バージニア軍
バージニア軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:27 UTC 版)
「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「バージニア軍」の解説
リンカーン大統領はマクレランの失敗に反応して新しく結成されたバージニア軍の指揮官にはジョン・ポープを指名した。ポープは西部戦線で幾つかの成功を収めており、リンカーンはマクレランよりも好戦的な将軍を求めた。バージニア軍は3軍団で総計5万名以上の勢力だった。マクレランのポトマック軍のうち3軍団は後に戦闘の際に付け加えられた。2個歩兵軍団に2個騎兵連隊が付けられたが、中央の管制が及ばないようになり、作戦実行段階ではマイナスの効果しかなかった。 ポープの任務は2つの目標を果たすことだった。ワシントンとシェナンドー渓谷を守ること、および南軍をマクレラン軍から引き離し、ゴードンスビルの方向におびき寄せることだった。ポープは後者の任務を果たすために騎兵隊を派遣してゴードンスビル、シャーロッツビルおよびリンチバーグを結ぶ鉄道を破壊させようとした。その騎兵隊の出発が送れ、ストーンウォール・ジャクソンが14,000名の部隊でゴードンスビルを占領しているのを発見した。 リーはマクレランが半島においてそうであったような脅威ではなくなったと認識し、リッチモンドに直接防衛軍を置いておく必要性を感じなかった。このことで、ジャクソンをゴードンスビルに移して、ポープ軍を食い止め鉄道を守ろうと考えた。リーはもっと大きな作戦があった。北軍はポープ軍とマクレラン軍に分かれており、その連携も取れていないと見えたので、マクレランに注意を向ける前にまずポープ軍を潰そうと考えた。ノースカロライナのアンブローズ・バーンサイドの軍隊がポープの援軍のために船で向かっていると思われたので、それが到着する前に即座の行動をとることを望み、A・P・ヒル少将に12,000名の部隊を付けてジャクソン軍に合流させ、一方でマクレランの気を逸らせて動けないようにしていた。 7月29日、ポープは幾つかの部隊をシーダー山の近くに陣取らせ、そこからゴードンスビルを襲わせようとした。ジャクソンは8月7日にカルペパーまで前進し、ポープ軍の残りが集結する前にポープの1個軍団への攻撃を望んだ。8月9日、ナサニエル・バンクスの軍団がシーダー山の戦いでジャクソン軍を攻撃し、初期の優勢を勝ち得た。南軍もヒル軍が反撃してバンクス軍をシーダー・クリークを越えて撤退させた。この時までにジャクソンは、ポープの軍団が集結しており、各個撃破しようというジャクソンの作戦が難しくなっていることを理解した。ジャクソンは8月12日までそこに留まり、ゴードンスビルに引き返した。 8月13日、リーはジェイムズ・ロングストリート少将の軍をジャクソン軍の援軍に送り、翌日さらに2個旅団を残して他の全部隊を派遣した。このとき、マクレラン軍が半島を去ったことを確認できていた。リー自身は8月15日にゴードンスビルに到着し指揮を執った。リーの作戦はマクレラン軍が応援に駆けつける前にポープの軍を破ることであり、ポープ軍の後方の橋を落としておいてポープ軍の左翼と後方から攻撃を掛けようというものだった。ポープ軍はラッパハノック川の線まで後退した。ポープは北軍の騎兵による襲撃で南軍の命令書の写しを奪っており、リーの作戦に気付いていた。 8月22日から25日にかけて小競り合いが続き、ポープ軍は川沿いに釘付けになっていた。8月25日までにポトマック軍のうち3個軍団が半島から駆けつけてポープ軍を補強していた。リーは敵が増強され勢力的に劣勢になった状況に対し、新しい作戦としてジャクソンとスチュアートに全軍の半分を任せてポープ軍の側面に迂回させ、その通信線であるオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道を襲わせようとした。ポープ軍は後退を強いられ、移動中弱くなったところを叩けるというものだった。 8月26日の夕方、ジャクソン軍はポープ軍の右翼を迂回し、ブリストー駅で鉄道を破壊してさらに進軍し、8月27日の払暁にマナサス分岐点にあった北軍の大量の軍需物資を捕獲して破壊した。この急襲によって、ポープ軍はラッパハノック川に沿って急速に撤退させられることになった。8月27日から28日に掛けての夜、ジャクソンは第一次ブル・ランの戦場まで進軍し、そこでまだ工事の終わっていない鉄道路盤の背後に陣を布いた。ロングストリートの部隊はサラフェア・ギャップを通ってジャクソン軍に合流し、リー軍の2つの翼となった。
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