉面を良く面倒見て、食事や宿舎が適切であるように確保することに努力したので新しい師団では広く尊敬された。またワズワースが北軍に大変傾倒しており、快適な生活を捨てて報酬の引き合わない軍隊に仕える途を選んだので、隊員は感心してもいた。 ワーズワースとその師団は1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いで最初の試練を受けた。フレデリックスバーグより下流でラッパハノック川を渡る操軍で躊躇いがちに出発したために、この戦闘ではほとんど交戦することなく終わってしまった。ゲティスバーグの戦いでの功績はかなり内容のあるものになった。1863年7月1日、ジョン・F・レイノルズ少将の第1軍団の前衛として戦場に到着し、その朝と午後は圧倒的な南軍による攻撃の矛先に耐えた。その部隊は西と北からの攻撃に耐えることができ、町の南にある高地を十分な部隊が確保する時間的余裕を作り出し、結果的に戦いに勝利した。しかし、ワズワースの師団がその夜ゲティスバーグの町を抜けてセメタリーヒルに撤退した時までに、師団の損失率は50%以上に達した。その師団はこの損失にも拘らず、2日目にはカルプスヒルの一部の防衛を任された。第12軍団の大半が軍隊の左側面に行くように命令されたとき、ワズワースはカルプスヒル頂上を守っているジョージ・S・グリーン准将の旅団の支援に3個連隊を派遣した。 第1軍団はゲティスバーグでの損失が激しかったために、ポトマック軍が1864年3月に再編されたとき、残っていた連隊は他の軍団に分散された。ワズワースは8ヶ月間の休暇の大半を使ってミシシッピ川流域の有色人部隊を検査した後、第5軍団第4師団長に指名された。この師団は元率いていた師団の部隊と、以前はアブナー・ダブルデイ少将が率いていた部隊で構成されていた。このことは、ワズワースの同僚の多くが軍隊再編時に任官も無いままにされるか、あるいは小さな他の場所での任務に送られたことでも、ゲティスバーグでの功績を評価されたということが分かる。
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南北戦争での従軍
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「ジョージ・ストーンマン」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
南北戦争が始まったとき、ストーンマンはテキサス州ブラウン砦を指揮しており、そこに新しく樹立されたアメリカ連合国当局に降伏しろというディビッド・E・トウィッグス少将の命令を拒み、部隊兵の大半を率いて北に逃亡した。東部に戻ったストーンマンは第1アメリカ騎兵隊の少佐となり、バージニア州西部でジョージ・マクレラン少将の副官になった。騎兵隊がポトマック軍に組み入れられていたので、騎兵予備隊、続いて騎兵師団を指揮し、騎兵隊長という肩書きになった。1861年8月13日に准将に昇進した。戦闘における騎兵の適切な使い方に理解が無く、小さな部隊にして歩兵旅団に付設させたマクレランとは折り合いが悪かった。この組織では1862年の半島方面作戦や七日間の戦いでは働きが悪く、南軍のJ・E・B・スチュアート少将の下に集中させた騎兵隊が北軍騎兵隊よりも遥かに働きで勝った。 1861年11月22日、ストーンマンはボルティモアのメアリー・オリバー・ハーディスティと結婚した。夫妻には4人の子供が生まれた。 半島方面作戦の後で、ストーンマンは歩兵隊の指揮官となり、第2軍団と第3軍団の1個師団を率いた。フレデリックスバーグの戦いでは第3軍団を率いた。1862年11月29日には志願兵の少将に昇進した。しかしフレデリックスバーグの後で、ポトマック軍の指揮官は新しくジョセフ・フッカー少将が引き継いだ。フッカーは騎兵軍団を集中させることの戦略的価値をよく理解しており、ストーンマンにその軍団指揮官を指名した。集中された騎兵軍団は敵の領土内に長い襲撃を行うことができ、物資の供給線を破壊し、敵軍に関する情報を集めることができた。この軍団は小さな歩兵部隊の指揮官に従属する必要が無かった。 チャンセラーズヴィルの戦いの作戦は戦略的に大胆なものだった。フッカーはストーンマンにその騎兵軍団でロバート・E・リー軍の後方深く入り込み、重要な鉄道や供給線を破壊し、リーの目をフッカー主力の攻撃から逸らせるという重要な役割を与えた。騎兵軍団は1863年5月に良いスタートを切ったが、ラピダン川を渡った後は直ぐに行き詰まりになった。戦闘全体に果たしたストーンマンの功績はほとんど無く、フッカーはそれをチャンセラーズヴィルで北軍が敗北した主要な理由の一つと考えた。フッカーは自分から批判の矛先を逸らす必要があり、ストーンマンを騎兵指揮官から解任し、治療が必要(騎兵任務で悪化した慢性痔疾)という理由でワシントンD.C.に送り返した。ストーンマンは7月にアメリカ合衆国騎兵局長となり、机上の仕事となった。ポトマック川沿いにある大規模な騎兵補給所と訓練所はストーンマンの栄誉を称えて、ストーンマン・キャンプと名付けられた。 1864年早く、ストーンマンはワシントン守備隊任務に我慢できなくなり、旧友でオハイオ軍を指揮していたジョン・マカリスター・スコフィールド少将に野戦指揮官職を求めた。始めは歩兵軍団長を予定されたが、騎兵軍団の指揮を執ることになり、その軍団はオハイオ軍と呼ばれるようになった。ウィリアム・シャーマン少将の下でアトランタ方面作戦を戦っている時に、ストーンマンとその副官マイルズ・キーホーがジョージア州メイコン郊外で南軍兵に捕らえられ、北軍では最高位の戦争捕虜になった。