ゲティスバーグの戦い
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ゲティスバーグの戦い(ゲティスバーグのたたかい、英語: Battle of Gettysburg)は、南北戦争において事実上の決戦となった戦い。ゲティスバーグ戦役の中核を成し、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が双方総力を結集、南北戦争史上最大の激戦となった。
注釈
- ^ 実際は必ずしもそうならなかった。合衆国陸軍の総司令官に着任したグラント将軍が南軍のテネシー軍撃滅とアトランタ占領のためにかなりの兵力をそのままシャーマン将軍の指揮下に残したからだ。
- ^ 例えば七日間の戦いでは北軍の死傷者15,885(全軍の15%)に対して20,204名(22%)、第二次ブルランの戦いでは北軍の14,462名(23%)に対して9,474名(17%)、フレデリックスバーグの戦いでは北軍の12,653名(11%)に対して5,377名(7%)、そしてチャンセラーズビルの戦いでは北軍の17,197名(13%)に対して12,764名(21%)もの兵を失っている。南軍が惜敗したアンティータムの戦いでは北軍の12,401名(14%)に対して実に10,316名(23%)もの兵が死傷(もしくは行方不明か捕虜)している。要するに北バージニア軍はほとんどの戦いで勝利していたもののそのたびに甚大な損害を被っていたことが分かる。
- ^ 元ポトマック軍の司令官で、リーに対して敗北を重ねていたのでリンカーンにより解任されていた。解任後民主党の大統領候補として1864年の大統領選に打って出たが結局リンカーンの220万票に対して180万票しか獲得できず敗北している。しかしこの数字を見ればこの時点での停戦もしくは和平を望んでいた市民が決して少なくなかったことが見て取れる。
- ^ ただし、第二次世界大戦までの戦場における一般兵士の発砲率は、この数値とほとんど変わりがなかった(『戦争における「人殺し」の心理学』 著 Dave Grossman、訳 安原和見、筑摩書房、2004年、ISBN 4-480-08859-8)。
出典
- ^ Symonds, p. 214
- 1 ゲティスバーグの戦いとは
- 2 ゲティスバーグの戦いの概要
- 3 背景
- 4 転換点
- 5 エピソード
ゲティスバーグの戦い
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「ジェイムズ・ロングストリート」の記事における「ゲティスバーグの戦い」の解説
ゲティスバーグの戦いでのロングストリートの行動は1世紀以上にわたって彼を取り巻く論争の中心にある。ロングストリートは初日7月1日の午後遅くに戦場に到着した。この時までに北軍2個軍団がイーウェルとヒルによって町中に追い込まれ、セメタリーヒルで防御陣を布いた。リーは全軍が集結するまで戦うつもりはなかったが、ヒルによる時期を捉えているが疑問の残る決断で初日は印象に残る南軍の勝利だった。北軍の防御陣の強さを心配していたロングストリートはリーに会って、敵の左翼に戦略的回り込みを行い、「敵と敵の首都との間に良い地歩を確保する」ことで、北軍のジョージ・ミード少将に南軍が構築した防御陣を攻撃させる事ができると主張した。しかし、リーは「敵があそこに明日もいるならば、攻撃しなければならない」と叫んだ。 7月2日のリーの作戦は、まずロングストリート軍に北軍の左翼を攻撃させ、続いてヒルの軍に中央に近いセメタリー・リッジを攻撃させる、一方でイーウェル軍は北軍の左翼に向かう動きを示す、というものだった。ロングストリートはゆっくりと動き始めその旅団の幾つかが到着するのを待って、敵の陣地に近付きながら長い回り道をさせた。ロングストリートに対する戦後の批判では、ロングストリートに対するリーの命令は早朝に攻撃を掛けることであり、その遅れはこの戦闘に負ける重大な原因になったと主張している。しかし、リーはこの軍団到着の遅れに同意し、午前11時まで正式な攻撃命令を出さなかった。午後4時頃に攻撃が始まるとロングストリートはマクローズとフッドに攻撃を掛けさせ(ピケットの師団は到着していなかった)、北軍の激しい抵抗にも優勢であったが、かなりの損失を被ってほとんど成功とは言えなかった。 7月3日、リーはロングストリートに北軍の中央に協働して総攻撃をかけるよう命じた。これにはピケットの師団とヒル軍団の幾つかの旅団をあてるつもりだった。ロングストリートは成功の可能性が無いと考えたので、この命令に従いたくないと大いに強調した。リーに次のように言ったという。 将軍、私は生涯軍人だった。