ポトマック軍
ポトマック軍
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1863年1月26日、ポトマック軍の新しい指揮官は「ファイティング・ジョー」フッカーだった。フッカーの評判は前任者におそろしく欠けていた攻撃性ということだったので、軍隊の一部はこの異動が避けられないものと見ていた。フッカーはこの昇進を最高の控えめさでは受けなかった。彼は戦時の国は独裁者が支配するのが最良だと言ったといわれている。リンカーンは次の様に応えた。 私は、貴方が最近軍隊も政府も独裁者を必要とすると言ったと聞いたし、それは信じられるところである。もちろん私が貴方を指揮官にしたのはそのためではなく、そうさせないためである。成功した将軍達だけが独裁者を作り上げることができる。今貴方にお願いすることは軍事的な成功であり、独裁制のリスクを賭けている。 1863年春の間、フッカーは傑出した管理者として評判を確立し、バーンサイドの下でさらに低下していた兵士の士気を取り戻させた。彼が変えたことは、軍隊の日々の食事の修正、宿営所の衛生状態改善、補給制度の改良と会計責任、中隊料理人の追加と監視、幾つかの病院の改善、さらに賜暇制度の改良(1中隊につき一人が10日間輪番制)といったことがあった。他にも増加する脱走を止めるという必要性に対処するもの(リンカーンからの命令もあり、到着する郵便の検閲、脱走者を射殺する権限、改良された監視線)、訓練の量と質の増加、強力な士官の訓練、高レベルの命令の交換、および初めて連邦騎兵隊を単一軍団に組織化したことがあった。フッカーはその再生された軍隊について次のように語った。 私はこの惑星で最良の軍隊を持っている。私はこの世で最良の軍隊を持っている。...もし敵が逃げなければ神が助けてくれる。リー将軍に神のお慈悲を。私はそんなものは持っていないから。 しかし「ファイティング・ジョー」は将軍達とその参謀や部下にとって悪い例も示した。ファルマスにあったその本部は「酒場と売春宿」の組み合わせであると言われた。彼はダニエル・バターフィールドや悪名高い政治家将軍ダニエル・シックルズを含む忠実な政治的取り巻きのネットワークを作り上げた。 その春から夏にかけてのフッカーの作戦は優美で期待の持てるものだった。まず騎兵軍団を敵の後方深く送り込み補給線を混乱させ、主力部隊の攻撃から気を逸らせることだった。ロバート・E・リーのかなり小さな軍隊をフレデリックスバーグに釘付けにし、一方でポトマック軍の大半は迂回行動を取ってリー軍を後方から叩くというものだった。リー軍を打ち破ればリッチモンドの占領も可能だった。フッカーや北軍にとって不幸だったのは、その作戦の実行が作戦自体の優雅さと合わなかったことだった。ジョージ・ストーンマン准将が指揮する騎兵隊の襲撃は慎重に行われ、その目標としたものに辿り着かなかった。迂回行動は十分にうまくいって戦略的な急襲ができたが、5月1日に敵と接触したという第一報が入ったときにフッカーはその度胸を失ってしまった。リー軍の後方に攻勢を採るよりもチャンセラーズヴィルというちっぽけな交差点の町周辺に自軍を後退させてしまい、リー軍が攻撃してくるのを待った。リーは大胆にその小さな自軍を2つにわけて、フッカー軍の両方の部隊に対処させた。その後、さらに自軍を分けてストーンウォール・ジャクソンの軍団に迂回行動をさせ、フッカーの無防備な右翼を衝かせ、第11軍団を崩壊させた。ポトマック軍は防戦一方になり、結果的に総退却を強いられた。 チャンセラーズヴィルの戦いは「リーの完璧な戦い」と呼ばれてきたが、これは大胆な戦術で大部隊の敵に打ち勝つ能力によっていた。フッカーの失敗の一部は、大砲弾との間一髪の遭遇に帰せられる可能性がある。フッカーが本部の玄関に立っているときに、砲弾がもたれ掛かっていた木製の柱を直撃し。フッカーは倒れて意識を失い、その日の残りは何の行動も取れなかった。それだけ何もできない状態にも拘わらず、一時的に副指揮官のダライアス・コウチ少将に指揮を渡すという懇請を拒んだ。コウチやヘンリー・W・スローカム少将を含みその部下の将軍達数人は公然とフッカーの指揮官としての決断に疑問を呈した。コウチは大いに嫌気が差して、再びフッカーの下に就くことを拒んだ。その後の数週間で政治的な嵐が吹き、もしリンカーンが自分でそうしなければ、将軍達が自らフッカーをその地位から追い落とそうと画策した。 6月、ロバート・E・リーは再度北部への侵攻を開始し、リンカーンはフッカーにリーを追撃して打ち破るよう督励した。フッカーの当初の作戦はその代わりにリッチモンドを占領することだったが、リンカーンはそのアイディアを即座に否決し、ポトマック軍は北に動いてシェナンドー渓谷を滑り出てペンシルベニア州を覗うリーの北バージニア軍の所在を突き止めようとした。フッカーの任務はまずワシントンD.C.とボルティモアを守ることであり、第2にリーを抑えて打ち破ることだった。不幸なことにリンカーンはフッカーに抱いていた信頼もほとんど無くしていた。フッカーがハーパーズ・フェリーの防衛軍の状態について本部で論争に及んだ時、衝動的に辞任を言い出し、それが直ぐにリンカーンと総司令官のヘンリー・ハレックに認められた。6月28日、南北戦争の頂点となるゲティスバーグの戦いの3日前にフッカーは解任され、ジョージ・ミード少将が後を継いだ。フッカーはゲティスバーグ方面作戦の開始に当たってその役割に対する連邦議会からの感謝状を受けたが、その栄誉はミードに渡った。
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