その後3ヶ月間捕虜になっていた。 ストーンマンはシャーマン自らの南軍に対する要請で比較的早く捕虜交換となり、任務に戻った。1864年12月、ストーンマンは東テネシーからバージニア州南西部に至る襲撃を率いた(マリオンの戦い他)。1865年にはバージニアからノースカロライナ州に入り、セイラムや他の町を奪い、ソールズベリーでは約1,400名の捕虜を解放した。その働きが認められて正規軍の名誉少将に昇進した。その部隊はリッチモンドから逃亡中のアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスをもう少しで捕まえるところだった。1865年6月、テネシー方面軍指揮官に指名され占領したメンフィス市を統治した。そこでは軍政府の北軍兵の中に黒人が混ざっていることに怒ったまだ反抗的な市民の間に暴動が起こった。ストーンマンは何もしないことで批判され、連邦議会の委員会に調査されたが、潔白とされた。
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南北戦争での従軍
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「ウィリアム・J・ハーディ」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
ハーディは、生まれ故郷のジョージア州がアメリカ合衆国から脱退した後の1861年1月31日にアメリカ陸軍を除隊した。3月7日には大佐として南軍に入隊し、アラバマ州モーガン砦とゲインズ砦の指揮を任された。その後6月17日に准将、10月7日に少将に昇進した。1862年10月10日までに、南軍の最初の中将の一人となった。将軍としての最初の任務はアーカンソー連隊の1個旅団を組織化することであり、物資補給の難しい課題を解決し、その旅団に完璧な訓練を施すことで、その兵士や仲間の士官に感銘を与えた。この指揮官の時に「信頼できる老人」(Old Reliable)という渾名を貰った。アーカンソー州で従軍した後、アルバート・ジョンストン大将のミシシッピ軍で軍団指揮官として呼び出され、シャイローの戦いに参加した。1862年4月6日のこの戦いで腕を負傷した。ジョンストンがシャイローで戦死し、ハーディの軍団はブラクストン・ブラッグ将軍のテネシー軍指揮下に入った。 1862年のペリービルの戦いでは、ハーディがブラッグ軍の左翼を指揮した。その年の12月、ハーディが最も成功したとされるストーンズリバーの戦いでは、その第2軍団が北軍ウィリアム・ローズクランズ少将の軍に大挙急襲をかけ、敗北寸前まで逐いやった。タラホーマ方面作戦の後、ハーディは短気なブラッグに辛抱できなくなり、短期間、ジョセフ・ジョンストン将軍の下でミシシッピ東ルイジアナ方面軍を指揮した。この期間に、アラバマ州のプランテーション所有者メアリー・フォアマン・ルイスと出会い、1864年1月に結婚した。 チカマウガの戦いの後でハーディはブラッグ軍に復帰し、テネシー州チャタヌーガではレオニダス・ポークの軍団を引継ぎ、そこで北軍を包囲した。1863年11月の第三次チャタヌーガの戦いでは、テネシー軍のハーディ軍団は、北軍ジョージ・ヘンリー・トーマス少将の部隊がミッショナリーリッジの難攻不落と思われた防衛戦に攻撃を掛けたときに敗北を喫した。 ハーディはブラッグの下で仕えることについて抗議行動を再開し、意を同じくする士官達の集団に加わり、最終的にはアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスを説得してその旧友を解任させた。1864年のアトランタ方面作戦では、ジョセフ・ジョンストン将軍が南軍の指揮を執った。ジョンストンが北軍ウィリアム・シャーマン少将に対して操軍と撤退を繰り返すと、アメリカ連合国は辛抱できなくなり、より攻撃的なジョン・ベル・フッド中将に指揮官を交代させた。ハーディはフッドの向こう見ずな攻勢と大きな損失に我慢できなかった。8月31日と9月1日のジョーンズバラの戦い後、転任を要請して、サウスカロライナ州、ジョージア州およびフロリダ州の方面軍指揮官に転属となった。シャーマンの海への進軍に対抗して、不適切な部隊でできる限りの抵抗をしたが、最終的に12月20日にジョージア州サバンナを明け渡した。シャーマンがカロライナ方面作戦で北に転進すると、ハーディは1865年3月のノースカロライナ州ベントンビルの戦いに参加したが、そこで唯一人の息子が騎兵戦で戦死した。ハーディは4月26日、ダーラム・ステーションでジョンストンと共にシャーマンに降伏した。
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南北戦争での従軍
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「エドウィン・サムナー」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
