ポトマック軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/23 17:07 UTC 版)
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![]() 1863年、バージニア州カルペパーにおけるポトマック軍の指揮官達。左から、ガバヌーア・ウォーレン、ウィリアム・フレンチ(William H. French)、ジョージ・ミード、ヘンリー・J・ハント、アンドリュー・A・ハンフリーズ、ジョージ・サイクス(George Sykes) |
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創設 | 1861年-1865年 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
軍種 | アメリカ陸軍 |
任務 | 南北戦争の東部戦線における北軍の主力 |
基地 | ワシントンD.C. |
主な戦歴 | 南北戦争 |
指揮 | |
著名な司令官 | アービン・マクドウェル ジョージ・マクレラン アンブローズ・バーンサイド ジョセフ・フッカー ジョージ・ミード |
ポトマック軍(Army of the Potomac)は、南北戦争の東部戦線における北軍の主力となった「軍」。なお、ポトマック軍の名称は、戦争初期に南軍でも使われたが、後にロバート・E・リー将軍の指揮で有名となる北バージニア軍に改称されている。
目次
歴史
ポトマック「軍」は1861年に組織された。但し、「軍」という名称ではあるものの、創立当時の規模は戦争後期の「軍団」程度のものであった。創立時の中核部隊となったのは、北東バージニア軍管区[1](Department of Northeastern Virginia)と呼ばれた部隊である(北東バージニア軍と呼ばれることもある)。この部隊はアービン・マクドウェル准将の隷下にあり、開戦後の最初の大規模戦闘である第一次ブルランの戦いに参加し敗北した部隊であった。この敗北後、フィルーピーの戦いで勝利を得ていたジョージ・マクレラン少将が西部バージニアからワシントンD.C.に呼ばれ、マクドウェルの北東バージニア軍管区(5個師団)およびジョセフ・マンスフィールド(Joseph K. Mansfield)准将のワシントン軍管区(34個大隊・2個民兵部隊、2個旅団)からなるポトマック軍管区の指揮を命じられた。1861年7月26日、ナサニエル・バンクス少将のシェナンドー軍管区(3個旅団)がマクレランの指揮下に入り、同日に部隊名称が「ポトマック軍」とされた。さらに、ジョン・アダムズ・ディクスのバルチモア師団も加わった。また、バンクスの指揮する部隊は、ポトマック軍の歩兵師団となった[2]が、旧北東バージニア軍管区の部隊は師団編成はされなかった。このため、編成時の戦力は、ディクス及びバンクスの2個師団に加え14個旅団、要塞兵力として5個連隊となった。10月には11個師団その他に再編され、1862年3月には軍団制が導入され5個軍団(第1~第5軍団)に編成された。ポトマック軍は、主として東バージニア、メリーランド及びペンシルバニアで発生した東部戦線での殆どの戦いに参加した。
エイブラハム・リンカーン大統領は、アメリカ連合国に対する攻勢作戦を求めたため、マクレランとポトマック軍は海路バージニア半島先端に上陸し、アメリカ連合国の首都リッチモンドを目指す半島方面作戦を実行した。1862年5月末にはリッチモンドに迫ったが攻撃はそこで頓挫した。6月後半、南軍のロバート・E・リーは反撃を開始し(七日間の戦い)、ポトマック軍は押し戻された。結局リッチモンドの攻略はならず、ポトマック軍は引き上げた。そこで隷下の5個軍団の内3個軍団をジョン・ポープ少将のバージニア軍支援のために派遣した。このため、ポープがポトマック軍の指揮を取ったと誤解されていることが多いが、この間ポトマック軍の司令部はワシントン郊外に置かれており、マクレランが引き続き指揮を執っていた。バージニア軍は北へ進行してきたリーの南軍(北バージニア軍)を迎え撃ったが、8月28日 ~ 8月30日の第二次ブルランの戦いで大敗北した。その後、ポープの指揮下にあった6個軍団はポトマック軍に吸収された。
マクレランは9月17日のアンティータムの戦いでリーに勝利し、この勝利によってリンカーンは奴隷解放宣言を出すことができ、また南軍の北進は停止してヨーロッパ諸国からの支援も期待できなくなった。しかし、リンカーンはマクレランが消極的であるとして解任し、アンブローズ・バーンサイドがポトマック軍の司令官に任命された。バーンサイドは軍をそれぞれ2個軍団と予備からなる、3個の「大師団(Grand Divisions)」に分割した。バーンサイドは再度リッチモンドを目指したが、12月13日にフレデリックスバーグの戦いに敗北し、翌1863年1月26日に解任され、ジョセフ・フッカーが軍司令官となった。フッカーは大師団を廃止し、それまでは各部隊に配属されていた騎兵をまとめ、騎兵軍団を組織した。フッカーは十分な補給を行った後に南進を開始したが、4月30日 ~ 5月6日のチャンセラーズヴィルの戦いで、戦力では半分以下のリーに敗北した。リーはこの勝利をきっかけに再度北上を開始した。リンカーンは、6月28日にフッカーを解任しジョージ・ミード少将がポトマック軍の指揮を執ることとなった。
7月1日 - 7月3日、南北戦争最大の激戦となったゲティスバーグの戦いでポトマック軍はリーの北バージニア軍に勝利した。この勝利が転換点となり、東部戦線でも北軍が優勢となった。但し、ミードは積極的にリーを追撃せず、戦争はさらに2年弱続くことになる。ポトマック軍は秋に2つの攻撃作戦、ブリストー方面作戦とマイン・ランの戦いを実行したが大した戦果を得られなかった。
1864年3月、ユリシーズ・グラントが中将に昇進し北軍全体の指揮を任せられた。グラントは作戦本部をポトマック軍司令部においた。ポトマック軍の司令官はミードのままであったが、それ以降実質的にはグラントが指揮をとる形となった。5月5日-7日の荒野の戦いでは両軍ともに大きな損害を出したが、グラントは前進を命令した。1週間後のスポットシルバニア・コートハウスの戦いでも北軍の損害は南軍より大きかったが、グラントは北軍は消耗に耐えうると確信しており、後退はしなかった。グラントはリッチモンドの南にある鉄道拠点であるピーターズバーグ (バージニア州)の攻略を計画し、1864年6月15日 - 1865年3月25日の9ヶ月間にわたるピーターズバーグ包囲戦が生じた。リーはピーターズバーグを脱出し、ノースカロライナ州にいた南軍の他の部隊と合流し、反撃を行うことを計画した。ポトマック軍は脱出した北バージニア軍を追撃し、連日の様に戦闘が行われたが、アポマトックス・コートハウスの戦いで敗れたリーは、1865年4月6日に降伏した。
戦争が終了すると、ポトマック軍は1865年5月23-24日に行われた大観閲式(Grand Review of the Armies)に参加し、6月28日に解散した。
著名な部隊
旅団
ポトマック軍の活動地域は、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨーク等の北部の大都市に近かったため、他の野戦軍に比べてメディアへの露出が多かった。構成部隊もまた有名になった。アイリッシュ旅団(Irish Brigade)、フィラデルフィア旅団(Philadelphia Brigade)、第一ニュージャージー旅団(First New Jersey Brigade)、バーモント旅団(Vermont Brigade)、アイアン旅団(Iron Brigade)等は、南北戦争中も戦争終了後も、一般大衆に良く知られていた。
