バージニア軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/26 09:50 UTC 版)
バージニア軍(Army of Virginia) | |
---|---|
創設 | 1862年6月26日-1862年9月12日 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
忠誠 | 北軍 |
兵科 | 軍 |
主な戦歴 | シーダー山の戦い; 第二次ブルランの戦い |
指揮 | |
著名な司令官 | ジョン・ポープ少将 |
バージニア軍(Army of Virginia)は南北戦争中の1862年夏に、3ヶ月弱存在した北軍の「軍」。
歴史
バージニア軍は1862年6月26日に、一般命令103号に基づき、バージニア州付近で活動していた4つの軍管区(Department)をまとめて編成された。即ち、ジョン・C・フレモント少将の山岳軍管区(Mountain Department)、アービン・マクドウェル少将のラッパハノック軍管区(Department of the Rappahannock)、ナサニエル・バンクス少将のシェナンドー軍管区(Department of the Shenandoah)及びワシントン軍管区(Military District of Washington)のサミュエル・スタージス(Samuel D. Sturgis)准将の旅団である。ジョン・ポープ少将が、5万人を超える将兵を有する新しく組織されたバージニア軍の司令官となった。また、北バージニア方面作戦中には、ジョージ・マクレラン少将のポトマック軍から3個軍団が派遣され、ポープの指揮下にあった。
バンクスの指揮するバージニア軍第2軍団は、シーダー山の戦いで、ストーンウォール・ジャクソン少将と戦い、当初は有利に進んでいたもの、南軍のA・P・ヒル少将の反撃を受けて敗退した。
バージニア軍全体が参加した第二次ブルランの戦いでは、ロバート・リー大将の北バージニア軍(右翼:ジェイムズ・ロングストリート少将、左翼:ジャクソン少将)に大敗し、防衛戦をワシントンD.C.にまで後退させる結果となった。1862年9月12日、バージニア軍はポトマック軍に吸収された。
司令官
組織
当初3個軍団が組織されたが、番号がポトマック軍と重複する。後のメリーランド方面作戦でポトマック軍に所属した際に、軍団番号が変更されている。
- バージニア軍第1軍団:フランツ・シーゲル少将(元はフレモントの山岳軍管区。後にポトマック軍に吸収された際に第11軍団に名称変更)
- バージニア軍第2軍団:ナサニエル・バンクス少将(元はポトマック軍第5軍団でシェナンドー軍管区に属していた。後にポトマック軍に吸収された際に第12軍団に名称変更)
- バージニア軍第3軍団:アービン・マクドウェル少将(元はポトマック軍第1軍団で、その後ラッパハノック軍管区に属していた。後に第1軍団としてポトマック軍に復帰)
- 騎兵旅団:ジョージ・ベイヤード(George Dashiell Bayard)准将
北バージニア方面作戦では、以下の軍団がポープの指揮下に入った。
- ポトマック軍第3軍団:Samuel P. Heintzelman少将
- ポトマック軍第5軍団:フィッツ・ジョン・ポーター少将
- ポトマック軍第9軍団:ジェシー・リー・リノ少将
- レイノルズ師団(ペンシルバニア予備師団):ジョン・F・レイノルズ准将
主な戦闘
- シーダー山の戦い:バンクスの第2軍団のみ傘下
- 第二次ブルランの戦い
- シャンティリーの戦い:
参考資料
- Boatner, Mark M. III, The Civil War Dictionary: Revised Edition, David McKay Company, Inc., 1984, ISBN 0-679-73392-2.