1861年2月、デイビッド・E・トウィッグス准将が退任間近いジェームズ・ブキャナン大統領によって反逆罪で軍隊から解任され、3月12日、新たに就任したばかりのリンカーン大統領によって、サムナーがトウィッグスに代わり、3月16日付けで正規軍に3人しかいない准将の一人に指名された。サムナーはこうして脱退の危機により創設された北軍の最初の新将軍となった。続いてアルバート・ジョンストン准将に代わりカリフォルニア州の太平洋方面軍指揮に派遣され、1861年の南北戦争には関わりが無かった。 1861年11月、サムナーは1個師団を指揮するために東部に呼び戻され、1862年5月5日には北軍の少将に昇進した。3月にジョージ・マクレラン少将がポトマック軍の編成を始めたとき、サムナーはその新しい軍団の一つの指揮を与えられた。マクレランは当初その軍隊に軍団を作っていなかったが、サムナーはその年功に基づきリンカーンが選んだ5人の軍団指揮官の一人となった。サムナーが指揮した第2軍団にはダライアス・コウチ、ウィンフィールド・スコット・ハンコックおよびアンドリュー・A・ハンフリーズが居り、東部戦線でも最善の軍団の一つという評判に相応しいものだった。ポトマック軍の中でも最年長の将軍であるサムナーは、半島方面作戦とその七日間の戦いを通じて軍団を率いた。 マクレランは緒戦の1862年5月5日、ウィリアムズバーグの戦いのときにサムナーについては芳しくない評価を抱いた。マクレランが不在の間に、サムナーは引き分けに終わった戦いを統率し、それで南軍が半島を遡って後退することを阻止できなかった。マクレランはその妻に宛てて「サムナーは想像していたよりも偉大な馬鹿であることを証明し、我が軍を敗北させる愚か者となろうとしている。」と書き送った。しかし、セブンパインズの戦いの時は、サムナーの独創で雨で脹れ上がって危険だったチカホミニー川を渉って援軍を送り、北軍にとっての大惨事を防いだ。セブンパインズでの勇敢さに対し、正規軍の少将に名誉昇進した。この栄誉にも拘わらず、七日間の北軍退却の間、マクレランはサムナーが最上位の軍団指揮官であることを知りながら、自分が不在の時もサムナーを副指揮官に指名しようとしなかった。サムナーはグレンデイルの戦いで腕と手を負傷した。 1862年の秋、アンティータムの戦いで、サムナーは論争の中心となった。ウェストウッドに向けてジョン・セジウィック准将師団に命じた朝の攻撃は南軍の反撃によって壊滅された。セジウィック隊は大いに混乱しての退却を強いられて出発点に戻るしか無く、2,200名の損失を出した。サムナーは歴史家の大半から、その「向こう見ずな」攻撃、他の軍団指揮官と協調していなかったこと、セジウィックの師団に同行して他の攻撃師団の統制ができていなかったこと、攻撃前に適切な偵察をしていなかったこと、および異常な戦闘隊形を選んだことで南軍が側面を衝く反撃を有効にしてしまったことで非難された。しかし、歴史家のM・V・アームストロングの最近の研究では、サムナーは適切な偵察を行っており、彼が攻撃を行ったところでの決断はその時得ていた情報によって正当化されると結論づけていた。 アンブローズ・バーンサイド少将がポトマック軍指揮を引き継いだときに、軍団を集めて「大師団」を作り、サムナーを右大師団指揮官に指名した。この任務にあったときに、古参騎兵(サムナーのこと)は大惨事となったフレデリックスバーグの戦いに参戦し、メアリー高地の防御を施した敵陣地に正面攻撃を掛け、その第2軍団が大きな損失を蒙った。 その後間もなく、ジョセフ・フッカー少将がポトマック軍指揮を任され、サムナーは自発的に解任された。サムナーはその後、ミズーリ方面軍指揮官に指名されたが、翌年の春まで指揮を執ることは無かった。サムナーはニューヨーク州シラキュースの娘の家に行き、そこで心臓発作のために1863年3月21日に死んだ。
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南北戦争での従軍
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「スタンド・ワティー」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
ワティーは南北戦争の両軍で、准将の位まで昇った只2人のインディアンの1人だった。もう一人は北軍に付いたセネカ族のイーライ・S・パーカーだった。 ジョン・ロス酋長やチェロキー委員会がアメリカ連合国支持を決めた後で、ワティーは1個騎兵連隊を組織した。1861年10月、ワティーは第1チェロキー騎馬ライフル連隊の大佐に任官された。ワティーは北軍とも戦ったが、チェロキー族の派閥間の闘争や、北軍支持を選んだクリーク族やセミノール族などとも戦った。1862年3月6日から8日、アーカンソー州で行われ、北軍が勝利したピーリッジの戦いではワティーの果たした役割で注目された。ワティーの部隊は北軍の砲兵陣地を占領し、戦場から退却する南軍を遮蔽した。 チェロキー族の南軍支持が壊れた後で、ワティーはその騎兵隊の残党を率い続けた。サミュエル・ベル・マクシー将軍によって准将に昇進され、騎馬ライフル2個連隊とチェロキー族、セミノール族及びオーセージ族の歩兵3個大隊からなる第1インディアン旅団の指揮を任された。この部隊はインディアン準州(現在のオクラホマ州)カナディアン川の南に基地を置き、周期的に川を渉って北軍の支配地内に入った。インディアン準州、アーカンソー州、ミズーリ州、カンザス州およびテキサス州を含みアメリカ連合国西部州で多くの戦闘や小競り合いを戦った。ワティーの部隊はミシシッピ川の西で他の部隊よりも多くの戦闘を戦ったと言われている。 ワティーはインディアン準州内では、最大の南軍勝利と呼ばれる戦いにも参加した。これは1864年9月半ばにキャビン・クリークで起こったものであり、ワティーとリチャード・モンゴメリー・ガノ将軍が襲撃隊を率いて北軍輜重車隊を捕獲し、およそ100万ドルに相当する荷車、ロバ、日用品その他必需品を手に入れたものである。 南北戦争中、ワティーの家族はテキサス州東部のラスク郡とスミス郡で他の南軍派チェロキー族と共に留まっていた。この社会は当時「テイバー山共同体」と呼ばれ、またテキサス州ベルビューの町名でも呼ばれており、戦士たちはその妻や子供達が比較的安全だと分かって作戦行動に出掛けていくことができた。テキサス州東部で苦戦もあったが、チェロキー族や同盟部族の戦士たちは、有能な南軍戦闘部隊として、戦争全体を通じてインディアン準州南部やテキサス州北部の大半で北軍の進出を拒み続けた。 1865年6月23日、インディアン準州のチョクトー族の領土であるトウソン砦でのドークスビルの戦いに続き、ワティーは北軍の代表とワティーのミシシッピ川流域軍第1インディアン旅団との休戦合意に署名し、南軍野戦部隊で降伏した最後の将軍になった。
