ゲティスバーグの戦いとは? わかりやすく解説

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ゲティスバーグの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/13 09:08 UTC 版)

ゲティスバーグの戦い(ゲティスバーグのたたかい、英語: Battle of Gettysburg)は、南北戦争において事実上の決戦となった戦い。ゲティスバーグ戦役の中核を成し、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が双方総力を結集、南北戦争史上最大の激戦となった。


注釈

  1. ^ 実際は必ずしもそうならなかった。合衆国陸軍の総司令官に着任したグラント将軍が南軍のテネシー軍撃滅とアトランタ占領のためにかなりの兵力をそのままシャーマン将軍の指揮下に残したからだ。
  2. ^ 例えば七日間の戦いでは北軍の死傷者15,885(全軍の15%)に対して20,204名(22%)、第二次ブルランの戦いでは北軍の14,462名(23%)に対して9,474名(17%)、フレデリックスバーグの戦いでは北軍の12,653名(11%)に対して5,377名(7%)、そしてチャンセラーズビルの戦いでは北軍の17,197名(13%)に対して12,764名(21%)もの兵を失っている。南軍が惜敗したアンティータムの戦いでは北軍の12,401名(14%)に対して実に10,316名(23%)もの兵が死傷(もしくは行方不明か捕虜)している。要するに北バージニア軍はほとんどの戦いで勝利していたもののそのたびに甚大な損害を被っていたことが分かる。
  3. ^ 元ポトマック軍の司令官で、リーに対して敗北を重ねていたのでリンカーンにより解任されていた。解任後民主党の大統領候補として1864年の大統領選に打って出たが結局リンカーンの220万票に対して180万票しか獲得できず敗北している。しかしこの数字を見ればこの時点での停戦もしくは和平を望んでいた市民が決して少なくなかったことが見て取れる。
  4. ^ ただし、第二次世界大戦までの戦場における一般兵士の発砲率は、この数値とほとんど変わりがなかった(『戦争における「人殺し」の心理学』 著 Dave Grossman、訳 安原和見、筑摩書房、2004年、ISBN 4-480-08859-8)。

出典

  1. ^ Symonds, p. 214


「ゲティスバーグの戦い」の続きの解説一覧

ゲティスバーグの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 06:33 UTC 版)

ジェイムズ・ロングストリート」の記事における「ゲティスバーグの戦い」の解説

ゲティスバーグの戦いでのロングストリート行動1世紀以上にわたって彼を取り巻論争中心にある。ロングストリート初日7月1日午後遅く戦場到着した。この時までに北軍2個軍団がイーウェルとヒルによって町中追い込まれ、セメタリーヒルで防御陣を布いたリー全軍集結するまで戦うつもりはなかったが、ヒルによる時期捉えているが疑問の残る決断初日印象に残る南軍勝利だった。北軍防御陣の強さを心配していたロングストリートリー会って、敵の左翼戦略的回り込み行い、「敵と敵の首都との間に良い地歩確保する」ことで、北軍ジョージ・ミード少将南軍構築した防御陣を攻撃させる事ができると主張した。しかし、リーは「敵があそこに明日もいるならば、攻撃しなければならない」と叫んだ7月2日リーの作戦は、まずロングストリート軍に北軍左翼攻撃させ、続いてヒルの軍に中央に近いセメタリー・リッジを攻撃させる、一方でイーウェル軍は北軍左翼に向かう動きを示す、というものだったロングストリートゆっくりと動き始めその旅団幾つか到着するのを待って、敵の陣地近付きながら長い回り道をさせた。ロングストリート対す戦後批判では、ロングストリート対すリーの命令早朝攻撃掛けることであり、その遅れはこの戦闘負け重大な原因になった主張している。しかし、リーはこの軍団到着の遅れに同意し午前11時まで正式な攻撃命令を出さなかった。午後4時頃に攻撃が始まるとロングストリートはマクローズとフッド攻撃掛けさせ(ピケット師団到着していなかった)、北軍激し抵抗にも優勢であったが、かなりの損失被ってほとんど成功とは言えなかった。 7月3日リーロングストリート北軍中央協働して総攻撃をかけるよう命じた。これにはピケット師団ヒル軍団幾つかの旅団をあてるつもりだった。ロングストリート成功可能性が無いと考えたので、この命令従いたくないと大い強調したリー次のように言ったという。 将軍、私は生涯軍人だった。2人で、分隊で、中隊で、連隊で、師団でそして軍隊戦ってきた兵士と共にあって、皆がそうであるよう兵士何を出来るか知っている。この戦闘15,000名を掛けてもあの陣地取れないというのが私の意見だ。 歩兵攻撃先立つ砲兵による一斉砲撃の間に、ロングストリートピケット師団発進させる責任砲兵隊指揮官エドワード・ポーター・アレクサンダー渡そう試みた実際にピケット師団前進するときになってロングストリート頷いて同意を示すだけで、言葉による命令発しなかった。ピケットの突撃呼ばれるこの総攻撃ロングストリート予想した上の損失被った。これがゲティスバーグにおける南軍敗北決定的なポイントであり、リー翌日バージニアに引き返す命令出した戦後ロングストリート対す批判は、ゲティスバーグの戦いにおけるその行動だけでなく、リーやその戦略対する乱暴な発言基づいている。例え次ののであるリー興奮しバランス感覚欠いていたことは最初の日の午後で明らかである。大量の血が流れて気付かせるまではその気分の中で動き続けた

