ゲティスバーグ方面作戦とメリーランドへの侵攻
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「ジョージ・ヒューム・ステュアート」の記事における「ゲティスバーグ方面作戦とメリーランドへの侵攻」の解説
ステュアートは傷が治癒され軍隊に復帰したときに、ロバート・E・リー将軍から、約2,200名の第3旅団指揮を任された。この部隊は北バージニア軍のエドワード・"アレゲニー"・ジョンソン少将の師団に属していた。この旅団を指揮していたローリー・コルストンはチャンセラーズヴィルの戦いにおける働きでリー将軍から失望され解任されていた。この旅団は、メリーランド第2歩兵連隊(解隊されたメリーランド第1歩兵連隊の後継部隊)、ノースカロライナ第1歩兵連隊、同第3歩兵連隊、バージニア第10歩兵連隊、同第23歩兵連隊、同37歩兵連隊で構成されていた。様々な州から出てきた連隊の間で競合関係があり、それが旅団内の問題を生じさせていたので、リーは、「古い軍隊」の者であるステュアートならばそれらを効果的に纏め上げることができると期待していた。さらに戦争のこの段階で、リーには経験を積んだ上級指揮官がかなり不足するようになっていた。しかし、ステュアートが軍隊に戻って指揮を執ったのは、進行中だったゲティスバーグ方面作戦のほんの1か月前のことだった。 1863年6月、リー軍は北のメリーランド州に侵攻した。北軍の支配領土に入るのは2回目だった。ステュアートは馬から跳び下りて、生まれた大地に接吻し、歓声を上げて逆立ちしたと言われている。その副官の一人は、「我々はメリーランドを愛した。その意思に反する縛りにあると感じた。それを解放するために関わる望みの意気を燃やした。」と述べていた。補給係将校のジョン・ハワードは、ステュアートが「17回の二重前転」を繰り返し、その間に州歌の『メリーランド・マイ・メリーランド』を口笛で吹いていたと、回想していた。そのようなお祝いも短命だった。1863年7月1日から3日に行われたゲティスバーグの戦いで、ステュアートの旅団は大きな損失を出した。リー軍の北部侵攻は当初うまくいった。6月13日から15日に起きた第二次ウィンチェスターの戦いでは、ステュアートはジョンソンの師団で戦い、南軍の勝利に貢献し、その間に敵兵約1,000名を捕虜にし、自隊の損失は戦死9名、負傷34名と、比較的軽かった。
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