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南北戦争での従軍
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「エドワード・オード」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
南北戦争が勃発した後、オードの最初の任務はペンシルベニア予備役隊の1個旅団指揮官だった。この任務にあるとき、1861年秋のドレインズビルの戦いで頭角を現した。 1862年5月3日、オードは志願兵の少将に昇進し、短期間ラッパハノック軍管区で務めた後に、テネシー軍第2師団の指揮を任された。ユリシーズ・グラント少将がウィリアム・ローズクランズ少将の部隊と共にオードに2個師団を付けて派遣し、ミシシッピ州イウカでスターリング・プライスの部隊を止めさせた。おそらくは音響陰影のために大砲の音が届かなかったのでオードの部隊は参戦することなく、ローズクランズ隊だけで戦った。オードはまた第二次コリンスの戦いでも戦闘に参加できなかったが、退却する南軍とハッチー橋の戦いで交戦した。そこでオードは重傷を負い、短期間ではあるが野戦指揮官から離れるしかなかった。グラントがその配下からジョン・A・マクラーナンド少将を解任した時、ビックスバーグの包囲戦で最後の数日間、オードはタイミングよく第13軍団の指揮官に就くことになった。 ビックスバーグ陥落後、オードはメキシコ湾岸軍第13軍団指揮官に留まった。1864年、オードは東部戦線に転任となり、第18軍団の指揮官に就いた。その軍団はクレーターの戦いの時も戦場にいたが、戦闘に能動的に関わらなかった。1864年秋、チャフィン農園の戦いで重傷を負い、1865年1月まで実戦に戻れなかった。 オードの軍歴は1865年春が頂点となり、アポマトックス方面作戦のときにジェームズ軍指揮官となった。オード軍のジョン・ギボン少将の軍団がピーターズバーグ突破で重要な役割を演じた。4月9日、アポマトックス・コートハウスに進軍してフィリップ・シェリダン少将の騎兵隊を解放し、リー将軍に降伏を強いた。シャーマン将軍は「常にオードの技能を理解しており、その前夜の大変な行軍がリーを降伏させるための重要な要因になった」と言った。 1865年3月、バージニア州での捕虜交換でオードは南軍のジェイムズ・ロングストリート将軍と話をした。この会話の中で、休戦の話題が持ち上がった。オードは最初の行動はリーとグラントが会談することだと提案した。ロングストリート将軍はこのアイディアをリー将軍に持ち帰り、リーは戦争を終わらせる議論をするために会談の可能性についてグラントに手紙を書いた。幾つかの文書がやり取りされたあとで、マクリーン・ハウスで会談が持たれることで合意された。 オードはリーが降伏したマクリーン・ハウスに同席しており、しばしばこの出来事の絵画にも描かれている。降伏の儀式が完了すると、オードはリーが座っていた大理石製天板の卓を40ドルで買って土産にした。この卓はシカゴ歴史協会の南北戦争の間に置かれている。
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南北戦争での従軍
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「ジョン・C・ペンバートン」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
1861年に南北戦争が始まったとき、ペンバートンはその任務を辞して北部の生まれながら南軍に加わることを選び、アメリカ陸軍を除隊し、4月29日付けで認められた。その決断はバージニア州生まれの妻の影響と戦前は長年南部州で勤務したことによっていた。3月28日に南軍の中佐に任官され、4月29日にアメリカ連合国首都リッチモンド内外の軍隊で総務局長補佐となった。5月8日に大佐に昇進し、翌日中佐の階級でバージニア暫定軍砲兵隊に配属された。6月15日には南軍砲兵隊の少佐に指名され、2日後には准将に昇進した。ペンバートンの最初の旅団指揮はノーフォーク方面軍であり、その第10旅団を6月から11月まで率いた。 ペンバートンは1862年1月14日に少将に昇進し、サウスカロライナとジョージアの方面軍指揮を任された。この任務はサウスカロライナ州チャールストンに作戦本部を置き、3月14日から8月29日まで続いた。ペンバートンの癇に障る性格、もし彼が選択しなければならないなら、その少数の軍隊を失う危険を冒すよりもその地域を放棄するという声明や、彼が北部の生まれであるという不信感の結果として、両州の知事はアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスにペンバートンの解任を請願した。デイヴィスは新設のミシシッピ方面軍の指揮官を必要としており、P・G・T・ボーリガード将軍にも指揮官の役割を必要としたので、ペンバートンを西部に派遣し、人気のあるボーリガードをチャールストンに配属した。
