ゲティスバーグと秋の操軍 (1863年)
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「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「ゲティスバーグと秋の操軍 (1863年)」の解説
詳細は「ゲティスバーグ方面作戦」、「ゲティスバーグからの撤退」、「ブリストー方面作戦」、および「マイン・ランの戦い」を参照 1863年6月、リーはチャンセラーズヴィルでの勝利につけこもうと考え1862年の戦略を繰り返して、今一度北部への侵略を進めることにした。このために軍隊を補充し、ヴァージニアの農夫には戦争の無い期間を与え、北部のハリスバーグやフィラデルフィアあるいはボルチモアといった重要な都市を落とすことで北部文民の士気を脅かそうとした。アメリカ連合国政府は渋々ながらリーの戦略に承認をあたえた。というのもミシシッピ州ビックスバーグの川の要塞がユリシーズ・グラントのビックスバーグ方面作戦で脅かされており、ジェファーソン・デイヴィス大統領はその成り行きを心配していたからであった。ジャクソンの戦死を受けて、リーは北バージニア軍を3軍団に編成し、それぞれロングストリート中将、リチャード・イーウェル中将およびヒル中将に預けた。 リーはフレデリックスバーグから北西に進軍を始め、シェナンドー渓谷に進んだ。そこではブルーリッジ山脈がリー軍の北への動きを隠していた。ジョセフ・フッカーはまだポトマック軍の指揮を執っており、リー軍を見つけるために騎兵隊を放った。6月9日、ブランディ・ステーションの戦いが起こり、騎兵が大部分を占める戦いとしては最大規模のものとなったが、決着は付かなかった。フッカーは全軍で追跡を開始したが、6月28日、リンカーン大統領はとうとう忍耐できなくなり、フッカーを解任してその後釜に第5軍団の指揮官ジョージ・ミード少将を据えた。 リーは北軍が前と同じくらい機敏に動いているのを見て驚かされた。リー軍がポトマック川を渡ってフレデリックに入った時、南軍はペンシルベニア州にかなり広く広がっていた。イーウェル軍はハリスバーグからサスケハナ川を渡って進み、ロングストリート軍はチェンバースバーグの山の背後に回った。ジェブ・スチュアートの騎兵隊が北軍の東側側面を広範囲に荒らしまわり、柄にもなく本部には寄って来なかったので、リーは敵の位置や意図を掴めないままでいた。リーはメリーランド方面作戦の時と同様に、個別に撃破される前に全軍を集結させねばならないと考えた。リーは全軍にゲティスバーグの近辺に移動するよう命令を出した。 ゲティスバーグの戦いは南北戦争の転回点と考えられることが多い。ミードは16万名の大軍を動員して3日かけてリー軍を破り、51,000名の損失を蒙った。7月1日の朝に会戦形式で始まり、南軍のヘンリー・ヒースの師団に属する数個旅団がビュフォードの騎兵隊と衝突し、続いてジョン・F・レイノルズの第1軍団に当たった。北軍の第11軍団が応援に到着すると、第1軍団ともども北から到着したイーウェルとヒルの軍団に叩かれ、町を抜けて撤退させられ、町の南の高台に防衛陣地を布いた。7月2日、リーはミード軍の両翼に繰り返し大規模攻撃を掛けた。リトル・ラウンドトップ、デビルズデン、ホィートフィールド、ピーチオーチャード、東セメタリーヒルおよびカルプスヒルで激しい戦いが行われた。ミードはその防衛隊を内側の戦列に移動させることができ、南軍の前進を食い止めることができた。7月3日、リーは北軍の中央にピケットの突撃を掛けさせ、3個師団の大半を死なせてしまった。この時までにスチュアートが戻り、北軍の後部に進もうとして主戦場の東で騎兵同士の決戦を挑んだが決着は付かなかった。両軍共に7月4日はその陣地に留まり(同じ日にビックスバーグの戦いは北軍の圧倒的勝利で終わっていた)、リーはポトマック川を渡ってバージニアに戻る決断をした。 ミードによるリー軍の追撃は恐る恐るのものであり、成果は無かった。リンカーンたちはゲティスバーグの後始末をうまくやっていれば戦争を終わらせることが出来たと信じたので、ミードを厳しく非難した。ミードが行ったその年の秋の2つの攻撃作戦、ブリストー方面作戦とマイン・ランの戦いは大した戦果を得られなかった。どちらの場合もリーは繰り返しミード軍を撃退した。ミードは正面衝突による損失を出すことを躊躇った。
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