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ゲティスバーグの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 04:45 UTC 版)

ゲティスバーグ (ペンシルベニア州)」の記事における「ゲティスバーグの戦い」の解説

1863年7月1日から3日まで、南北戦争中の最大戦い1つであるゲティスバーグの戦いが、町の近くの畑と高原越えて勃発したロバート・E・リー指揮下の北バージニア軍は、戦闘の初期段階成功収めたが、最終的にジョージ・G・ミード指揮ポトマック軍敗れたリーポトマック川越えて撤退した死傷者多く南軍27,000人、北軍23,000人を超えるゲティスバーグ住民南軍退却後、負傷者世話をし、死者葬った兵士遺体は、ゲティスバーグ国立墓地埋葬された。1863年11月19日エイブラハム・リンカーンゲティスバーグ演説行った

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ゲティスバーグの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 17:08 UTC 版)

ジョージ・ヒューム・ステュアート」の記事における「ゲティスバーグの戦い」の解説

1863年7月1日から3日行われたゲティスバーグの戦いは、南北戦争転回になったと言われる。この戦いでリー軍の侵攻止まったステュアート隊はシャープスバーグから130マイル (210 km) を行軍し7月1日夕方、「日没の少し前に疲れ切り、足を痛めた状態で」ゲティスバーグ到着した。「隊員多く裸足だった」ステュアート隊は7月2日夜に北軍前線攻撃し、カルプス・ヒル低部とスパングラーズ・スプリングに近い石壁の間に地歩確保した。しかし、まだ疲れていない北軍援軍それ以上前進阻止したので、それ以上陣地確保はできなかった。その夜間に北軍大量大砲運び込んでおり、その音を聞いた楽観性ステュアートは、敵が荷車を曳いて退却していることを期待することになった7月3日朝になると、北軍防御万全になっており、500ヤード (450 m) の距離からその大砲が「恐ろしくいらいらさせる砲撃」を行いその後にはステュアート隊の陣地対す恐ろしい襲撃続いたその結果第3旅団の「恐ろしい殺戮になった部隊救援もなく長時間戦ってきており、弾薬尽きかけていたが、それでも陣地確保し続けられた。その朝遅くに、ジョンソン少将が「敵を打ち払う能力確信し北軍前線全体後退させられる」と、防御厚くされていた敵前線に対す銃剣突撃命じたステュアートはその命令愕然とし、この攻撃について強く批判的だったが、直接命令に従わざるを得なかった。ステュアートは「左向け左」と「右へならえ」と命令し激し縦射を受ける中を、兵士送り出したステュアート第3旅団北軍胸壁向かって前進し何度かカルプス・ヒルを支配しようとした。そこは北軍前線中でも重要な地点だった。その結果が「スローターペン」となったメリーランド第2歩兵連隊ノースカロライナ第3歩兵連隊が、北軍3個旅団によって強力に守られ陣地勇敢に突撃したが、敵の前線から20ペース (15 m) まで近づいた兵士少数だった。自隊の損失甚だしかったので、ステュアート泣き崩れ、腕を振り絞り、「私のかわいそうな部下よ」と叫んだと言われている。カルプス・ヒルへの攻撃失敗しジョンソン師団全体でほぼ2,000名の損失出したそのうち700名はステュアート旅団みのものであり、師団に入る他の旅団比べて遥かに多かった7月8日、ヘイガーズタウンに居た時点で、戦闘前戦力2,200名は、任務就ける者ちょうど1,200になっていたと報告されている。メリーランド第2歩兵連隊ノースカロライナ第3歩兵連隊損失率は2分の1から3分の2だった。僅か10時間で被ったのだったステュアートが非常に厳しい条件下で勇敢に戦ったのではあったが、ジョンソン報告書ステュアートも他の士官も名前が挙がっていなかった。ゲティスバーグは、南軍にとって追い風から向かい風に変わる戦いであり、その後リー軍が後退し最後アポマトックス・コートハウスグラント将軍降伏することになった