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南北戦争での従軍
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「ウィリアム・ペンドルトン」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
1861年に南北戦争が始まると、ペンドルトンは南軍に従う道を選んだ。3月16日に大尉の階級で南軍正規砲兵隊に入隊し、5月1日にはバージニア砲兵隊の大尉に選らばれた。ロックブリッジ砲兵隊と呼ばれる4門の大砲からなる隊を指揮したが、大砲に聖書の福音書に因んでマタイ、マルコ、ルカおよびヨハネと名前を付けた。7月2日、ペンドルトンは小規模なフォーリングウォーターズの戦いに参戦し、そこで「彼と彼の砲兵隊は巧く立ち回った。」7月13日、ペンドルトンは大佐に昇進し、7月21日の第一次ブルランの戦いのときは、ジョセフ・ジョンストン准将部隊の砲兵隊長を務めた。この戦闘で耳と背中を負傷した。 1861年7月から、ペンドルトンは南軍のポトマック軍砲兵を指揮し、1862年3月14日、その軍隊が北バージニア軍と改名した後もその役割を続けた。3月26日、准将に昇進した。7月3日、大砲を弾くロバに脚を蹴られ、おそらくそこの骨を折るという怪我をした。 ペンドルトンが南北戦争で最も注目されたのは1862年のメリーランド方面作戦でのことだった。アンティータムの戦いが終わった後の9月19日夜、リーはペンドルトンに殿軍の歩兵隊を指揮させ、翌朝までポトマック川の渡しを守るよう命令した。浅瀬を守る位置を指揮していたにも拘らず、「ペンドルトンはその部隊の通った道を見失い、その場の支配ができなかった。」(シェパーズタウンの戦い)ペンドルトンは夜半過ぎにリーを起こすと、その陣地が取られ、大砲の全てが捕獲されたと狂ったように報告した。これはかなり誇張されており早とちりであることが後で分かった。実際に捕獲された大砲は4門だけだったが、「十分な理由もなく」その歩兵隊を引き上げさせていた。リッチモンドの新聞は戦争の残り期間、この事件を意地悪く報道し、配下の兵士や全軍中であからさまな噂や冗談が広がった。少なくとも1回、軍隊査問委員会がペンドルトンのシェパーズタウンでの行動を調査する為に開催された。 戦争の残り期間、ペンドルトンは北バージニア軍での従軍を続け、東部戦線での1863年と1864年の主要作戦に参加した。しかし、戦争後半の2年間、その役割は大半が管理業務であり、実際に指揮したのは予備の兵站部だけだった。戦争期間を通じて宗教的な行動を続け、いつも部隊兵に説教した。ペンドルトンは1865年4月9日にリー軍と共にアポマトックス・コートハウスで降伏し、そこで仮釈放されて故郷に戻った。
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南北戦争での従軍
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「エドワード・ポーター・アレクサンダー」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
出身州であるジョージア州がアメリカ合衆国から脱退したことを知ったアレクサンダーは1861年5月1日付けでアメリカ陸軍から除隊し、工兵大尉として南軍に加わった。新兵を編成して訓練し南軍信号隊を結成する間、バージニア州マナサス結節点でP・G・T・ボーリガード准将の元に出頭するよう命令を受けた。6月3日には南軍ポトマック軍の工兵隊長および信号士官となった。第一次ブルランの戦いでは、戦闘中に長距離を信号旗を使って伝言を送ることで歴史上最初の者になった。アレクサンダーはマナサスの「シグナルヒル」頂上に位置を占め、北軍の動きを察知してネイサン・"シャンクス"・エバンス大佐の旅団に「貴部隊の左に気をつけろ。陣地に回りこまれている」という信号を送った。これはその部隊が左側面から攻撃を受ける危険性があることを意味していた。ボーリガード将軍とジョセフ・ジョンストン将軍は同様な伝言を受け取って、タイミングよく援軍を送り、戦闘の流れを南軍側に引き寄せた。 アレクサンダーは7月1日に少佐、12月31日に中佐に昇進した。この期間の大半はジョンストン指揮下の北バージニア軍で兵站部長を務め、また信号の仕事や情報収集にも活動し、ワシントンD.C.周辺で広範にスパイを活動させた。 1862年の半島方面作戦初期段階で、アレクサンダーはジョンストンの下で兵站部長を継続したが、ウィリアムズバーグの戦いでなんとか戦闘に参加でき、その時の功績はジェイムズ・ロングストリート少将に称賛された。ロバート・E・リー将軍が軍隊指揮を執るようになり、アレクサンダーは七日間の戦いでリーの攻勢に向けて事前に兵站を配置した。6月27日のゲインズミルの戦いでは熱気球を上げることを提案して情報収集を継続し、試みること数度にして北軍の配置に関する価値ある情報を集めた。北バージニア方面作戦(第二次ブルランの戦い)およびメリーランド方面作戦(アンティータムの戦い)では兵站部任務を継続した。 アレクサンダーは南北戦争の重要戦闘の多くで傑出した役割を果たした砲兵としても良く知られている。北バージニア軍のロングストリート第1軍団で様々な砲兵任務に就いた。1862年11月7日にこの役目を始め、リーの参謀に軍団砲兵予備隊である大隊を指揮させた。12月5日には大佐に昇進した。1862年12月のフレデリックスバーグの戦いではメアリーズ高地の防衛に砲兵隊を配置する主導者となり、これが南軍勝利の決定的要因になった。ロングストリート軍団の一部がバージニア州サフォーク周辺に駐屯するあいだ、アレクサンダーはストーンウォール・ジャクソンに同行し、1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いにおけるその側面回りこみに参加して、チャンセラーズヴィルのヘイゼルグラブに配置したその砲兵隊が勝利を決することになった。