軍団

1862年3月、エイブラハム・リンカーン大統領はポトマック軍の下に軍団を編成した。(その時まで、マクレランは軍団の設置に抵抗していた。軍団はナポレオンの軍隊が初めて編成したものであるが、マクレランは彼の師団長達を昇進させる前に、彼らが半島方面作戰の戦闘で通用するかを見たかった。リンカーンはマクレランの合意を得ること無く、先任順に軍団長を任命した。)最初に編成されたのは、第1軍団(アービン・マクドウェル)、第2軍団(エドウィン・サムナー)、第3軍団(サミュエル・ハインツェルマン)、第4軍団(エラスムス・キース)及び第5軍団(ナサニエル・バンクス、後の第12軍団)であった。半島方面作戦前に、第1軍団と第5軍団がポトマック軍傘下より外されたため、マクレランはより彼に忠誠心を持つと思われる将軍が指揮する2個軍団を作戦中に編成した:第5軍団(再編成フィッツ・ジョン・ポーター)及び第6軍団(ウィリアム・B・フランクリン)である。
ポトマック軍に所属したことがある軍団には、第1~第6軍団に加え、第9軍団、第11軍団(フランツ・シーゲル)、第12軍団(ナサニエル・バンクス、旧第5軍団)があった。また当初は2個騎兵師団を有していたが、1863年には1個騎兵師団が追加され、計3個騎兵師団からなる騎兵軍団が編成された。しかし、これらの軍団全てが常にポトマック軍傘下にあった訳ではない。第4軍団は半島作戰終了後にバージニア軍管区に所属替えとなった。第9軍団は1863年2月に西部戦線へ一旦抽出され、東部戦線に戻った後もユリシーズ・グラントの直接指揮下にあったが[3]、1864年5月にはポトマック軍に戻っている。1863年中はポトマック軍は8個軍団(第1、第2、第3、第5、第6、第11、第12及び騎兵)を有していたが、消耗と他方面への転出のために、1864年3月に4個軍団(第2、第5、第6及び騎兵)に再編された(5月に第9軍団が戻り、計5個軍団)。騎兵軍団の内2個師団はシェナンドー渓谷に派遣され、第2騎兵師団のみがポトマック軍に残された。しかしこの師団も、戦争の最終段階でフィリップ・シェリダン少将の指揮下に移された。
司令官
- 1861年5月27日-1861年7月25日:アービン・マクドウェル准将(北東バージニア軍管区)
- 1861年7月26日-1862年11月9日:ジョージ・マクレラン少将
- 1862年11月9日-1863年1月26日:アンブローズ・バーンサイド少将
- 1863年1月26日-1863年6月28日:ジョセフ・フッカー少将
- 1863年6月28日-1865年6月28日:ジョージ・ミード少将
- ミード不在中、ジョン・パーク少将が4度代理で指揮をとっている
- 陸軍総司令官となったユリシーズ・グラント(当時中将)は、1864年5月から1865年4月にかけて、自身の司令部をポトマック軍司令部に置き、ミードに指示を出していたが、ポトマック軍司令官はミードであった。
参加した主要な戦闘
- 第一次ブルランの戦い 、マクドウェル
- 半島方面作戦( 七日間の戦いを含む)、マクレラン
- 北バージニア方面作戦(第二次ブルランの戦い を含む)
- バージニア軍に3個軍団を派遣
- メリーランド方面作戦(アンティータムの戦い を含む)、マクレラン
- フレデリックスバーグの戦い、バーンサイド
- チャンセラーズヴィルの戦い、フッカー
- ゲティスバーグ方面作戦、ミード
- ブリストー方面作戦、ミード
- マイン・ランの戦い、ミード
- オーバーランド方面作戦、ミード
- リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦( クレーターの戦いを含む)、ミード
- アポマトックス方面作戦(アポマトックス・コートハウスでのリーの降伏を含む)、ミード
戦闘序列
第一次ブルランの戦い
北東バージニア軍
軍 | 師団 | 旅団 |
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北東バージニア軍総司令官 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第4師団(予備) |
旅団化されず(8個連隊) |
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第5師団 |
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半島方面作戦
軍司令官:マクレラン少将
軍団 | 師団 | 旅団 |
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第2軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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騎兵予備 |
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第3軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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騎兵予備 |
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第4軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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騎兵予備 |
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予備 |
騎兵師団 |
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砲兵 |
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工兵 |
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歩兵 George Sykes准将 |
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七日間の戦い
軍司令官:マクレラン少将
軍団 | 師団 | 旅団 |
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第2軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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砲兵予備 |
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騎兵予備 |
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第3軍団 |