- Battles and Leaders of the Civil War
外部リンク
バージニア軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:27 UTC 版)
「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「バージニア軍」の解説
リンカーン大統領はマクレランの失敗に反応して新しく結成されたバージニア軍の指揮官にはジョン・ポープを指名した。ポープは西部戦線で幾つかの成功を収めており、リンカーンはマクレランよりも好戦的な将軍を求めた。バージニア軍は3軍団で総計5万名以上の勢力だった。マクレランのポトマック軍のうち3軍団は後に戦闘の際に付け加えられた。2個歩兵軍団に2個騎兵連隊が付けられたが、中央の管制が及ばないようになり、作戦実行段階ではマイナスの効果しかなかった。 ポープの任務は2つの目標を果たすことだった。ワシントンとシェナンドー渓谷を守ること、および南軍をマクレラン軍から引き離し、ゴードンスビルの方向におびき寄せることだった。ポープは後者の任務を果たすために騎兵隊を派遣してゴードンスビル、シャーロッツビルおよびリンチバーグを結ぶ鉄道を破壊させようとした。その騎兵隊の出発が送れ、ストーンウォール・ジャクソンが14,000名の部隊でゴードンスビルを占領しているのを発見した。 リーはマクレランが半島においてそうであったような脅威ではなくなったと認識し、リッチモンドに直接防衛軍を置いておく必要性を感じなかった。このことで、ジャクソンをゴードンスビルに移して、ポープ軍を食い止め鉄道を守ろうと考えた。リーはもっと大きな作戦があった。北軍はポープ軍とマクレラン軍に分かれており、その連携も取れていないと見えたので、マクレランに注意を向ける前にまずポープ軍を潰そうと考えた。ノースカロライナのアンブローズ・バーンサイドの軍隊がポープの援軍のために船で向かっていると思われたので、それが到着する前に即座の行動をとることを望み、A・P・ヒル少将に12,000名の部隊を付けてジャクソン軍に合流させ、一方でマクレランの気を逸らせて動けないようにしていた。 7月29日、ポープは幾つかの部隊をシーダー山の近くに陣取らせ、そこからゴードンスビルを襲わせようとした。ジャクソンは8月7日にカルペパーまで前進し、ポープ軍の残りが集結する前にポープの1個軍団への攻撃を望んだ。8月9日、ナサニエル・バンクスの軍団がシーダー山の戦いでジャクソン軍を攻撃し、初期の優勢を勝ち得た。南軍もヒル軍が反撃してバンクス軍をシーダー・クリークを越えて撤退させた。この時までにジャクソンは、ポープの軍団が集結しており、各個撃破しようというジャクソンの作戦が難しくなっていることを理解した。ジャクソンは8月12日までそこに留まり、ゴードンスビルに引き返した。 8月13日、リーはジェイムズ・ロングストリート少将の軍をジャクソン軍の援軍に送り、翌日さらに2個旅団を残して他の全部隊を派遣した。このとき、マクレラン軍が半島を去ったことを確認できていた。リー自身は8月15日にゴードンスビルに到着し指揮を執った。リーの作戦はマクレラン軍が応援に駆けつける前にポープの軍を破ることであり、ポープ軍の後方の橋を落としておいてポープ軍の左翼と後方から攻撃を掛けようというものだった。ポープ軍はラッパハノック川の線まで後退した。ポープは北軍の騎兵による襲撃で南軍の命令書の写しを奪っており、リーの作戦に気付いていた。 8月22日から25日にかけて小競り合いが続き、ポープ軍は川沿いに釘付けになっていた。8月25日までにポトマック軍のうち3個軍団が半島から駆けつけてポープ軍を補強していた。リーは敵が増強され勢力的に劣勢になった状況に対し、新しい作戦としてジャクソンとスチュアートに全軍の半分を任せてポープ軍の側面に迂回させ、その通信線であるオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道を襲わせようとした。ポープ軍は後退を強いられ、移動中弱くなったところを叩けるというものだった。 8月26日の夕方、ジャクソン軍はポープ軍の右翼を迂回し、ブリストー駅で鉄道を破壊してさらに進軍し、8月27日の払暁にマナサス分岐点にあった北軍の大量の軍需物資を捕獲して破壊した。この急襲によって、ポープ軍はラッパハノック川に沿って急速に撤退させられることになった。8月27日から28日に掛けての夜、ジャクソンは第一次ブル・ランの戦場まで進軍し、そこでまだ工事の終わっていない鉄道路盤の背後に陣を布いた。ロングストリートの部隊はサラフェア・ギャップを通ってジャクソン軍に合流し、リー軍の2つの翼となった。
※この「バージニア軍」の解説は、「東部戦線 (南北戦争)」の解説の一部です。
「バージニア軍」を含む「東部戦線 (南北戦争)」の記事については、「東部戦線 (南北戦争)」の概要を参照ください。
- バージニア軍のページへのリンク