ゲティスバーグ、そして戦死
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「リチャード・ブルック・ガーネット」の記事における「ゲティスバーグ、そして戦死」の解説
ゲティスバーグ方面作戦のとき、ガーネットの旅団はジョージ・ピケットの師団に属し、行軍命令のためにチェンバーズバーグから1863年7月2日の午後遅くなってからでしか戦場に到着できず、ゲティスバーグの戦い初めの2日間は参戦できなかった。ピケット師団は7月3日にリー将軍からセメタリーリッジにいる北軍中央への大襲撃を率いるよう命じられた。ガーネットの旅団はピケット師団の前衛左部隊となり、ジェイムズ・L・ケンパー准将の旅団の隣だった。ガーネットはどんな形でも歩兵突撃を率いたいとは思わなかった。熱があり、乗馬に蹴られた時に脚を怪我して歩けなかった。しかしガーネットは中断した軍法会議では晴らせなかったカーンズタウンから引き摺った軍人としての不名誉の記録に形を付けたいと切望した。他の士官達から抗議があったにも拘らずガーネットは馬上で兵士達を戦闘に導くことを主張し、北軍のライフル狙撃兵の格好の目標になった。 セメタリーヒルの北軍防御陣に向かって進軍開始する前に、ガーネットはもう一人のピケット師団の旅団長ルイス・アーミステッド准将と提案された突撃について会話を交わした。ガーネットは「これはやってみるには絶望的なことだ」と言い、これに対してアーミステッドは「殺戮は恐ろしいものになるだろう」という予測を付け加えた、とされている。 ガーネットはセメタリーリッジの「アングル」まで20ヤード (18 m) まで迫ったが、その後二度とその姿が目撃されることは無かった。同僚の将軍バーケット・D・フライは、ガーネットが散弾に当たり即死したと伝えた。恐らくガーネットの遺体は損傷が激しかったので、後にそれと識別できなかった。その同僚達は乗馬のレッドアイ号が無人でセミナリーリッジの南軍前線に戻ってきたときに戦死したと分かった。ガーネットは突撃に参加したアーミステッド、ケンパーおよびアイザック・トリンブルと共に、この3日間の戦闘で損失となった17人の南軍将軍のうちのひとりとなった。
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