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南北戦争での従軍
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「ジョセフ・ウィーラー」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
南北戦争が始まった時の1861年4月22日にウィーラーはアメリカ陸軍を除隊した。3月16日にジョージア州民兵砲兵隊に仕える中尉としてアメリカ連合国軍に入隊し、その後フロリダ州ペンサコーラ沖のバランカス砦勤務となった。さらにアラバマ州ハンツビルに行って新設された第19アラバマ歩兵連隊の指揮を任され、9月4日に大佐に昇進した。 ウィーラーと第19アラバマ歩兵連隊は1862年4月のシャイローの戦いで、ブラクストン・ブラッグ将軍の下で良く戦った。その後騎兵隊に転属になり、9月から10月はミシシッピ軍右翼の第2騎兵旅団を指揮した。10月のペリービルの戦いに参戦し、戦いの後で撤退する軍隊の後衛を立派に務めた。10月30日に准将に昇進し、11月から12月はテネシー軍第2軍団に属する騎兵隊を率いた。11月27日のテネシー州ラベルニュでの戦闘中に近くで爆発した砲弾で負傷した。 1862年が暮れる前に、テネシー軍の騎兵隊全部隊を指揮し(当初は臨時)、1863年1月20日に少将に昇進した。その2日後にテネシー軍の騎兵隊が公式に軍団編成となり、ウィーラーはこれを1月から11月24日までと12月から1864年11月15日まで率いた。1863年1月12日から13日のカンバーランド川での戦闘における功績で、ウィーラーとその騎兵は1863年5月1日にアメリカ連合国議会から感謝状を受けた。 1863年9月にはチカマウガの戦いに参戦し、壊走した北軍がチャタヌーガに集結した後で、ブラッグ将軍がウィーラー隊をテネシー州中部に派遣し、鉄道や北軍の補給基地を破壊する襲撃を行わせたので、第三次チャタヌーガの戦いのときは参戦できなかった。11月25日にミッショナリーリッジで北軍が南軍の戦線を突破した後で、ブラッグ軍のチャタヌーガからの退却を援護した。また11月4日から12月23日に掛けて行われて不成功に終わったジェイムズ・ロングストリート中将のノックスビル方面作戦も支援し、11月27日ジョージア州リングゴールド近くでの戦闘で足を負傷した。 ウィーラー隊は、北軍ウィリアム・シャーマン少将のアトランタ侵攻に対抗するものを含み、1864年の方面作戦に、この時はジョン・ベル・フッドが指揮するテネシー軍と共に参戦した。1864年遅く、ウィーラー隊はシャーマンの海への進軍から戦争の残り期間、南軍の実質的に唯一対抗できる部隊となった。ウィーラー(この時恐らくは中将、ただし議論の余地あり)とその部隊は1865年にウェイド・ハンプトン中将の騎兵隊に付けられ、3月19日から20日のベントンビルの戦いに参戦した。5月にジェファーソン・デイヴィスの南と西への逃亡を援護しているときに、アトランタの直ぐ東、コニア駅で捕まり、2ヶ月間収監された。ウィーラーはミシシッピ川に向かって、まだ西部で抵抗を続けているエドマンド・カービー・スミス将軍の軍に加わるつもりだった。捕まった時は部隊の3人の参謀士官と11人の兵卒と同行していた。6月8日にデラウェア砦での拘禁から釈放された。 南軍に従軍した間にウィーラーは3度負傷し、戦闘で36人の部下の士官を失い、乗っていた馬は16頭撃たれた。軍事歴史家のエズラ・J・ワーナーはウィーラーの戦闘で騎兵を率いた行動はネイサン・ベッドフォード・フォレストに次ぐものだと考えた。ウィーラーは、ロバート・E・リー将軍から南軍の騎兵隊指揮官として最も傑出した者の一人と言われた。
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南北戦争での従軍
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「リチャード・H・アンダーソン」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
アンダーソンはその故郷である州とアメリカ連合国に付く道を選び、アメリカ陸軍を退役し(1861年3月3日に承認)、南軍に入隊した。1月28日付けで第1サウスカロライナ歩兵連隊の大佐としての任務を受けた。4月のサムター砦占領後はチャールストン港地域の指揮官を任された。7月19日に准将に昇進し、フロリダ州ペンサコーラに転属となり、10月9日のサンタローザ島の戦いで左肘を負傷した。 この傷が快復すると1862年2月に旅団指揮官としてポトマック軍に加わった(その春には北バージニア軍に吸収された)。半島方面作戦では5月のウィリアムズバーグの戦いとセブンパインズの戦い、および6月から7月の七日間の戦いで頭角を現した。グレンデイルの戦いではジェイムズ・ロングストリート少将の師団を一時的に指揮した。半島での優れた功績により、7月14日に少将に昇進し、ロングストリートの第1軍団で第2師団の指揮を任された。 8月の第二次ブルランの戦いでは、アンダーソンの掛けた攻撃が北軍の戦線を突破し、ワシントンD.C.