2人で、分隊で、中隊で、連隊で、師団でそして軍隊で戦ってきた兵士と共にあって、皆がそうであるように兵士が何を出来るか知っている。この戦闘に15,000名を掛けてもあの陣地は取れないというのが私の意見だ。 歩兵の攻撃に先立つ砲兵による一斉砲撃の間に、ロングストリートはピケットの師団を発進させる責任を砲兵隊の指揮官エドワード・ポーター・アレクサンダーに渡そうと試みた。実際にピケットの師団が前進するときになって、ロングストリートは頷いて同意を示すだけで、言葉による命令を発しなかった。ピケットの突撃と呼ばれるこの総攻撃はロングストリートが予想した以上の損失を被った。これがゲティスバーグにおける南軍の敗北で決定的なポイントであり、リーは翌日バージニアに引き返す命令を出した。 戦後のロングストリートに対する批判は、ゲティスバーグの戦いにおけるその行動だけでなく、リーやその戦略に対する乱暴な発言に基づいている。例えば次のものである。 リーが興奮しバランス感覚を欠いていたことは最初の日の午後で明らかである。大量の血が流れて気付かせるまではその気分の中で動き続けた。
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ゲティスバーグの戦い
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「ゲティスバーグ (ペンシルベニア州)」の記事における「ゲティスバーグの戦い」の解説
1863年7月1日から3日まで、南北戦争中の最大の戦いの1つであるゲティスバーグの戦いが、町の近くの畑と高原を越えて勃発した。 ロバート・E・リー指揮下の北バージニア軍は、戦闘の初期段階で成功を収めたが、最終的にはジョージ・G・ミード指揮のポトマック軍に敗れた。リーはポトマック川を越えて撤退した。 死傷者は多く、南軍は27,000人、北軍は23,000人を超える。ゲティスバーグの住民は南軍の退却後、負傷者の世話をし、死者を葬った。兵士の遺体は、ゲティスバーグ国立墓地に埋葬された。1863年11月19日、エイブラハム・リンカーンはゲティスバーグ演説を行った。
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ゲティスバーグの戦い
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「ジョージ・ヒューム・ステュアート」の記事における「ゲティスバーグの戦い」の解説
1863年7月1日から3日に行われたゲティスバーグの戦いは、南北戦争の転回点になったと言われる。この戦いでリー軍の侵攻が止まった。ステュアート隊はシャープスバーグから130マイル (210 km) を行軍し、7月1日夕方、「日没の少し前に、疲れ切り、足を痛めた状態で」ゲティスバーグに到着した。「隊員の多くは裸足だった」ステュアート隊は7月2日夜に北軍前線を攻撃し、カルプス・ヒル低部とスパングラーズ・スプリングに近い石壁の間に地歩を確保した。しかし、まだ疲れていない北軍の援軍がそれ以上の前進を阻止したので、それ以上の陣地確保はできなかった。その夜間に北軍は大量の大砲を運び込んでおり、その音を聞いた楽観性のステュアートは、敵が荷車を曳いて退却していることを期待することになった。 7月3日朝になると、北軍の防御が万全になっており、500ヤード (450 m) の距離からその大砲が「恐ろしく、いらいらさせる砲撃」を行い、その後にはステュアート隊の陣地に対する恐ろしい襲撃が続いた。その結果は第3旅団の「恐ろしい殺戮」になった。部隊は救援もなく長時間戦ってきており、弾薬は尽きかけていたが、それでも陣地を確保し続けられた。その朝遅くに、ジョンソン少将が「敵を打ち払う能力を確信し、北軍前線全体を後退させられる」と、防御を厚くされていた敵前線に対する銃剣突撃を命じた。ステュアートはその命令に愕然とし、この攻撃について強く批判的だったが、直接命令に従わざるを得なかった。ステュアートは「左向け左」と「右へならえ」と命令し、激しい縦射を受ける中を、兵士を送り出した。ステュアートの第3旅団は北軍の胸壁に向かって前進し、何度かカルプス・ヒルを支配しようとした。そこは北軍の前線の中でも重要な地点だった。その結果が「スローターペン」となった。メリーランド第2歩兵連隊とノースカロライナ第3歩兵連隊が、北軍3個旅団によって強力に守られた陣地に勇敢に突撃したが、敵の前線から20ペース (15 m) まで近づいた兵士は少数だった。自隊の損失が甚だしかったので、ステュアートは泣き崩れ、腕を振り絞り、「私のかわいそうな部下よ」と叫んだと言われている。カルプス・ヒルへの攻撃は失敗し、ジョンソン師団全体でほぼ2,000名の損失を出した。