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ゲティスバーグの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:19 UTC 版)

ジョシュア・チェンバレン」の記事における「ゲティスバーグの戦い」の解説

チェンバレンはゲティスバーグの戦いでその名声得た。リトルラウンドトップでのその果敢な防御多く出版物や話の焦点になったチェンバレンは、ストロング・ビンセント大佐からリトルラウンドトップ南斜面防御派遣され、その第20メイン連隊北軍前線最左翼、その右手には第83ペンシルベニア歩兵連隊、第44ニューヨーク歩兵連隊および第16ミシガン歩兵連隊並んだチェンバレン直ぐにビンセント大佐がリトルラウンドトップの戦術的重要さ拘っていたことを理解し、第20メイン連隊如何なる犠牲払って北軍左翼を守る必要があることが判ったメイン出身部隊南軍ウィリアム・C・オーツ大佐指揮する15アラバマ連隊北軍陣地側面を衝こうとして丘を駆け上がってくるのを待った南軍何度も何度も攻撃しメイン連隊はほとんど後退させられそうになったチェンバレンはその退っ引きならない事態認識し、その左翼部隊に(この時南東向いていた。連隊の他の部隊は西を向いていた)銃剣突撃命じたその日チェンバレン報告書では、「その危機に際して、私は銃剣命じた。その言葉十分だったと書いていた。 第20メイン連隊は丘を駆け下り、その左翼が常に回転運動続けて突撃戦線ヒンジのように振らせ、正面攻撃側面攻撃同時に生じさせた。その結果南軍兵を多く捕獲し自軍側面をうまく救ったチェンバレン銃弾がその剣の鞘に当たって跳ね返り太腿当たったときと、不発弾破片が足に当たったときの2回、軽傷負った。リトルラウンドトップでのその頑張りに対して、「ラウンドトップライオン」という渾名知られるようになった1863年の後の時期に、チェンバレンマラリア罹り快復するまで任務外された。 1864年4月チェンバレンポトマック軍戻りピーターズバーグ包囲戦直前旅団長昇格した6月18日第二次ピーターズバーグの戦いにおける主要戦闘で、右腰と脚の付け根貫通する銃弾受けたチェンバレンはその傷にも拘わらず、剣を引き抜いてそれを地面立てて直立姿勢保ち退却気分が高まるのを食い留めた。チェンバレンそのまま数分立ち続けたあとに倒れて失血のために気を失った。その傷について師団軍医致命傷見なしチェンバレンは死ぬものと予測したチェンバレン戦死メイン州新聞伝えられ北軍総司令官ユリシーズ・グラント中将チェンバレン准将戦場昇進させた。グラント様々な理由それほど迅速にチェンバレン昇進させたが、その理由一つチェンバレン死んだという誤報グラント届いたことだった。生きている期待されていなかった(繰り返すメイン州新聞報じられグラントには誤報届いたチェンバレン驚くべき意志勇気示して11月にはその部隊戻った。妻のファニー含め多くの者がチェンバレン除隊勧めたが、チェンバレン終戦まで従軍することに決めていた。 1865年初期チェンバレン第5軍団第1師団第1旅団指揮任され勇気決断持って指揮続けた3月29日、その旅団グラント戦争終わらせるために最後進行を行う中で、クエーカー道路戦いにおける主要戦闘参加したチェンバレン部隊損失を受け、自身負傷し左腕と胸)、さらに捕まりそうになりながら、最後成功しエイブラハム・リンカーン大統領から少将への名誉昇進受けたチェンバレン戦争全体では、20戦闘多く小競り合い参戦し4度その勇気うたわれ乗っていた馬6頭が銃で撃たれ自身も6回負傷した

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