周辺の塹壕まで撤退に追い込んだ。9月のアンティータムの戦いでは、南軍防衛線の中央にあって、窪んだ道路すなわち「ブラッディ・レイン」での全体指揮を執った。アンダーソンは太腿に負傷して戦場を離れ(上級准将のロジャー・A・プライアーが引き継いだ)その後はその師団が躓き始め最終的に北軍の側面攻撃に圧倒されてその陣地から壊走することになった。その後12月のフレデリックスバーグの戦いでは、その師団は激しく戦うことは無かった。 1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いでは、ロングストリート隊と離れて行動しており(ロングストリートはこの時サフォーク近くでの任務に派遣されていた)、アンダーソンはストーンウォール・ジャクソン中将が北軍の右翼を攻撃しているときに北軍左翼を押し込んだ。アンダーソンとラファイエット・マクローズ少将は5月3日に主戦線を離れ、東に向かってロバート・E・リー将軍の後方に回りこむ怖れのあるジョン・セジウィック少将の第6軍団の前進を牽制した。5月10日のストーンウォール・ジャクソンの戦死に続いて、リーはその軍隊を再編し2個軍団から3個軍団に変えた。アンダーソンはリーの覚えが良く、軍団指揮官にと考えられたが、その師団はこのとき中将となったA・P・ヒルの新しい第3軍団に割り当てられた。
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南北戦争での従軍
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「ホレイショ・ライト」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
南北戦争が始まると、ライトは1861年4月20日に、ゴスポート海軍基地(後にノーフォーク海軍造船所と改名)が南軍に利用されることを妨げるためにその撤退と破壊に加わった。この作業中に捕虜になったが、4日後には釈放された。 ライトは首都ワシントンD.C.周辺の要塞化を始め、その後サミュエル・P・ハインツェルマン少将の北東バージニア軍管区第3師団に配属された。1861年7月1日の第一次ブルランの戦いでは第3師団の技師長を務め、8月には少佐に昇進した。翌月には志願兵の准将に昇進し、11月のトマス・W・シャーマン少将によるポートロイヤル遠征にはその技師長に任命された。1862年2月から6月まで、ジャクソンビル、セントオーガスティンその他フロリダ海岸の軍事目標に対する作戦で功績を上げ、8月には志願兵の少将に指名されてオハイオ軍管区指揮官となり、1863年3月には新しく創られたオハイオ軍指揮官となった。1862年に南軍ブラクストン・ブラッグ将軍がケンタッキー州に侵攻したときは、その撃退のために重要な兵站を担った。ライトの少将昇進はアメリカ合衆国上院で確認されることなく、1863年3月には取り消された。准将としてのライトは軍指揮官として適格とは考えられず、アンブローズ・バーンサイドが派遣されて指揮を交代した。バーンサイドの下についたライトは短期間西ケンタッキー地区軍指揮官として留まった後で、東部に戻った。 1863年5月、ライトはジョン・セジウィック少将が指揮するポトマック軍第6軍団の第1師団指揮を任された。この師団指揮官として最初の戦闘が7月のゲティスバーグの戦いだったが、その師団が属する軍団は予備隊とされた。その軍団は11月のマイン・ラン方面作戦、1864年5月5日から6日の荒野の戦いに参戦した。5月9日のスポットシルバニア・コートハウスの戦いでセジウィック将軍が戦死した後、ライトが第6軍団の指揮を執り、志願兵の少将に昇進し(今回は上院も確認した)、1864年5月12日には正規軍の名誉大佐となった。 ライトの軍団は1864年6月3日から12日のコールドハーバーの戦いに参戦した。1864年のバレー方面作戦ではワシントンD.C.に派遣され、第6、第8および第19軍団からなるワシントン緊急防衛軍を指揮して、南軍ジュバル・アーリー中将の7月11日と12日の首都襲撃に対して防衛した。スティーブンス砦の戦いの時に、敵の砲火に曝されている胸壁にエイブラハム・リンカーン大統領を招いて悪評を受けた(若い中尉だったオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアが遮蔽の下に大統領を誘導するように呼びかけたと言われている)。 ライトは、8月6日から10月16日に掛けて行われたフィリップ・シェリダン少将のバレー方面作戦では再び第6軍団を指揮した。10月19日のシーダークリークの戦いではシェリダン将軍が到着するまで全軍を指揮した。 ピーターズバーグ包囲戦では、1865年4月2日に第6軍団が南軍の防衛線を破る最初の部隊になった。その後シェリダンの指揮の下に動き、4月6日のセイラーズクリークの戦いで南軍を破り、リチャード・イーウェル中将を含み多くの南軍兵を捕虜にした。ピーターズバーグでの戦功に対して、正規軍の少将に名誉昇進した。
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南北戦争での従軍
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「カドマス・M・ウィルコックス」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