そのうち700名はステュアート旅団のみのものであり、師団に入る他の旅団に比べても遥かに多かった。7月8日、ヘイガーズタウンに居た時点で、戦闘前の戦力2,200名は、任務に就ける者ちょうど1,200名になっていたと報告されている。メリーランド第2歩兵連隊とノースカロライナ第3歩兵連隊の損失率は2分の1から3分の2だった。僅か10時間で被ったものだった。 ステュアートが非常に厳しい条件下で勇敢に戦ったのではあったが、ジョンソンの報告書にステュアートも他の士官も名前が挙がっていなかった。ゲティスバーグは、南軍にとって追い風から向かい風に変わる戦いであり、その後はリー軍が後退し、最後はアポマトックス・コートハウスでグラント将軍に降伏することになった。
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ゲティスバーグの戦い
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「ジョシュア・チェンバレン」の記事における「ゲティスバーグの戦い」の解説
チェンバレンはゲティスバーグの戦いでその名声を得た。リトルラウンドトップでのその果敢な防御が多くの出版物や話の焦点になった。チェンバレンは、ストロング・ビンセント大佐からリトルラウンドトップ南斜面の防御に派遣され、その第20メイン連隊が北軍前線の最左翼、その右手には第83ペンシルベニア歩兵連隊、第44ニューヨーク歩兵連隊および第16ミシガン歩兵連隊が並んだ。チェンバレンは直ぐに、ビンセント大佐がリトルラウンドトップの戦術的重要さに拘っていたことを理解し、第20メイン連隊は如何なる犠牲を払っても北軍左翼を守る必要があることが判った。メイン出身の部隊は南軍ウィリアム・C・オーツ大佐が指揮する第15アラバマ連隊北軍陣地の側面を衝こうとして丘を駆け上がってくるのを待った。南軍は何度も何度も攻撃し、メイン連隊はほとんど後退させられそうになった。チェンバレンはその退っ引きならない事態を認識し、その左翼部隊に(この時南東を向いていた。連隊の他の部隊は西を向いていた)銃剣突撃を命じた。その日のチェンバレンの報告書では、「その危機に際して、私は銃剣を命じた。その言葉で十分だった」と書いていた。 第20メイン連隊は丘を駆け下り、その左翼が常に回転運動を続けて突撃戦線をヒンジのように振らせ、正面攻撃と側面攻撃を同時に生じさせた。その結果、南軍兵を多く捕獲し、自軍の側面をうまく救った。チェンバレンは銃弾がその剣の鞘に当たって跳ね返り太腿に当たったときと、不発弾か破片が足に当たったときの2回、軽傷を負った。リトルラウンドトップでのその頑張りに対して、「ラウンドトップのライオン」という渾名で知られるようになった。1863年の後の時期に、チェンバレンはマラリアに罹り、快復するまで任務を外された。 1864年4月、チェンバレンはポトマック軍に戻り、ピーターズバーグ包囲戦直前に旅団長に昇格した。6月18日の第二次ピーターズバーグの戦いにおける主要戦闘で、右腰と脚の付け根を貫通する銃弾を受けた。チェンバレンはその傷にも拘わらず、剣を引き抜いてそれを地面に立てて直立姿勢を保ち、退却の気分が高まるのを食い留めた。チェンバレンはそのまま数分間立ち続けたあとに倒れて、失血のために気を失った。その傷について師団軍医は致命傷と見なし、チェンバレンは死ぬものと予測した。チェンバレンの戦死がメイン州の新聞で伝えられ、北軍総司令官ユリシーズ・グラント中将はチェンバレンを准将に戦場昇進させた。グラントは様々な理由でそれほど迅速にチェンバレンを昇進させたが、その理由の一つはチェンバレンが死んだという誤報がグラントに届いたことだった。生きていると期待されていなかった(繰り返すがメイン州の新聞で報じられ、グラントには誤報が届いた)チェンバレンは驚くべき意志と勇気を示して、11月にはその部隊に戻った。妻のファニーを含め多くの者がチェンバレンに除隊を勧めたが、チェンバレンは終戦まで従軍することに決めていた。 1865年初期、チェンバレンは第5軍団第1師団の第1旅団指揮を任され、勇気と決断を持って指揮を続けた。3月29日、その旅団はグラントが戦争を終わらせるために最後の進行を行う中で、クエーカー道路の戦いにおける主要戦闘に参加した。チェンバレンは部隊に損失を受け、自身も負傷し(左腕と胸)、さらに捕まりそうになりながら、最後は成功し、エイブラハム・リンカーン大統領から少将への名誉昇進を受けた。 チェンバレンは戦争全体では、20の戦闘と多くの小競り合いに参戦し、4度その勇気をうたわれ、乗っていた馬6頭が銃で撃たれ、自身も6回負傷した。
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