第2師団 |
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第3師団 |
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砲兵予備 |
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騎兵予備 |
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第4軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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砲兵予備 |
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騎兵予備 |
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第5軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団(正規軍ペンシルバニア予備師団) |
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騎兵 |
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第6軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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騎兵 |
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予備 |
騎兵師団 |
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砲兵 |
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ケーシー部隊 |
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アンティータムの戦い
軍司令官:マクレラン少将
軍団 | 師団 | 旅団 |
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第1軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第2軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第4軍団 |
第1師団 |
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第5軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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砲兵予備 |
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第6軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第9軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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カナワ師団 |
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第12軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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砲兵 |
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騎兵 |
騎兵師団 |
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フレデリックバーグの戦い
軍司令官:バーンサイド少将
大師団 | 軍団 | 師団 |
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右翼大師団 |
第2軍団 |
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第9軍団 |
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騎兵 |
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|
中央大師団 |
第3軍団 |
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第5軍団 |
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左翼大師団 |
第1軍団 |
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第6軍団 |
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チャンセラーズヴィルの戦い
軍司令官:フッカー少将
軍団 | 師団 | 旅団 |
---|---|---|
第1軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第2軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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|
第3師団 |
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砲兵予備 |
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第3軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第5軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第6軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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軽師団 |
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第11軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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砲兵予備 |