ニューメキシコ準州で勤務していた1861年6月、ウィルコックスはテネシー州がアメリカ合衆国から脱退したことを知った。アメリカ陸軍からの退役を申し出た(6月8日に承認)後、バージニア州リッチモンドに赴き、そこで3月16日付けで南軍砲兵隊の大尉に任官された。後に大佐に昇進し、7月9日には第9アラバマ歩兵連隊の指揮官を任された。 ウィルコックスはその連隊と共に7月16日にジョセフ・ジョンストン准将のシェナンドー軍に合流し、P・G・T・ボーリガード准将のポトマック軍を支援するために、マナサスに行軍した。これは7月21日に第一次ブルランの戦いが行われる直前だった。 10月21日に准将に昇進し、第3アラバマ、第1ミシシッピおよび第1バージニア各歩兵連隊と砲兵1個大隊からなる1個旅団の指揮官となった。この旅団は北バージニア軍第1軍団のジェイムズ・ロングストリート少将が指揮する師団に割り付けられた。1862年の半島方面作戦では5月5日のウィリアムズバーグの戦いで目立った働きをした。 セブンパインズの戦いでは、ウィルコックスが2個旅団を指揮し、6月27日、七日間の戦いでのゲインズミルの戦いでは3個旅団、彼自身の旅団にフェザーストンとプライアーの旅団を合わせて指揮した。6月30日のグレンデイルの戦いではウィルコックス指揮下の連隊指揮官が全て戦死し、ウィルコックス自身もその衣服を貫通する銃弾を6発も受けたが何とか負傷は免れた。七日間の戦いにおけるウィルコックス旅団の損失はロングストリート師団の他のどの旅団よりも大きかった。その後北バージニア方面作戦、メリーランド方面作戦さらには12月のフレデリックスバーグの戦いでウィルコックスの旅団は重要な戦闘に参加することは無かった。 1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いではリチャード・H・アンダーソン少将師団の一部として、北軍第6軍団がフレデリックスバーグから西に進軍するのを遅延させ、さらにセーラム教会の戦いで遅らせた。この戦闘直後の5月30日、ウィルコック旅団はアンダーソン師団共々、新しく結成されたA・P・ヒル中将の第3軍団に組み入れられた。
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南北戦争での従軍
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「ジョン・ハント・モーガン」の記事における「南北戦争での従軍」の解説
大半のケンタッキー人と同様に、モーガンはアメリカ合衆国からの脱退を支持しなかった。1860年11月にエイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれた直後、当時オハイオ州北部のケニオン大学の学生だった弟のトマス・ハント・モーガンに宛てて、「我々の州は脱退しないことを希望する。疑いも無くリンカーンは良い大統領になる。少なくと彼にはやらせてみるべきだ。彼が何らかの明白な行動を取れば南部は一つになるだろう」と書いた。翌年春、弟のトマス(彼もケンタッキー州の脱退に反対していた)が、ケンタッキー士官学校に移り、そこでアメリカ連合国を支持し始めた。7月4日の直前、トマスは密かにテネシー州との州境にあったキャンプ・ブーンを離れ、ルイビルから蒸気船で川を渡ってケンタッキー州兵隊に入隊した。ジョン・ハント・モーガンは問題のある事業や病気の妻の面倒を見るためにレキシントンの家に留まっていた。妻は遂に1861年7月21日に死んだ。9月、モーガン大尉とその民兵中隊はテネシー州に向かい南軍に合流した。モーガンは間もなく第2ケンタッキー騎兵連隊を立ち上げ、1861年4月4日付けで連隊付き大佐となった。 モーガンとその騎兵隊は1862年5月のシャイローの戦いに参戦し、間もなく南軍にケンタッキー州を取り込みたいという望みの中で脱退主義者の象徴的存在になった。ルイジアナ州の作家ロバート・D・パトリックはモーガンをフランシス・マリオンに擬え、「彼のような男達数千が我々にケンタッキー州とテネシー州を齎す(もたらす)」と書いた。モーガンの最初のケンタッキー州襲撃では、約900名の部隊を率いて7月4日にテネシー州ノックスビルを発ち、3週間かけてケンタッキー州中を席捲し、北軍ドン・カルロス・ビューエル少将軍の背後深く進入した。北軍兵1,200名を捕虜にしてその後釈放し、数百頭の馬を手に入れ、大量の物資を破壊した。ケンタッキーの北軍軍政府を不安にさせ、リンカーンは多くのひどく興奮した救援要請を受け取ったので、「彼等はケンタッキーで家畜を暴走させている」とこぼした。歴史家のケネス・M・ノーは、モーガンの妙技は、「その年春のジョージ・マクレランとポトマック軍に対するJ・E・B・スチュアートの世に知られた襲撃よりも多くの面で上回っていた」と書いた。モーガンの襲撃の成功はその秋に、ブラクストン・ブラッグとエドマンド・カービー・スミスによる南軍ホームランド攻勢が始められた重要な要因のひとつであり、彼等がケンタッキーに侵攻すれば、何万ものケンタッキー人が南軍に入隊してくると思っていた。 モーガンは1862年12月1日に准将に昇進した(彼の最高位)。1863年5月1日には、12月と1月の北軍ウィリアム・ローズクランズ少将軍の供給線に対する襲撃、中でも12月7日のハーツビルの戦いでの勝利に対して、アメリカ連合国議会から感謝状を受けた。12月にはまた、テネシー州選出合衆国下院議員チャールズ・レディの娘で、もう一人の下院議員ウィリアム・T・ハスケルの従姉妹でもあるマーサ・"マッティー"・レディと結婚した。
※この「南北戦争での従軍」の解説は、「ジョン・ハント・モーガン」の解説の一部です。
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