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第12軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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騎兵軍団 |
第1騎兵師団 |
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第2騎兵師団 |
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第3騎兵師団 |
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軍団直轄騎兵予備 |
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騎馬砲兵隊 |
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砲兵部隊 |
砲兵予備旅団 |
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鉄道護衛部隊 |
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ゲティスバーグの戦い
軍司令官:ミード少将
軍団 | 師団 | 旅団 |
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第1軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第2軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第3軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第5軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第6軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第11軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第12軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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軍団直轄 |
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騎兵軍団 |
第1騎兵師団 |
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第2騎兵師団 |
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第3騎兵師団 |
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騎馬砲兵隊 |
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砲兵予備 |
砲兵予備 |
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ブリストー方面作戦
軍司令官:ミード少将
軍団 | 師団 | 旅団 |
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第1軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第2軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第3軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第5軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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||
第6軍団 |
第1師団 |
|
第2師団 |
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第3師団 |
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騎兵軍団 |
第1騎兵師団 |
|
第2騎兵師団 |
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第3騎兵師団 |
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騎馬砲兵隊 |
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砲兵予備 |
砲兵予備 |
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アポマトックス方面作戦
軍司令官:ミード少将
軍団 | 師団 | 旅団 |
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第2軍団 |
第1師団 |
|
第2師団 |
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第3師団 |
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第5軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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第6軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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||
第9軍団 |
第1師団 |
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第2師団 |
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第3師団 |
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||
騎兵 |
第2騎兵師団 |
|
脚注
参考資料
- Beatie, Russel H. Army of the Potomac: Birth of Command, November 1860 – September 1861. New York: Da Capo Press, 2002. ISBN 0-306-81141-3.
- Beatie, Russel H. Army of the Potomac: McClellan Takes Command, September 1861 – February 1862. New York: Da Capo Press, 2004. ISBN 0-306-81252-5.
- Beatie, Russel H. Army of the Potomac: McClellan's First Campaign, March – May 1862. New York: Savas Beatie, 2007. ISBN 978-1-932714-25-8.
- Eicher, John H., and Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.
その他関連資料
- Chamberlain, Joshua L. The Passing of the Armies: An Account of the Final Campaign of the Army of the Potomac. New York: Bantam Books, 1993. ISBN 0-553-29992-1. First published 1915 by G.P. Putnam's Sons.
- Taaffe, Stephen R. Commanding the Army of the Potomac. Lawrence: University of Kansas Press, 2006. ISBN 0-7006-1451-6.
- Welcher, Frank J. The Union Army, 1861–1865 Organization and Operations. Vol. 1, The Eastern Theater. Bloomington: Indiana University Press, 1989. ISBN 0-253-36453-1.
外部リンク
ポトマック軍
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1863年1月26日、ポトマック軍の新しい指揮官は「ファイティング・ジョー」フッカーだった。フッカーの評判は前任者におそろしく欠けていた攻撃性ということだったので、軍隊の一部はこの異動が避けられないものと見ていた。フッカーはこの昇進を最高の控えめさでは受けなかった。彼は戦時の国は独裁者が支配するのが最良だと言ったといわれている。リンカーンは次の様に応えた。 私は、貴方が最近軍隊も政府も独裁者を必要とすると言ったと聞いたし、それは信じられるところである。もちろん私が貴方を指揮官にしたのはそのためではなく、そうさせないためである。成功した将軍達だけが独裁者を作り上げることができる。今貴方にお願いすることは軍事的な成功であり、独裁制のリスクを賭けている。 1863年春の間、フッカーは傑出した管理者として評判を確立し、バーンサイドの下でさらに低下していた兵士の士気を取り戻させた。彼が変えたことは、軍隊の日々の食事の修正、宿営所の衛生状態改善、補給制度の改良と会計責任、中隊料理人の追加と監視、幾つかの病院の改善、さらに賜暇制度の改良(1中隊につき一人が10日間輪番制)といったことがあった。他にも増加する脱走を止めるという必要性に対処するもの(リンカーンからの命令もあり、到着する郵便の検閲、脱走者を射殺する権限、改良された監視線)、訓練の量と質の増加、強力な士官の訓練、高レベルの命令の交換、および初めて連邦騎兵隊を単一軍団に組織化したことがあった。フッカーはその再生された軍隊について次のように語った。 私はこの惑星で最良の軍隊を持っている。私はこの世で最良の軍隊を持っている。...もし敵が逃げなければ神が助けてくれる。リー将軍に神のお慈悲を。私はそんなものは持っていないから。 しかし「ファイティング・ジョー」は将軍達とその参謀や部下にとって悪い例も示した。ファルマスにあったその本部は「酒場と売春宿」の組み合わせであると言われた。彼はダニエル・バターフィールドや悪名高い政治家将軍ダニエル・シックルズを含む忠実な政治的取り巻きのネットワークを作り上げた。 その春から夏にかけてのフッカーの作戦は優美で期待の持てるものだった。まず騎兵軍団を敵の後方深く送り込み補給線を混乱させ、主力部隊の攻撃から気を逸らせることだった。ロバート・E・リーのかなり小さな軍隊をフレデリックスバーグに釘付けにし、一方でポトマック軍の大半は迂回行動を取ってリー軍を後方から叩くというものだった。リー軍を打ち破ればリッチモンドの占領も可能だった。フッカーや北軍にとって不幸だったのは、その作戦の実行が作戦自体の優雅さと合わなかったことだった。ジョージ・ストーンマン准将が指揮する騎兵隊の襲撃は慎重に行われ、その目標としたものに辿り着かなかった。迂回行動は十分にうまくいって戦略的な急襲ができたが、5月1日に敵と接触したという第一報が入ったときにフッカーはその度胸を失ってしまった。リー軍の後方に攻勢を採るよりもチャンセラーズヴィルというちっぽけな交差点の町周辺に自軍を後退させてしまい、リー軍が攻撃してくるのを待った。リーは大胆にその小さな自軍を2つにわけて、フッカー軍の両方の部隊に対処させた。その後、さらに自軍を分けてストーンウォール・ジャクソンの軍団に迂回行動をさせ、フッカーの無防備な右翼を衝かせ、第11軍団を崩壊させた。ポトマック軍は防戦一方になり、結果的に総退却を強いられた。 チャンセラーズヴィルの戦いは「リーの完璧な戦い」と呼ばれてきたが、これは大胆な戦術で大部隊の敵に打ち勝つ能力によっていた。フッカーの失敗の一部は、大砲弾との間一髪の遭遇に帰せられる可能性がある。フッカーが本部の玄関に立っているときに、砲弾がもたれ掛かっていた木製の柱を直撃し。フッカーは倒れて意識を失い、その日の残りは何の行動も取れなかった。それだけ何もできない状態にも拘わらず、一時的に副指揮官のダライアス・コウチ少将に指揮を渡すという懇請を拒んだ。コウチやヘンリー・W・スローカム少将を含みその部下の将軍達数人は公然とフッカーの指揮官としての決断に疑問を呈した。コウチは大いに嫌気が差して、再びフッカーの下に就くことを拒んだ。その後の数週間で政治的な嵐が吹き、もしリンカーンが自分でそうしなければ、将軍達が自らフッカーをその地位から追い落とそうと画策した。 6月、ロバート・E・リーは再度北部への侵攻を開始し、リンカーンはフッカーにリーを追撃して打ち破るよう督励した。フッカーの当初の作戦はその代わりにリッチモンドを占領することだったが、リンカーンはそのアイディアを即座に否決し、ポトマック軍は北に動いてシェナンドー渓谷を滑り出てペンシルベニア州を覗うリーの北バージニア軍の所在を突き止めようとした。フッカーの任務はまずワシントンD.C.とボルティモアを守ることであり、第2にリーを抑えて打ち破ることだった。不幸なことにリンカーンはフッカーに抱いていた信頼もほとんど無くしていた。フッカーがハーパーズ・フェリーの防衛軍の状態について本部で論争に及んだ時、衝動的に辞任を言い出し、それが直ぐにリンカーンと総司令官のヘンリー・ハレックに認められた。6月28日、南北戦争の頂点となるゲティスバーグの戦いの3日前にフッカーは解任され、ジョージ・ミード少将が後を継いだ。フッカーはゲティスバーグ方面作戦の開始に当たってその役割に対する連邦議会からの感謝状を受けたが、その栄誉はミードに渡った。
※この「ポトマック軍」の解説は、「ジョセフ・フッカー」の解説の一部です。
「ポトマック軍」を含む「ジョセフ・フッカー」の記事については、「ジョセフ・フッカー」の概要を参照ください。
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